もの好き日記――族はゾクゾク、部族は侮辱

更新:2021.12.2

新聞、テレビ、ウェブサイト、本などでは、民族集団の呼び方が「○○族」、「○○人」、「○○民族」などいくつもあることにすぐ気がつく。これは煩雑だ。もう簡単に、「○○人」だけでええやん?というお話。

ブックカルテ リンク

ことばと国家

僕は小学生のとき、お気に入りの高山植物が、陸続きであったシベリアから氷河時代に日本に渡ってきたということを知って、とても驚いた。いつか大人になったら、シベリアに行って確かめよう。そう思いつづけて、大学3回生のときに、ほんとうにシベリアに行くことになる。

その植物をみるまでの話は、1999年の『シベリアをわたる風』(長征社)に書いたので、ここでは書かない。それ以来、かれこれ30年近くシベリアとかかわって生きている。そのようにシベリアに通っていると、おおくの外国人があまりにシベリアを知らないことにたいへんガッカリさせられる。そもそも、人間が住んでいると考えられていない(実際、4000万人の人びとが住んでいる)。

また人間がいることを理解していたとしても、「ツンドラ」で、毛皮を着て生肉を食べて暮らす「素朴」で「原始的」な人たちという程度の理解にとどまっている。彼らの多様性については、鼻くそほどの関心も寄せない。一般の人ならまだしも、ダイガクのセンセーですらそうなのだ。僕の絶望は深い。

しかし世の中には奇特な人たちがいて、ちゃんと僕の絶望感をうまく代弁してくれている。そんな本のうち、言語・民族マイノリティーからみたマジョリティーという視点のものを紹介したい。

著者
田中 克彦
出版日
1981-11-20

まず、民族を考える上で重要な、言語についての本から紹介する。この本は、「ユダヤ人や植民地住民など、無国籍の雑種言語を母語とする人びとのたたかいを描いた」本である。著者は、田中克彦先生。歯に衣着せぬものいいで、敵もおおいであろうことはよくわかるが、僕は嫌いではない。それは、弱い者の側に立とうと努力しているからだ。

「文字も文明もないドジンのことばを研究して何になるのかとたいていの人は考えるだろう(6頁)」。

出た!冒頭からいきなりドギツイ問いかけをする。もちろんこれは著者一流のものいいであって、これだけハッキリいうとおおくの人がハッとする。これは逆説であり、すべての言語は、(言語学者にとって)平等であり、学ぶに値しない言葉などないということである。

「あることばが独立の言語であるのか、それともある言語に従属し、その下位単位をなす方言であるのかという議論は、そのことばの話し手の置かれた政治状況と願望とによって決定される(9頁)」

このような議論に際して、政治的権威がとりざたされることはしばしばあるが、願望というとらえどころのないものを指摘するところは鋭い。例として、ドイツ語とルクセンブルク語の関係について、日本語と琉球語の比較において詳細に語られる。

続いて、国家と言語に関してだ。日本では無意識に、「あなたは外国語が話せますか?」と問うが、言語と国の境界は同じではない。この問いかけが、かなり特異であることはあまり気づかれていない。

そして日本において、「韓国語」と「中国語」に「国」の文字がついていることをふまえ(日本語の授業も「国語」とよばれている)、田中先生は、

「十九世紀以来、言語学が科学になるためにつねに手本として学んできた動植物学のたとえで言うならば、そこがたとえ北朝鮮であれ、韓国であれ、ホーレン草はホーレン草で、スズメはスズメだと呼ぶしかない。つまり、ホーレン草やスズメの政治的な分類がナンセンスであるように、言語の分類は言語そのものの原理によらねばならないのである」

と主張している。

ダンテがロマンス諸語の俗語で本を書いて顰蹙(ひんしゅく)をかった14世紀初頭には、「文法とはラテン語とかギリシャ語だけにそなわっているものだ」と考えられていた。

それが15世紀後半にネブリーハによって書かれた「カスティリャ語文法」(Gramática de la lengua castellana)によって、俗語(この場合、ラテン語と同じロマンス諸語の言語だが)にも文法があることが示された。「俗語のための文法を編むというのは非凡な思いつきであった」のである。

