ヨーロッパ文明の基盤を築いたともいわれるローマ帝国。どのような歴史を辿ってきたのでしょうか。帝国のはじまりと滅亡、有名な皇帝、キリスト教の迫害などをわかりやすく解説していきます。またあわせておすすめの関連本もご紹介するので、最後までチェックしてみてください。
建国にまつわる神話によると、ローマは紀元前753年にロームルスによって築かれた都市国家から始まったとされています。後のローマ帝国と区別して「王政ローマ」と呼ばれ、7人の王によって統治されていました。
紀元前509年に王政は打倒され、その後紀元前27年までは元老院と執政官を中心とする「共和政」が展開されます。
しかし、紀元前264年から紀元前146年の間に計3回生じた「ポエニ戦争」により、共和政ローマ内で格差の拡大が深刻な問題となっていくのです。それに加えて、紀元前133年から紀元前27年にかけて「内乱の1世紀」と呼ばれる混乱状態が続きます。
この状態に終止符を打ったのが、後にローマ帝国初代皇帝となるオクタウィアヌスです。彼は内乱を終結させ、紀元前27年に元老院から「アウグストゥス」の称号を贈られました。歴史的にはこの日をもって、「ローマ帝国(帝政ローマ)」が成立したとされています。
帝国内では、しばしば各地の有力人物が皇帝と勝手に名乗る事態が発生します。そのため誰を正式な皇帝と見なすのかは判断が分かれますが、数多くいる皇帝のなかで有名なのが96年から180年にかけて帝位についた「五賢帝」です。彼らの業績を紹介していきましょう。
ネルウァ(在位96-98)
皇帝ネロ、ドミティアヌスの治世下では元老院議員として重用され、ドミティアヌスの暗殺後に元老院から皇帝に指名された人物です。
皇帝に就任した時点ですでに65歳で、統治期間もわずか2年だけ。また親衛隊長のアエリアヌスにクーデターを起こされて軟禁されるなど、皇帝としての権限も強くなかったと考えられています。後継者選びにも難航し、最終的に軍の圧力によってトラヤヌスを後継者に指名しています。
このようにネルウァ自身に特筆すべき業績があるわけではありませんが、後述するようにトラヤヌスは皇帝として非常に評価が高い人物です。トラヤスヌが皇帝になるきっかけを作ったという意味で、彼が最初の「五賢帝」に数えられています。
トラヤヌス(在位98-117)
ネルウァの後継者として即位した、ローマ史上最初の属州出身の皇帝です。ローマの都市機能整備を積極的に推進し、公衆浴場の建築や水道の整備をおこなって民衆から支持を得ました。
その一方で対外的には外征をくり返します。2度にわたる「ダキア戦争」でダキアを征服すると、ローマ人を入植させてこの地を「ロマニア」と名付けました。現在の「ルーマニア」の礎となっています。
その後もナバテア、アルメニア、メソポタミアなど各地を併合し、ローマ帝国最大の版図を築きあげました。彼の治世は後世でも高く評価されていて、「五賢帝」を代表する人物です。
ハドリアヌス(在位117-138)
トラヤヌスの死後に皇帝の座を継承したのは、トラヤヌスを補佐し「ダキア戦争」などで活躍したハドリアヌスです。先代がおこなってきた対外拡張政策を転換し、アルメニアとメソポタミアを放棄。その後は属州の維持に力を尽くすようになります。
2度にわたって長期の巡察旅行を実施し、「ハドリアヌスの長城」など各地に城砦を建築して国境の安定化を図りました。また統治機構の整備にも尽力、官僚機構や法制度の整備を推進します。
こうしてローマ帝国は安定期を迎え、ハドリアヌスの治世下ではパルテノン神殿の再建をはじめ、さまざまな造営事業がおこなわれました。
アントニヌス=ピウス(在位138-161)
ハドリアヌスから指名され皇帝に即位したのが、アントニヌス=ピウスです。「ピウス」は「添え名」と呼ばれるもので、「道義心に厚い、慈悲深い」などの意味があります。この添え名が付けられたのは、晩年のハドリアヌスを献身的に支えたことや、ハドリアヌスが処刑しようとした人々を救ったことなどが理由にあると考えられています。
皇帝としては、ハドリアヌスの政策を継承してローマ帝国の国境安定に尽力、安定期を継続しました。国内では法体系や行政制度の改革を推進し、解放奴隷の市民権獲得条件の緩和を実現。彼の治世は「五賢帝」なかでもっとも長く、23年間も続いています。
ハドリアヌス、アントニヌスの治世下でローマ帝国は繁栄しましたが、消極的な対外政策を続けるうちに周辺諸民族は勢力を拡大。次のアウレリウスの代になると各地で反乱が生じるようになってしまうのです。
マルクス=アウレリウス(在位161-180)
最後の「五賢帝」であるアウレリウスは、ストア派の哲学を学んでいて「哲人皇帝」とも呼ばれました。中国の後漢にも使者を派遣しており、「大秦国王安敦」の名で中国の史書にも登場しています。
アウレリウスの治世下では、各地で反乱が続発するだけでなく、パルティアとの「第六次パルティア戦争」も勃発。この戦いはローマの勝利で終わりましたが、凱旋したローマ軍が天然痘を持ち帰ったため、各地で多くの病死者が出てしまいました。
