5分でわかる科挙!概要や進士、難易度、問題などをわかりやすく解説

更新:2021.11.13

世界最古の試験制度ともいわれる中国の科挙。朝鮮やベトナム、そして日本にも影響を及ぼしました。いったいどのようなものだったのか、その概要や難易度、問題などをわかりやすく解説し、あわせておすすめの関連本もご紹介します。

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科挙とは。隋につくられた試験制度。

 

古代中国の官吏登用は、推薦による選抜(選挙)でおこなわれていました。しかし高位の官職に推薦される人物は門閥貴族に限られ、彼らが権力を独占する弊害が生じてしまいます。

この問題に対処するため、隋の初代皇帝である楊堅(ようけん)は新たな試験制度を整備。出自に関係なく有能な人物を登用するため、公平な学科試験を通じて官吏を採用しようとしたのです。

これは世界的にみてもかなり先進的な事例で、1700年代に活躍したフランスの思想家・ヴォルテールも、自国の身分制を批判する際に科挙の制度を称賛しています。

隋自体は618年に滅亡してしまいますが、楊堅の試験制度は次の王朝である唐に引き継がれました。そして唐の時代に、この試験制度は「科目による選挙」という意味で「科挙」と呼ばれるようになります。科挙はその後の王朝にも引き継がれ、清末期の1905年に廃止されるまでおよそ1300年にわたって実施されました。

ちなみに科挙を受験できるのは、原則として男性に限られています。ただし唯一の例外として、1851年に太平天国が女性向けの試験を実施しました。

科挙の難易度は?進士や倍率などを解説。カンニングなどの問題も。

 

詳細は各王朝で異なりますが、試験はおおむね複数回にわたって実施され、合格した人々は「進士」と呼ばれます。「進士」となった者は皇帝の臨席する「殿試(でんし)」を受験し、その結果によって後の待遇が決まりました。

科挙は倍率が非常に高いことでも有名で、今日の日本の司法試験よりもはるかに難しく、清の時代の合格率は0.03%前後だったそう。中国では、「五十少進士(五十歳で進士になるのは若い方だ)」ということわざが生まれるほどでした。

科挙の難易度がここまで高い原因は、その試験内容にあります。主に儒教の基本である「四書五経」の内容について出題されるのですが、これに答えるためには膨大な量の「四書五経」を、注釈も含めて完全に暗記する必要がありました。

それだけでなく受験者は、詩作や文字の美しさ、方言のない言葉が喋れるかなどさまざまな技能を要求されます。プレッシャーや過酷な勉強に耐え切れず、発狂したり自殺したりしてしまう受験者もいたそうです。

その一方で、合格すれば強大な権力が保証されたため、カンニングが横行し、極小の豆本や文字をびっしりと書いたカンニング用の下着などが残されています。

またこの過酷な試験に合格するためには、幼いころから勉強に専念できる環境が整っている必要がありました。そのため合格者は経済的に裕福な層に偏りがちで、当初の目的である出自を問わない人材登用からは趣旨が変化していってしまいます。

中国以外の科挙。日本にも伝わっていた。

 

科挙の制度は、中国周辺の東アジア各国にも影響を与えています。

まず朝鮮半島では788年に高麗が科挙を導入、その後建国された李氏朝鮮でも、1894年に廃止されるまで中国とほぼ同じ形式の試験が実施されました。

誰でも受験できることになっていましたが、中国と同様に実際の合格者が「両班(やんばん)」と呼ばれる特権階級中心となってしまう問題が生じています。

また現代では、韓国の試験が過酷なことで有名。日本の国家公務員試験にあたる「高等考試」やセンター試験にあたる「修学能力試験」が、「現代の科挙」と呼ばれることがあるそうです。

ベトナムでは、1075年に当時の李朝によって科挙が導入されました。また1406年から1532年にかけてベトナムが明によって支配されたこともあり、この期間中に制度が整備されてその後の王朝でも中国式の試験を採用しています。中国で科挙が廃止された後も継続し、1919年まで実施されました。

ちなみに、遣唐使を派遣していた平安期の日本でも科挙が導入されています。しかし日本は世襲制の貴族の権限が強く、定着することなく廃れてしまいました。

科挙はなぜ廃止された?

 

難易度が非常に高かった科挙。そのため合格するには幼いころから対策をおこなう必要があり、これが結果的に合格した官僚たちの知識を偏ったものにしてしまうのです。

彼らは「四書五経」を重んじる反面、実学を軽んじるようになってしまいました。この弊害は、「産業革命」を経て欧米の技術力が飛躍的に高まる19世紀以降に深刻化していきます。欧米の化学力に対し有効な対策を打ち出すことができなかったのです。

知識のバランスを欠いた官僚は「マンダリン」と呼ばれ、嘲笑の対象に。このような状況のなか、康有為(こうゆうい)をはじめとする思想家たちから、科挙改革の必要性が叫ばれるようになります。そして清朝末期の改革「光緒新政(こうしょしんせい)」で、袁世凱(えんせいがい)らが科挙の廃止を西太后に上奏。これが裁可され、1905年に廃止されることとなりました。

科挙研究の第一人者が詳細を解説

著者
宮崎 市定
出版日
1963-05-01

 

著者の宮崎市定は、戦後歴史学を代表する歴史学者のひとりです。専攻は中国史で、今日の科挙研究の基盤も彼が築きあげました。 本書では、清代のものを中心に科挙の特徴をわかりやすくまとめています。

軽妙な文章でさまざまなエピソードが紹介され、読み物としても充分に楽しめるでしょう。副題には「中国の試験地獄」とありますが、本書が発表された当時は日本でも受験戦争の過熱が問題となっており、宮崎はこれらを例にしつつ試験制度の弊害についても議論を展開しています。

その一方で、批判されることの多い科挙のメリットについても言及。試験について考える有益な一冊だといえるでしょう。

西太后の評価を覆す一冊

著者
加藤 徹
出版日
2005-09-01

 

西太后は、清朝末期に事実上の最高権力者として君臨した太后です。従来の評価では「権力に固執した頑迷な人物」とされがちでしたが、本書では肯定的な立場からその人物像に迫っています。

上述したように、科挙の廃止を最終的に決断した西太后。瀕死の清朝を延命させた立役者でもあるのです。

本書では清朝こそが今日の中国の原点になっていると指摘していて、今の日中関係を考えるうえでも示唆に富んでいるといえるでしょう。

科挙に合格せずに皇帝の側近となる「宦官」の実態

著者
三田村 泰助
出版日
2012-10-01

中国で立身出世を遂げるには、科挙に合格するほか、「宦官」になる道がありました。宦官とは去勢された官吏のことで、本書は彼らの果たした役割についてまとめられています。

当初は刑罰の一環としておこなわれていた宦官ですが、科挙に合格しなくても皇帝の側近になれる可能性があるため、しだいに自発的に去勢する「自宮」という者も現れたそうです。

日本には宦官自体はいませんが、彼らのように権力者の側近となった人物は多数存在します。組織の在り方を考えるうえで、有益な一冊だといえるでしょう。

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