2000年以上続いたマヤ文明。概要と栄枯盛衰、ピラミッド、滅亡の謎などについて迫っていきます。あわせておすすめの関連本も紹介するのでぜひご覧ください。
マヤ文明が成立したのは、アメリカ大陸の真ん中あたりに位置する「中米」。現在この地域はメキシコ、グアテマラ、ベリーズ、ホンジュラス、エルサルバドルの5国にまたがっています。また中米の古代文明を総称して「メソアメリカ文明」とも呼んでいます。
紀元前2000年頃、マヤ地域で都市の発展が起こり、それまで局地的だった土器文化が急速に広まっていきました。これがマヤ文明の始まりで、それ以降形を変えながら1500年代まで繁栄します。ちなみに日本で高度な文明が発達しはじめたのは縄文時代の紀元前700年代なので、かなり早くから発展していたことがわかるでしょう。
マヤ地域は熱帯雨林の低地南部、サバンナ地帯の低地北部、気温の低いマヤ高地の3つに分けられます。それぞれが異なる厳しい環境に置かれながらも、小さな都市がいくつも存在して文明を形成しており、アジアのような統一国家は生まれませんでした。
そのなかでも低地南部は比較的環境に恵まれていて、多くの都市が建設され、ピラミッドをはじめとする遺跡なども多数残されています。
マヤ文明は、先古典期(紀元前2000年頃~250年頃)、古典期(250年頃~950年頃)、後古典期(950年頃~1524年)と大きく3つの時期に分けられます。なかでも古典期には多くの都市が発展し、文明の全盛期を迎えました。ここではその古典期から滅亡までの流れを紹介します。
300年頃にティカルやカラクムルといった都市が発展し、周辺の小国に対して強い影響力を持つようになります。大型のピラミッドや石碑、雨水を利用するための貯水槽などが築かれて、文明が発展していきます。その後ティカルやカラクムル以外の小都市国家も文化水準が上がり、マヤ文明3000年以上の歴史のなかでも全盛期といわれるほどの発展を遂げることになりました。
また、文明全体に伝わっていた文化も独特です。マヤ暦に代表される天文学、20進法、表意文字などかなり早くから発展していたものもあります。
さらにマヤ文明が起源になったものとして、チョコレート、七面鳥の家畜化、マヤブルーと呼ばれる染料などがあげられます。ほかにも神秘的な精神世界を反映するものとして、音楽と血を捧げる儀式や、歯牙変工(歯を削ること)の痕跡が今でも発見され続けているようです。
しかし800年代に入ると、このマヤ地域で原因不明の都市消滅が起こり、文明の中心はユカタン半島北部へと移動します。ここではチチェン・イッツァを中心にメキシコとマヤの2つの文明が混合した世界が形成されました。
1200年代に反乱によってチチェン・イッツァが衰退。反乱軍や貴族による「マヤパン政権」がおよそ200年間続くことになります。しかしこれも反乱によって崩れ、再び統一されることはありませんでした。
その後1517年にスペイン人がマヤ地域に現れ、コンキスタドールと呼ばれる探検家が次々と先住民族を滅ぼしていきます。マヤ高地や低地北部は制圧されてしまいました。
密林地帯である低地南部はひっそりと文明を存続させていましたが、1697年にタヤサルという都市が陥落し、完全に滅亡することになるのです。
現在もマヤ人の子孫はいるものの混血がすすんでいるため、生粋のマヤ人は存在しないといわれています。
マヤ文明を象徴する建築物といえばピラミッドでしょう。発見されているなかでもっとも古いのは、紀元前1000年頃に成立したセイバル遺跡にあるものです。そのほかチチェン・イッツァの遺跡には「カスティーヨ」という四面建築のピラミッドが残っています。
マヤのピラミッドとエジプトのピラミッドには、建築様式に違いがあります。エジプトのピラミッドは四角錘状で、建物下部の石室に遺体を安置する棺があるのが特徴。一方でマヤのピラミッドは楕円形などさまざまな形状があり、建物の頂点に部屋が設置され、そこへ続く長い階段が付けられているのです。
これは、マヤ人が「天界」「地上界」「地下界」に分かれているという精神観を持っていたことに関係しています。地下界は「あの世」のことで、彼らはこれが9層に分かれていると信じていたようです。
そしてピラミッドも9層の構造でつくられていることから、マヤのピラミッドはあの世をかたどった建物として作られていて、王が死後の世界へ行くための部屋と階段が存在していると考えられています。
