5分でわかるノモンハン事件!背景や戦地をわかりやすく解説

更新:2018.5.15

第二次世界大戦の開戦直前に、日本とソ連が衝突した「ノモンハン事件」。歴史の流れを追ううえでとても重要な出来事ですが、あまり聞き馴染みのない方も多いのではないでしょうか。この記事では、事件の背景と経緯、勝敗、内閣、評価や真相などについてわかりやすく解説していきます。あわせておすすめの関連本もご紹介するので、最後まで読んでみてください。

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ノモンハン事件はなぜ起きた?映画化もされた背景を解説

 

1973年に公開された日本映画「戦争と人間 第3部」や、2011年に公開された韓国映画「マイウェイ 12000キロの真実」でも扱われた「ノモンハン事件」。当時の北東アジア情勢を踏まえて、なぜ起きたのか、背景を解説していきます。

この事件は、1939年に満州国とモンゴル人民共和国との間で発生した国境紛争ですが、そこには日本とソビエト連邦が大きく関わっています。

まず1917年、ロシア革命によりロシア帝国が崩壊しました。日本は、共産主義革命が満州や自国に広がることを恐れ、翌1918年から「シベリア出兵」をおこないました。これはロシア革命へ干渉するために、イギリス・フランス・イタリアとともに、シベリアに陸軍を派遣するというものです。

しかしシベリア出兵は失敗に終わり、世界最初の社会主義国家であるソ連が誕生します。1924年にはモンゴル人民共和国を事実上の支配下に置きました。

モンゴルは名目上は独立国となっていましたが、ソ連の影響を強く受け、「ソ連の16番目の共和国」と呼ばれるほどでした。

1931年、日本の関東軍が「満州事変」を起こし、満州国を建国します。翌1932年には日本と満州国の間で日満議定書が締結され、防衛のために関東軍が満州国へ駐留するようになりました。

この関係は、ソ連とモンゴル人民共和国の関係と同様のもの。満州国は表向き独立国でありながら、実質的には日本の支配下に置かれていたのです。

日本とソ連の支配圏は隣り合い、当初は国境紛争として小規模な争いが起こります。しかし徐々に回数が増え、規模も大きくなっていきました。そしてついに大きな衝突を起こすことになるのです。これがノモンハン事件です。

ノモンハン事件の経緯と勝敗

 

事件の舞台となったノモンハンは、現在のモンゴルと、中国の内モンゴル自治区の境界あたりに位置しています。

満州国を建国した当時、日本はこの地域を流れるハルハ川が満州国とモンゴルの国境線であると主張しました。一方のソ連とモンゴルは、ハルハ川より20kmほど東を国境線だと主張します。このことからノモンハン事件を「ハルハ川戦争」と呼ぶこともあります。

この事件は、大きく第1次と第2次の2つに分けることができます。

第1次ノモンハン事件の始まりは、5月11日。ソ連軍のパトロール部隊がハルハ川を越えて東側にやって来ました。満州国軍は、ソ連軍が自国領土に侵入してきたと判断し、交戦状態になります。日本は軽爆撃機5機を出動させ、ハルハ川を越えて撤退しているソ連軍に攻撃を加えました。

モンゴルとソ連は、これを日本の侵略行為と判断。ハルハ川に橋を架け、東岸に国境の防衛線を築きます。日本の第23師団長である小松原道太郎は、ソ連軍の戦力が自分たちより小規模であると判断。5月28日以降、次々と捜索隊や航空隊が出撃しました。

一時は制空権を確保しましたが、地上戦ではソ連軍が日本にはない火砲や装甲車を用い、火力で圧倒。日本軍は大打撃を受けます。5月31日に完全撤退することになりました。敵の戦力の強大さに気が付いた日本軍は、ここから本格的に反撃の態勢を整えることになります。

6月18日、ソ連軍が越境爆撃を開始。第2次ノモンハン事件が起こります。6月27日に日本軍は国境から130kmほど離れたタムスクを空爆。ソ連軍は日本が動き出したと判断し、決戦の準備を進めていきました。

ちなみにタムスクへの攻撃は、日本の大本営の指示ではなく関東軍の独断によるものだったため、昭和天皇は関東軍への不信感を強め、両者の間には亀裂が入ることとなります。

7月初頭、日本はハルハ川を渡って攻撃をしようとしましたが、資材不足で十分な橋を架けることができず、態勢が整わないままソ連軍の迎撃を受けます。7月5日をもって再び撤退し、これ以降日本軍がハルハ川を渡ることはありませんでした。

方針を変え、7月23日に砲撃による総攻撃を開始しましたが、ソ連による砲撃の返り討ちにあいます。25日にはさらなる方針転換を余儀なくされ、攻撃を諦めて越冬の準備をすることとなりました。しかしこれも物資が不足しうまく進みません。

そんななか、8月20日、ついにソ連軍が総攻撃を開始します。日本よりも圧倒的に多くの戦力を揃え、また火炎瓶攻撃への対策として、戦車や装甲車のエンジンを炎上しにくいディーゼルに取り換える万全の態勢でした。

8月28日、指揮官を務めていたジューコフが、スターリンに勝利を報告。関東軍が反撃を試みましたが大本営が中止させ、一連の戦いは終わりを迎えます。9月15日に両国間に停戦協定が成立しました。

ノモンハン事件時の内閣は?