しかしこのとき、ネブリーハが俗語文法を書いたのは、俗語を学びたい人のためにではなく、王や国家のためであった。そして、あらたに規定された文法は、それ以前には存在しなかった「正解」と「誤り」をうみだすこととなる。

そして国家語となった「俗語」は、今度は学ぶのに莫大な時間を要するようになる。勉強に時間を割くことのできる各国家の社会エリートたちは、「正しい」言語を、自身の地位を確実にする暴力装置として使用するようになる。

この状況を同書は、「グラムマティカを学ぶことのできる余裕をもった言語エリートは、ひまつぶしのために平民といういじめられっ子を準備しておく」と表現する。そしてこれこそが、「近代日本の学校教育がはじまるとともに、ただちにひろめられた考え方なのである」、と。

日本の識字階級は、それ以前から、漢字の知識という武器を手にして久しかったが、さらに「正しい日本語」も武器として手にいれることとなった。このようなエリート意識は、「見れる」「食べれる」などという「方言的活用」を指摘する小市民的エリート意識にもつながっていることにも言及している。ちなみに、言語学者の井上史雄は、1998年の『日本語ウォッチング』(岩波書店)で、受身・尊敬の動詞から可能動詞を区別するものとして、「ら抜き言葉」の合理性を主張している。

このことを筆者は、「言語学は正しいとか誤りとか、あらかじめきまったものさしをもってことばにのぞまない。ちょうど生物学が、カブトムシは正しいがミミズは誤っているなどとは言わないように」と表現する。

本書では、博識な著者によって、耳の痛い、普段あまり聞く機会の少ない話が、いくつも具体的に紹介されている。逐一あげてゆくと本と同じサイズになるため、最後に、ピジン言語とクレオール言語についてだけ述べる。

たとえば、僕がフランスに出かけるとする。せっかくならばフランスで買いものくらいはできるようになろう、と一夜漬けでフランス語の単語を仕込んでいったとする。

フランスでは、僕と同じようにフランス語を仕入れたロシア人旅行者がいた。2人は話をしなければならなくなった。我々の使える道具はフランス語のみ。そこで僕は、冠詞だの格変化だのをまったく無視して、単語をつなぎ合わせて話すこととなり、相手のロシア人もまた同様なことをおこなう。

すると、ときどき通じたと感じる場面がある。このような会話をしばらく繰り返していると、おたがい気心もなんとなくわかってきて、相手のなまりや、単語を発するパターンも読むことができるようになりだし、何か月かすると、何とか用が足りるようになってくる。

このとき我々が話している言語がピジンである。ピジン言語はいわば借り物の服であり、我々はそれぞれの母語をもっている。ところが植民地などでは、このような状況が大規模に、かつ世代をまたいで長期にわたって維持される場合がある。

その社会で産まれた次世代の子供たちは、このようなツギハギ言語から、きちんとした固有の文法をもつ母語としての「混成語」を創りあげる、驚くべき能力を発揮する。こうしてできた言語をクレオールという。クレオール言語は、もはや本物の、肌になじんだ服なのである。

クレオール言語の材料(上層語)となる言語は、それぞれの歴史に依存して、英語・フランス語・スペイン語などさまざまである。したがって、クレオール言語とよばれている言語のあいだに、相互に系統的関連性があるわけではない。英語自身が、「アングロサクソン語とノルマン・フランス語との間に生まれた」クレオール言語なのである。 

このようなクレオール言語のひとつに、英語を材料とするパプアニューギニアのトク・ピシン語がある。この言語に対して、著者は以下のように賛辞を贈る。

「トク・ピシンのskulboiやinafは、英語のscholboyやenoughよりもはるかに合理的である。だから、トク・ピシン運動のけなげなスローガン “wantok ——wanpipel”「ひとつのことば——ひとつの民族」も、そのスローガンにふさわしく、すっきりと明晰な正書法を持っている(212頁)」。 

これが意味するところは、これまでみたように、エリート主義とは正反対の、実用性にのっとっていることにたいする高い評価なのである。 

民族の概念は幻想?

