5分でわかる大塩平八郎の乱!概要や経緯、大丸との意外な関係性などを解説!

更新:2021.11.14

1833年に起きた天保の大飢饉をきっかけに、飢えに苦しむ人が増大した江戸末期。餓死する人が数多く出ているにも関わらず庶民への救済策を講じない幕府に対し、大塩平八郎が起こしたのが「大塩平八郎の乱」です。幕府の支配が弱まるきっかにもなったこの事件の概要やきっかけ、大塩平八郎の最期、百貨店「大丸」との意外な関係性などをわかりやすく解説していきます。あわせておすすめの関連本もご紹介するので、最後までチェックしてみてください。

ブックカルテ リンク

大塩平八郎の乱の概要をわかりやすく解説

 

1837年に大阪で発生した反乱の名称です。大坂町奉行所の元与力である大塩平八郎が、仲間とともに江戸幕府に対して起こし、「大塩の乱」とも呼ばれています。

彼は代々、大阪の東町奉行組与力をしていた家の8代目。与力とは幕府の役職名で、上官が町奉行をする際の補佐にあたり、それなりの地位がありました。大塩平八郎は、頑固者でありながらも汚職を嫌う正義漢として、不正を次々と暴き、同僚の悪事も内部告発するほどの辣腕ぶりだったそうです。

当時、腐敗していた奉行所内では、少なからず彼を憎んでいる者も存在していました。しかし市民からは尊敬を集め、上司の高井実徳(たかいさねのり)も、彼を後押ししていたそうです。

しかし1830年にそんな高井が転勤することになります。すると大塩は与力を退職し、独学で「陽明学」を学ぶようになりました。陽明学とは、自身の純粋な心の声に素直に従い、自分が本当に正しいと思うことは何かを考える学問のことです。

大塩平八郎の乱が起きた理由と経緯。きっかけは「天保の大飢饉」だった

 

大塩平八郎が生きた1800年代の日本は、長期にわたって飢饉が発生した時期でした。江戸時代には4回の大飢饉がありましたが、彼が経験したのは1833年から1839年にかけて起きた「天保の大飢饉」です。主な原因は、大雨による洪水や冷害などが原因の大凶作でした。

約50年前に起こった「天明の大飢饉」に比べれば死者は少なかったものの、それでもおよそ5年間で人口は125万人も減少したといいます。当時の幕府や商人たちの対応に不満を抱いたことが、彼が反乱を起こした大きな理由です。

「天保の大飢饉」は、1833年の秋から1834年の夏にかけてと、1836年の秋から1837年の夏にかけて、特に大きな被害があったといいます。1度目は大阪西町奉行を務めていた矢部定謙(さだのり)やその部下が尽力して切り抜けることができました。しかし2度目の際には矢部が転勤していて対応できず、さらに大阪東町奉行を務めていた跡部良弼(あとべよしすけ)が幕府の機嫌をとろうと大阪の米をむりやり江戸に回してしまったのです。

また豪商たちが米を買い占めたため、価格が高騰。民衆は手を出すことができず、ますます食べるものが無くなってしまいました。

大塩平八郎は、大阪で暮らす人々が苦しんでいることに危機感を募らせます。東町奉行の跡部に対してさまざまな働きかけをしますが、まったく聞き入れてもらえません。政策が却下されると、今度は私財を投げ打って救済活動をおこないました。

しかし跡部は、江戸へ米を回すことを徹底するために、ほんの少しの米を買いに来た人を捕まえるほどの強硬策をとるように。治安が悪化していきます。

そこで大塩は、奉行らを討ち、豪商も焼き討ちにするしか根本的解決は望めないとして、武装蜂起を決意することになるのです。1837年のことでした。

しかしこれは同志に密告されて当日に鎮圧。それならばと跡部の暗殺を企てて1ヶ月あまり潜伏するのですが、これも幕府にばれることとなりました。最期は養子とともに短刀と火薬を使って自決。44歳でした。幕府の元役人でありながらも、その幕府に牙を剥いた彼の行動は、大きな衝撃を与えることとなりました。

大塩平八郎の乱、最期とその後

 