 

ノモンハン事件が起こった当時、日本の首相を務めていたのは平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)です。第1次近衛文麿(このえふみまろ)内閣が総辞職した後、1939年1月5日に発足しましたが、前内閣の閣僚を7人も留任させたことから、「平沼・近衛交流内閣」と皮肉られていました。

政党出身の閣僚は2人しかおらず、官僚からの登用が目立つほか、内政面では制度改革が思うように進まず、国民の支持を集めることができませんでした。

外交政策ではドイツ、イタリアと三国軍事同盟を締結しようと尽力しますが、こちらもうまく進みません。

そんななかノモンハン事件が勃発し、さらに1939年8月23日には、ドイツが日本にとって敵国であるソ連と「独ソ不可侵条約」を締結してしまうのです。

これを受け、8月28日に「欧洲の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」という声明を発表して総辞職。この言葉は当時流行語にもなりました。

8月30日、阿部信行が内閣総理大臣に任命され、新内閣が発足。ノモンハン事件が終結した際の日本の政権は、阿部内閣が握っていたことになります。

ノモンハン事件の評価と真相

 

この事件についての評価は、日露戦争から続く旧態依然とした体質から抜けきれない日本軍が、戦車など近代兵器を積極的に活用するソ連軍に大敗した、という見方が一般的です。事実、日本は、2万人近い死傷者を出す甚大な被害を被っています。

しかし、ソ連が崩壊した後に出てきた事件の資料を見ると、ソ連側が自己正当化のために、実際の数字よりも自軍の損害を小さく、日本側の損害を大きく記録していたことが明らかになりました。そのため、実は日本とソ連は互角に戦っていたのではないかという見方も出てきています。

ただ事件の発端となった国境線の問題については、モンゴル・ソ連側の主張が受け入れられました。日本にとっては得るものが少ない戦いであったことは間違いありません。

ちなみに作家の司馬遼太郎は、ノモンハン事件を題材にした小説を書こうとしていたそうですが、関連資料を調べれば調べるほどむなしく感じてしまい、執筆を諦めたそうです。

緻密な取材で事件を描いた一冊

 

作者の半藤一利は、司馬遼太郎とともに事件の取材をおこなった人物。昭和史や幕末史についての作品も執筆しており、通史をわかりやすく書くことに定評のある作家です。本書では、満州国やモンゴルだけでなく、欧州などの世界情勢も含めて事件を描いています。

全7章で構成されていて、1章と2章は陸軍参謀本部と関東軍について、3章から6章は一連の事件の経過、7章は戦後の様子が記されています。

著者
半藤 一利
出版日
2001-06-01

 

当時前線の兵士たちは、まともな補給を受けることができないまま戦うことを余儀なくされました。事件後には指揮官たちが退役に追いやられたり、自決を強要させられたりしたそうです。

一方で後方の高級指揮官や参謀たちは、一時的に左遷されたものの、再びエリートコースへと復活していました。

本書は事件自体の流れをしっかり押さえつつ、これまで語られなかった軍人やエリートたちの様子も描かれ、日本が敗北を喫するまでの流れが考察されているおすすめの一冊です。

モンゴル民族から見たノモンハン事件

 

著者の田中克彦は、言語学とモンゴル学の研究者。モンゴル語の資料を読み解き、本書を執筆しました。

舞台となったモンゴル人民共和国と満州国、双方に居住していたモンゴル民族の視点から事件を描いているのが新鮮でしょう。軍事的観点でのみ研究されていたノモンハン事件について、新しい気付きをくれる一冊です。

著者
田中 克彦
出版日
2009-06-19

 

元々モンゴルの民族は、他国に頼るのではなく自分たちで独立国家を建国することを望んでいました。しかし彼らの願いは、隣国であるソ連と日本によって潰されてしまうのです。

しかしこのように大国や移住者に翻弄される彼らの話は、けっして遠い過去のものではありません。人類の在り方や領土問題について深く考えさせられる一冊でしょう。

ノモンハン事件の事実と報道

 

事件当時、実は「日本が勝利する」という噂も流れていたそう。厳しい情報統制がおこなわれるなか、報道には嘘と真が入り混じっていました。

しかし当時の憲兵隊は、新聞などのマスコミ報道や、個人的な手紙などもすべて検閲し、それをまとめた「検閲月報」という極秘資料を作っていたのです。

本書はこの月報を分析し、本当のノモンハン事件をあぶり出していきます。

著者
小林 英夫
出版日
2009-08-01

 

現地にいた者たちが正確な情報を伝えようとしても、彼らの手紙は検閲によって握りつぶされ、日本国内では事実と異なる報道がなされていました。やがて作り上げられた虚像に、一般の国民だけでなく、当事者であるはずの陸軍までもが縛られるようになります。

報道の在り方というのはいつの時代も議論されるものですが、情報を取捨選択し、時には疑いの目を向けることがいかに大切か、本書を読むとわかるでしょう。

学校の教科書では1ページにも満たない分量で語られているノモンハン事件。しかし背景や戦いの経緯はとても複雑で、奥の深いものとなっています。この事件を知ることで、前後にある日露戦争や第二次世界大戦についてもより深い理解ができるでしょう。

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