著者
スチュアート ヘンリ
出版日

次に、日本の大学で教鞭をとる民族学者である著者が、「ガイジン」の身体をもつ日本人(本多(ほんだ) 俊和(しゅんわ))としての視点から、世界の民族問題について考えている本である。著者の態度はあくまで謙虚で内省的であるが、研究者の怠慢を突く鋒(きっさき)は鋭利である。

冒頭で著者は、2001年9月24日付の朝日新聞を以下のように引用している。「アフガニスタンの政権を握っているのはタリバンというグループであり、その大半を占めるのはパシュトゥン人」である。そしてタリバンと敵対する北部同盟の指導者の「マスードはタジク族の出身」であると。

その上で、なぜ片方は「人」で、もう一方は「族」と使い分けているのかを問うている。また、マスメディアでは「○○人」・「○○民族」表記に混じって、「○○族」・「○○部族」といった表記がみられ、またそれらの使われ方に民族集団ごとの傾向がみえることについて指摘している。

これにたいして、マスメディアである毎日新聞は、「部族」は「明らかに侮蔑的な意味を持つ」としながらも、「サハラ以南のアフリカの『部族』という言葉で表現される社会集団と欧米、日本の『民族』の間には『国家との距離』で相違がある。『部族』は国家形成を志向していない。独立から30年あまりを経てもアフリカでは『部族主義』の病は消えていない。その意味で留保つきで〈部族〉の使用は有効と考える」、と著者に回答している。

この回答に著者は、「まず、『明らかに侮蔑的な意味を持つ』としながらも、それでも『部族』を使うしかないという姿勢は、わたしには納得がいきません」と反論。

さらに、「アフリカでつづく内戦や混乱・・・国家建設の前に立ちはだかるのは、植民地主義の後遺症であり、『部族主義の病』では断じてありません」とし、なぜそれが植民地主義の後遺症であるのか、具体的な例を示して問題点を指摘している。

元来差別的意味を持たなかったtribusは、15世紀ごろから「非文明の民」という意味でもちいられるようになっていく(たとえば、イギリス人がアイルランド人を侮蔑するときなど)。

差別的な英語のtribeに明治時代、井上哲次郎と有賀長雄が「部族」の訳語をあてた。その語は、中国の正史において、羌(きょう)や契丹(きったん)など、古代中国で「夷狄」とされた人々への差別的な呼称であった。「族」も、やはりこういった文脈でもちいられていることが、本文中で例示されている。

 

では実際のところ、族や部族はどのように差別的に用いられているのであろうか。筆者らは、アジア・アフリカ・オセアニア・ヨーロッパ、中東(西アジア)、アメリカの区域に分け、日本のメディアの記事から、「○○族」、「○○部族」がどの地域にたいして用いられているのかを調べた。

すると、アメリカ、アジア、アフリカの70%以上の民族集団に「○○族」が用いられているのに対し、西アジアでは27%、ヨーロッパは16%とはっきりと数字として格差が認められた。さらにあろうことか、このような傾向は学校の教科書にすらはっきり認められたのである。

筆者は、民族集団の呼称に「無意識であるにせよ、『文明度』という尺度が使われて」いることと、その背後に「わたしたちが『文明』かどうかを計る尺度は、力(パワー)」である、つまり暴力装置をもっている「文明」を「文化水準」が高いと思い込んでしまい、それにあやかろうとする傾向を指摘している。

それでも「部族」を使った方がよい場合がある、という主張も紹介されている。「アラビア語のカピーラ(アシーラとも)は、アラブ民族の中の下位集団であり、日本語で『部族』と訳することが適切だ」という意見がある。これにたいしても筆者は、慣用にとらわれず、民族の下位集団には、中立な「支族」など語を模索すべきだと提案する。

さらに筆者は、族、部族、民族(そして種族)の区別に、積極的な意味がないことにも言及している。これらの語は、「『文化、生活様式、言語、身体的な特徴(いわゆる人種系統)、アイデンティティなどを共有して、そして一定の地域に住む』という基準が示され」ているだけであって、区別することは事実上不可能であると。