パルティアとの戦いが収束した後も、アウレリウスは反乱鎮圧のために各地に親征をくり返します。180年3月、ゲルマニアの反乱を鎮圧するための遠征中に、ヴィンドボナ(現在のウィーン)で亡くなりました。
アウレリウスはアントニヌスの養子で、同じく養子だったルキウスとともに皇帝に即位、ローマ帝国史上初となる「共同皇帝制」を採ります。ルキウスの死後は嫡男のコンモドゥスを「正帝」に任命、息子への帝位継承を推進していきます。
こうして「五賢帝」時代に一般的だった、優秀な人物を養子に迎えて帝位を継承する形態は終わりを告げました。その後のローマ帝国は、内外でさまざまな問題が噴出、「3世紀の危機」と呼ばれる大混乱状態に突入することとなります。
ネロは54年から68年にかけて君臨した、ローマ帝国の5代皇帝です。キリスト教徒を迫害した「暴君」として有名ですが、どのような人物だったのでしょうか。
64年7月、ローマの中心部に近いチルコ・マッシモ周辺で、火災が発生します。火はローマ市全域に広まり、全14区のうち10区が焼ける大惨事となりました。後に「ローマ大火」と呼ばれる事件です。
当時ネロは、皇帝として陣頭指揮を執り、被災者の保護や食料の手配をおこないました。しかし彼が批判的な元老院議員や妻を殺害していたこと、出火地点付近に彼の護衛隊長の所有地があったことなどから、「大火はネロが新しい都を作るために放火したものだ」という噂が生じてしまうのです。
こうした悪評をもみ消すためか、ネロはローマ市内のキリスト教徒を大火の犯人と断定。多くのキリスト教徒を放火の罪で火刑としてしまいました。当時、多神教が一般的だったローマでは、一神教のキリスト教は異端だったので、彼らがスケープゴートとして扱われてしまったのです。
キリスト教では「最後の審判」の際に復活する肉体が必要なため、基本的に火葬は避けられています。そんな彼らを火刑にしたため、ネロは後世まで「キリスト教を迫害した暴君」として批判されることとなりました。
ただ近年では、「暴君」というのは一面的なものであるとして、肯定的に評価しようとする動きもあります。彼の出身地であるイタリアのアンツィオでは、2009年に当時の市長の発案でネロの銅像が建てられてました。
「五賢帝」の時代が終わりを告げた後、ローマ帝国は「3世紀の危機」と呼ばれる混乱に見舞われます。
この期間の帝国は、ゲルマン人やササン朝ペルシアの侵入に悩まされる一方で、内部では軍の推薦を受けた無数の「軍人皇帝」が乱立、皇帝の権威が失墜している状態でした。いくつもの属州を失い、無数の皇帝によって領土も分割されていきます。
この混乱は274年にアウレリアヌスがローマ帝国の再統一に成功し、284年にディオクレティアヌスが即位したことで終息します。
ディオクレティアヌスは戦争などの変事に迅速に対応するため、「共同皇帝制」に加えて2人の「副帝(カエサル)」を任命、4人の皇帝による分割統治を実施しました。この制度は一時コンスタンティヌス1世によって廃止されますが、彼の死後は再び分割統治がおこなわれています。
その後は、395年にテオドシウス1世が息子たちに帝国を分割相続させた結果、東西に分裂することとなりました。そのうち西ローマ帝国は、476年にフランク王国の攻撃によって滅亡。一方の東ローマ帝国はその後も生き残り、1453年にオスマン帝国によって滅ぼされるまで存続しています。
- 著者
- 本村 凌二
- 出版日
- 2016-07-09
ローマ帝国の建国から東ローマ帝国の滅亡までを扱っている本書。タイトルのとおり、帝国の全容を掴むことができるでしょう。
わかりやすい言葉で記されているので中高生でも読みやすく、時代ごとに中心人物もまとめられているので人間関係も理解しやすいです。彼らがどのように歴史を動かしてきたのか、興味深く読み進めることができます。合間には現代のローマについてのコラムが挿入されていて、さまざまな観点からローマのイメージを膨らませることができるでしょう。
世界史を勉強している人はもちろん、教養を深めたい社会人にもおすすめの一冊です。
- 著者
- 出版日
- 2006-02-01
ローマ帝国の建国から滅亡まで扱った一冊。見開きごとにひとつのテーマを解説していて、歴史に詳しくない方にもわかりやすい構成になっています。
版図や地図が豊富なのはもちろん、難しい専門用語をほとんど使っていないのも嬉しいポイントでしょう。人物にまつわるエピソードも載っているので、単純に読み物としても楽しむことができます。
- 著者
- 菊池 良生
- 出版日
- 2003-07-19
ローマ帝国が滅亡した後、いくつもの国家が「継承者」を名乗りました。そのうちのひとつに、現在のドイツ付近に存在した「神聖ローマ帝国」が挙げられます。
18世紀に活躍した思想家のヴォルテールが、神聖ローマ帝国のことを「神聖でもなければ、ローマ的でもなく、帝国ですらない」と評したことは有名です。このように神聖ローマ帝国の実態は複雑で、本書はしっかりと理解するためにわかりやすくまとめることを重視した内容になっています。
この帝国がヨーロッパ史に与えた、具体的な影響を学ぶことができるでしょう。