604年に聖徳太子や蘇我馬子によって制定された、冠位十二階。今回は、概要や制定理由、色と冠位、遣隋使との関係などをわかりやすく解説します。あわせておすすめの関連本も紹介するので、ぜひご覧ください。
603年、推古天皇の摂政を務めていた聖徳太子と蘇我馬子が制定した冠位十二階。大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智という12の冠位が定められました。
名称となった仁・礼・信・義・智は儒教の徳目である五常から取り、徳は五常を合わせたものとして最上位とされたといわれています。
天皇から朝廷に仕える人々へ授けられ、授かった人は絹でできた冠をかぶり、色の違いで階級の差が一目でわかるように工夫がされていました。
「冠位」という用語を使用するのは日本だけだといわれていますが、類似の制度が高句麗や百済、新羅などの朝鮮半島の国々にあり、これらを参考にして作られたものではないかと考えられています。
制定の目的については『日本書紀』などに詳細な記述がないことから、はっきりとしたことはわかっていませんが、概ね2つの理由があったのではないかと考えられています。
ひとつは、家柄にこだわらずに有能な人間を登用する、あるいは特別な功績をあげた身分の低い人物の働きに報いるためです。冠位十二階が制定される以前は、代々世襲される姓制度による硬直的な身分制度となっていて、低い姓の人物が高い職に就くことや、低い姓の人に部下として高い姓の人を当てることなどができませんでした。
姓が氏に属する人全員に与えられたのに対し、冠位十二階は冠位が個人に授与される点に特徴があります。これによって、身分の貴賤にかかわらず登用することができ、またたとえ低い身分の出身だったとしても功績によっては昇進することができるようになったのです。
もうひとつの理由は、外交上の必要性です。当時の東アジアでは、581年に隋が中国を統一し、朝鮮半島への侵略が危惧されていました。このような国際情勢に対応するため、各国の使節往来が頻繁におこなわれていたのです。
日本でも遣隋使を派遣したり、各国の使節を迎えいれたりしています。使節が往来する際に、使者の地位の高下や応接する側の地位などは重要事項。氏姓制度は個人単位で与えられるものではなかったため、当事者の地位の高さがあいまいになってしまいますが、冠位によって個人の地位をわかりやすくしたのです。
位によって冠の色を分けたことはわかっていますが、どの位が何色を用いていたのかが記録として残っていないため、はっきりとしたことはわかっていません。
さまざまな説が提唱されていますが、中国の思想である儒教の五常がもとになっていることから、「五行五色説」が有力になっています。
五行とは万物の元素である木・火・土・金・水を指し、それぞれが五常である仁・礼・信・義・智に対応しているという考えで、それぞれに色が割り振られています。いずれも古代中国の思想から生まれた考え方で、これに従うと色は次のとおりです。
仁:木=青
礼:火=赤
信:土=黄
義:金=白
智:水=黒
最高位の徳は上記にあてはまりませんが、蘇我蝦夷(そがのえみし)や蘇我入鹿などが紫冠を用いていたとの記録から、紫である説が有力です。
つまり、冠位の高い順に色を並べると、紫・青・赤・黄・白・黒となります。
当時中国では約300年ぶりの統一王朝である隋が建国され、東アジア諸国は隋にどのように対峙するか選択を迫られていました。そのなかで日本は、戦うのでもなく、屈するのでもなく、対等の立場での外交を試みます。
そのために冠位十二階や「十七条憲法」などを定めて国家としての体裁を整え、小野妹子を遣隋使として派遣し、国書を送ります。「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」という文言は聞いたことのある方も多いのではないでしょうか。
隋の皇帝は、対等な物言いを無礼であると激怒しましたが、これによって日本は大国と対等にわたり合う国であると朝鮮半島諸国に印象付けることができました。
また遣隋使が文化や律令などを持ち帰ったことにより、日本の国づくりはさらに進められました。この功績で小野妹子は、第5階の大礼から第1階の大徳まで昇進。冠位十二階が制定された目的である人材登用と外交の両面から見て、彼の存在は象徴ともいえるでしょう。
- 著者
- 吉川 真司
- 出版日
- 2011-04-21
推古天皇が即位し、都が飛鳥に置かれた7世紀。東アジアは激動の時代を無敢えていました。300年ぶりに大陸に誕生した統一王朝の隋にどう対応するのか、選択を誤れば国そのものが滅ぼされかねない緊迫した状況です。
そんななか聖徳太子や蘇我馬子は、対等に付き合う道を選びます。そのために外国の先進的な制度を取り入れ、硬直化した旧制度を積極的に改革していくのです。やがて「大化の改新」や「白村江の戦い」「壬申の乱」などを経て、有力豪族の連合体だった倭は、強力な中央集権国家である日本へとその姿を変えていくことになります。
国家存亡の危機に懸命に生きた人々の想いを感じられる一冊です。
- 著者
- 田中 英道
- 出版日
- 2017-07-02
冠位十二階を定めたといわれる聖徳太子。厩舎で生まれたという伝承や、生まれてすぐに言葉を話した、10人の話を同時に理解できたなど、超人的な伝説が残されています。そのため存在自体が疑問視され、歴史の教科書の記述も変更されるなど、根強い「不在説」があるのです。
『日本書紀』や『古事記』は後世の権力者によって脚色も加えられているので、どこまでが真実かわからず、これらだけを元に研究をしても水掛け論になるばかり。そこで本書は、文献資料だけでなく、美術史・建築史・宗教史・世界史をもとに「不在説」に反論し、聖徳太子の実在を証明しています。
多くの伝説に彩られているがゆえに、彼の本当の功績が見えにくくなってしまっていますが、聖徳太子や蘇我馬子が実現しようとしたことは、現代日本にとっても大いに参考になるのではないでしょうか。