わたしなんかいらない【望月綾乃】

更新:2021.11.13

iPhoneの画面を割りました。ついに、というか、満を持して、というか。見るたびに自分のだらしなさの表象のようで情けない気持ちになり、反省します。良い戒めだよほんとに。

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どうしようもなく落ち込む夜があります。

自信の喪失、将来への不安、目先の心配事、恨み、やっかみ……モヤモヤして寝れない。

そんなとき、本でも読もうかな、と思い表紙を開くのですが、

「この主人公めちゃくちゃ努力して結果出してる……私にはそんな根気も闘争心も……だからダメなんだ…」

とか、

「この女の子めちゃくちゃ可愛い、だって一生懸命だもんな。一生懸命さって人を美しくするよね……そりゃ同時にふたりの男の子に愛されるわけだよね……それに比べて私は後ろ向きで皮肉屋でまったく可愛くない……」

みたいになって、ページを捲る手をそっと止めてしまうのです。

そう、落ち込んでいるときは、ものすごく自意識が過剰です。自分のことばっかりです。でもしょうがないのです。どうしたって、登場人物や起きる出来事に自分を重ねてしまうのです(演劇や映画はそれに加えまたさらに複雑で、俳優という職業柄、知り合いの役者がチョイ役でも出演してるのを観ると、「ああ、あの人はすごく頑張っていて、その頑張りが評価されてこうやって形になっている……それに比べて私は……」みたいになって話の内容半分くらい入って来ないこともあります。超めんどくさいです)。

明るい話だと眩しすぎて目が痛いと文句を垂れ、暗い話だと自分と重ねて気分が落ち込むとくだを巻く攻略超難関クレーマーと化した私は、自意識という大きなギターをかき鳴らしながら叫びます。

「今のあたしには、フィクションに共感とかいりませんからぁ!! 残念!!!!」

残念なのはお前だよ、というツッコミを全身で受け流しながら話を進めて参ります。

「共感」と一言で言ってしまうと、少し足りないような気もするので付け足すと、いわゆる「リアルさ」「現実感」「自己投影」とか、今私が実際に生きている現実世界のことを少しでも想起させられるようなフィクションが見たくないときがある、いうことなのです。

ノンフィクションは大丈夫です、ルポものとか、ドキュメンタリー番組とか、そういうのは逆に見られます。それは、いくら演出が入っているからといってドキュメンタリーはあくまでノンフィクションであり、事実であり、現実世界で実際に起こっていることだからなのでしょう。

でもフィクションは、その世界観がリアルであればあるほど、主人公が自分に近い存在であればあるほど、それがフィクションであるということが色濃く浮き出てくるように感じるのです。ラストに向かう物語の加速度と反比例して、私の心は悪い意味で凪いでいきます。

「ほーら、やっぱり、こいつは私なんかと違った」

もんのすごい捻くれたものの見方ですが、ほんとうに、こんなこと思ってしまう夜が、少なからずあるのです。自分でも嫌になるほどに。

でもどうしよう、寝れない、テレビも今の時間面白いのやってないし、なんかニュース落ち込むことばっかだし、え?  SNS!? アホかそんなもん今絶対見たくねぇ自殺しにいくようなもんじゃねえか!!

そんなときです。私がBLを読むのは。
 

俺たちのBL論

著者
["サンキュータツオ", "春日 太一"]
出版日
2016-01-21

BLには、一切「私」が出てきません。出てくるのは男の子。恋する相手もまた男の子。たまに女の子も出てきますがまあ大抵当て馬か、二人の男子の恋愛を後押しする腐女子(メタキャラ)のどちらかが多いです。

だから、BLを読んでいるときは、感情移入、「俺たちのBL論」的に言えば、ログインするキャラクターがいないのです。

だからね、非常に気楽。自分の全く関係ないところで、全く関係ない男の子二人が、仲良くしたり喧嘩したりすれ違ったりするのをニヤニヤ見てればいいんですから。

これがスタンダードな少女漫画や恋愛小説で、男女の恋愛になってしまうと、自動的に女の子側にログインしてしまい、自分とその子のギャップに違和感を覚えて読むのがつらくなってしまうことがある。

「私」の介入しない、彼と彼だけの世界。私自身が傷つくことはない。安心安心。

本書は、お笑い芸人であり大学教授、私も愛聴しているラジオ『東京ポッド許可局』のパーソナリティーであるサンキュータツオさんが、お友達で時代劇研究家の春日太一さんに、BLの素晴らしさを指南するという、一見「誰得なの……?」な内容。かと思いきや。

すごいです、タツオさん。

好きなこと、興味があることはとことん勉強して研究し尽くすそのスタンスによって、BL、そして腐女子の生態までもがこんなにもわかりやすく解き明かされてしまうなんて。

友達の家にあった「るろうに●心」のアンソロジーコミックをふと手に取って読んでしまった当時小学生の私が抱いたあのなんとも言いがたい複雑な感情。あの感情の正体が、この本を読んではじめてわかった気がします。

なにより好感が持てるのは、郷に入れば郷に従えの精神で、腐女子の作法をきちんと弁えたうえで、さらに男性がBLを好きになるとはどういうことなのか、そしてその楽しさを説いているところ。

腐女子たちが人知れず耕してきた畑を踏み荒らしながら「男だってBL大好きー! イエー!」とずかずか歩くのではなく、間を通っている畑道を「すみませんね、失礼しますよ~」と気を使いながら、しかし快活に歩いている感じ。全然嫌味がない!

相手役(とこの流れで書くとなんかイヤらしい)の春日太一さんも、エンジン全開のタツオさんに乗り遅れることなく、BLアンテナをビンビンに立てて(この表現もなんか……もういいか)付いてくるのです。

自信の研究対象である時代劇でBL妄想してみる実践編になるころには完全に春日さんも立派な腐男子(?)。

「座頭市」や「椿三十郎」、「新選組」それぞれでカップリングを考え、二人で萌えまくっているところは笑ってしまいました。「ミフクロ(三船×黒澤)」なんてパワーワードも飛び出したり。

あと、「腐男子はゲイではない」というトピックの中で語られていた、「二次元において性は属性でしかない」という名言が、まさに目から鱗でした。猫耳やサイボーグ、なんていう属性と同列に、男、というキャラクターが存在するだけ、という話。現実世界の同性愛、セクシャルマイノリティというものと、BLは、まったくの別物である。

考えてみりゃ、フィクションなんて全部そうなんだよな。

自分や現実と混同しがちで、だからこそ面白いのだけど、でも、フィクションはフィクション。

そう思ったら、あんなに読む気が進まなかった本や漫画たちを、少しずつ読みたくなってくるのでした。

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