このような特徴から、マヤのピラミッドは「神殿」、エジプトのピラミッドは「王墓」としての役割を果たしているとされていましたが、近年マヤのピラミッドからも人骨が発見されたことから、「神殿」と「王墓」両方の機能を兼ね備えていたのではないかともいわれています。
マヤ地域の伝統的な文化のひとつ、生贄。アジアやヨーロッパでも馬や牛、豚などを生贄にする習慣はありましたが、マヤでは人間を用いていました。マヤ文明が滅亡した原因に、生贄が生み出した復讐の連鎖と人口減少もあげられているほどです。
元来マヤ人は、人命はもとより、儀式や精神世界を重んじる温厚な民族。しかし後古典期の民族移動によって血気盛んなトルテカ人との混血が進んだことで、生贄が実施されるようになったといいます。
トルテカ人は、夕方に沈んだ太陽が夜のうちに邪悪なエネルギーを蓄え、人に災いをもたらすことを恐れていました。その恐怖心から毎日のように生贄を捧げていたようなのです。
生贄の対象となるのは主に奴隷。神殿に捧げられると、マヤブルーという染料で体を青く塗られ、黒曜石で作られたナイフで心臓をえぐられます。流れ出した血は「チャックモール」と呼ばれる寝姿の人像に塗り、えぐり取った心臓を像の掌に設置して、遺体を階段から引きずり下ろすそう。
階段下にいる者で遺体の皮をはがし、その皮を被って踊りを捧げるのです。一連の儀式が終わった後は、遺体の肉をスープにして食べました。
先述したように、800年代に突然マヤ地域で都市消滅が起こり、それまで繁栄していた文明が消えています。歴史ミステリーのひとつとしてさまざまな説が唱えられているので、いくつかご紹介しましょう。
・メキシコに侵略された説
800年代、マヤ地域ではメキシコとの争いがたびたび起こっていたと考えられていて、土器や壁画からもメキシコの影響が強く見られます。
しかしメキシコ側には侵略した痕跡が見つかっておらず、謎のままです。
・干ばつで飢餓が原因の説
マヤの高原地域では、800年頃から台風の訪れる数が極端に減少し、作物が育たなくなりました。それによって文明の中心がチチェン・イッツァに移動しますが、そこでも同時期に干ばつが起こり、滅亡したのではないかといわれています。
しかし当時のマヤ人の骨を調べたところ栄養状態は悪くないため、栄養失調が直接の原因ではないともいわれています。
・資源不足で争いが起きた説
焼畑農業と森林伐採によって、徐々に生活圏を失っていったのではないかとも考えられています。しかし彼らは先古典期から長きにわたり、「ミルパ・サイクル」と呼ばれる方法で密林農耕をしながら森林を維持してきたので、この説には反論が多いようです。
・交易経路が変わり旧来の場所では暮らせなくなった説
当時マヤ文明はメキシコ高原やアメリカ西部と貿易をし、塩やカカオ、黒曜石などを得て生活をしていました。この交易の経路が変わったため、民族移動せざるをえなかったともいわれています。一方で文明が衰退し中心地が変わったため、交易経路も変更されたという考えもあり、不確実です。
このほかにもいくつか説がありますが、どれも反論できる余地があり決定的ではありません。ただ800年代になると各地の都市国家で石碑の記録が途絶えていて、防壁が築かれている遺跡や、身分の高い老若男女の遺体が手足を切断された状態で発見されているので、なんらかの争いが起きていたことは間違いないようです。
- 著者
- 芝崎みゆき
- 出版日
- 2010-05-22
作者は、イラストレーターとして活動し、古代エジプトやギリシャをはじめとする古代文明に精通している芝崎みゆき。本書は、マヤ文明やアステカ文明についてイラストを交えながら記した一冊です。
解明されている事実はもちろん、生贄や神話についての記述も多く、表紙の脱力感と内容の濃さのギャップに驚かされることでしょう。当時の人々の考え方に現代人の目線でツッコミを入れているのも面白いポイント。読後はいつの間にかマヤ文明の魅力にとりつかれているはずです。
- 著者
- 多々良 穣
- 出版日
- 2008-11-01
本書は、教科書に載っているような基本的なことから、宗教、王権、環境、世界遺産など幅広いジャンルについて記した一冊。マヤの歴史の全容を理解できる、正統派の解説書だといえるでしょう。
文明の歴史を理解するには、そこにいた人々の精神観についても理解する必要があります。本書はマヤ人の思想にも深く迫っているのがポイント。歴史をつくるのは人であり、人を知ることこそが歴史を知ることだと実感できます。
神秘とロマンにあふれた古代文明。知れば知るほどハマってしまうこと間違いなしです。ぜひマヤ文明以外も調べてみてください。