反乱が頓挫し、自決をした大塩平八郎。幕府の探索方に小屋を包囲されたため、火薬を用いて小屋ごと燃やしたといいます。後に発見された遺体は、本人と識別できないほど損壊していたそうです。

そのため、実は大塩がまだ生きていて、どこか別の場所へ逃げたのではないかという噂が飛び交いました。同年にはアメリカのモリソン号が日本の沿岸へやってきたことも相まって、「大塩平八郎と黒船が江戸を襲撃する」とも言われたそうです。

彼が起こした一連の事件をきっかけに、全国でも同様の乱が勃発しました。自身の身に危機感を覚えた大坂町奉行の役人たちが、市中の巡察を中止する事態になったといいます。

大塩平八郎の乱を免れた!?百貨店「大丸」との意外な関係性とは

 

近畿発祥の老舗百貨店で、大阪・京都・神戸・東京・札幌に店舗を構えている「大丸」。1717年に下村彦右衛門正啓が呉服店として開業したのが始まりです。

正啓は背が低くて頭が大きく、また耳たぶが垂れさがっている風貌をしていて、幸運を招くとされる「福助人形」のモデルとされています。1736年に大丸総本店を開店した際に、経営理念として「先義後利」という言葉を掲げました。

「先義後利」とは、義を先にして利を後にするものは栄えるという意味。ここでの義は、商売における正しい道、公共のために尽くす気持ちを指しています。つまり「顧客第一主義に徹すれば利益は自ずからついてくる」という考え方です。

正啓は毎年冬になると、貧しい人々に食べ物や着物を与え、人が集まる場所である寺社に灯篭や手ぬぐいを大量に寄付するなどボランティア活動に精を出していたそう。

1837年に大塩平八郎の乱が起きた際は、大塩は利を優先した富豪や大商人をことごとく焼き討ちしていましたが、「大丸のことは犯すべからず」と部下に命じていました。

「先義後利」の精神は、現在も大丸の企業理念として継承されているそうです。

大塩平八郎の乱を描いた長編小説

著者
松原 誠
出版日

 

飢饉に対する幕府の無策と、役人の不正腐敗に決起した大塩平八郎。その生きざまと彼が起こした乱の全貌を描いた長編小説です。

清廉潔白で頑固者だった彼を、妻や身近な人たちはどう見ていたのでしょうか。大塩平八郎の乱を含め、彼の生きざまを第三者の視点から読める作品です。

陽明学者としての大塩平八郎

著者
吉田 公平
出版日

 

義憤に駆られて反乱を起こした大塩平八郎。与力を退職した後、ほぼ独学で陽明学を研鑽していた学者でもありました。『洗心洞箚記』は、読書録の形式で陽明学と彼の思想を記した大塩の代表作で、明治時代に出版されると、多くの人に読み継がれたそうです。西郷隆盛も肌身離さず持ち歩いたのだとか。

本書はその『洗心洞箚記』に、現代語訳と書き下し文を加えたもの。大塩がどのようなことを考え、その思想はどのようにして大塩平八郎の乱に繋がっていったのか、一端を感じることができるでしょう。

森鴎外が描く大塩平八郎の乱

著者
森 鴎外
出版日
1940-01-10

 

明治、大正時代を生きた文豪・森鴎外。本書は鴎外が大塩平八郎の乱の計画、実行、結末を描き、その意義を問う作品です。

心理描写などはほとんどなく、史料からわかる事実経過を淡々と連ねていく小説。鴎外の歴史小説の特徴でもある、「事実を徹底的に調査して客観的に記述する」手法が顕著に表れているといえるでしょう。

ただそんななかでも随所に鴎外の思想が混ざりこんでいる部分があり、歴史的事実をきちんと理解したうえで本書を読むと、その意志を感じ取れてより楽しめるのではないでしょうか。

幕末に、幕府から朝廷へと政権が移りゆくきっかけのひとつでもあった大塩平八郎の乱。興味がわいた方はぜひおすすめした作品を実際に読んでみてください。

  • twitter
  • facebook
  • line
  • hatena
もっと見る もっと見る