一方のマスメディアも、こういった状況にたいし手をこまねいていた訳ではない。筆者は、「一貫して○○族と書いてきたナショナルジオグラフィック誌は、2000年8月号で、アフリカのズールーを『ズールー人』としています。・・・共同通信社は2000年3月に、特定のグループをさす言葉の『○○族』『○○部族』の使用を中止し、『○○族』を『○○人』に、『○○部族』を『○○民族』にかえる方針を発表しました」、と報告している。

しかし「そうした考え方はメディアにも、文部省にも、研究者の間にもまだまだ浸透しているとはいい難い」のである。残念なことにこの状況は、本の出版から16年たった現在でも変化があるとはいえず、かえって上記のナショナルジオグラフィック誌に、またぞろ「○○族」表記が再登場したりしている。

一方、中国における「族」は学術的・機械的に定義されており、ある民族集団がマジョリティーであろうがなかろうが、「文明的」であろうがなかろうが、ウイグル人は維吾爾族であり、漢人は漢族、フランス人は法蘭西族、日本人は大和族である。日本の学術研究やメディアでは、これを無批判に、場当たり的に踏襲しているケースがおおくみられる。

筆者は、「意識されていない差別は、対処するのにもっとも厄介なもの」であることを指摘し、「慣用にこだわらず、知的怠慢に陥ることなく、先入観や偏見を招かない、的確な用語を使うことが研究者の義務であり、メディアの責任でありましょう」として、思考停止に警鐘を鳴らしている。


以上、民族集団に関する問題を、マイノリティーの側からの視点でとらえている著書を紹介した。では次に、よりおおきなくくりである「人種」についても言及しておきたい。

次世代シークェンス技術によって、ヒトのゲノムは安価に、早く読めるようになってきた。すでに、この技術をもちいた「1000人ゲノムプロジェクト」(http://www.internationalgenome.org/)の予備段階が2008年から2010年にかけて終了しており、1092人分の匿名のゲノム配列がNature誌上で発表された(Dubin et al. 2012 “A map of human genome variation from population-scale sequencing”. Nature 467 (7319): 1061–1073.)。

こういったゲノム解析の結果は、18世紀のブルーメンバッハにはじまる「人種」分類に、ある一定の妥当性があることを示した(Li et al. 2008 “Worldwide human relationships inferred from genome-wide patterns of variation”. Science 319 (5866): 1100–1204.)。

ヒトの祖先は分岐をして、1)サハラ以南のアフリカ群、2)北アフリカ・西アジア群、3)ヨーロッパ群、4)中央アジア・インド群、5)東アジア群、6)南北アメリカ先住民群、7)オーストラリア先住民群におおむね分けられることが確認できたのである。

しかしここで、さらに面白いことがあきらかとなった。じつは上記の2)から7)までの群は、アフリカに発生したヒトのうち、すべてエチオピアの小集団の子孫だったのである。つまり客観的にみると、ヒトは基本的にアフリカで多様化し、残りの2)から7)までの分化の枝は、単にそのうちの枝一本を修飾しているに過ぎないのである。当然ながら、任意の「人種」にのみ優越性が保証されるわけではない。

このように、(ヒトから見て)一見多様な群に分かれているヒトは、一方で、どの群に分類されていようとも、異性同士であればその間に子を儲けることができる。つまり、「人種」という分類群は、品種以下の違いでしかなく、生物学的な意味をほとんど持たない。

では、ヒトにとって「人種」とは意味がないのであろうか?近年のヒトの認知の研究結果は、ヒトは無意識に、機械的に、異なる「人種」を判断しているらしいことをあきらかにしている(Cosmides, Tooby & Kurzban 2003 “Perceptions of race” TRENDS in Cognitive Sciences 7 (4): 173–179.)。

ところが、このような区別、およびそれに基づく差別は、かなり簡単な操作で消失し、また区別を見誤ることもわかってきた(Kurzban, Tooby & Cosmides 2001 “Can race be erased? Coalitional computation and social categorization” PNAS 98 (26): 15387–15392.)。

以上をまとめると、「人種」というものは生物学的にはほとんど意味を持たないが、ヒトはそのような微細な差異をみわける高度な能力を有している。しかし、その能力は限定的なものであり、見誤ることがある。そして、その能力が差別に向かわないためには、個々人の簡単な努力で足りる、ということを示しているといえよう。

日本語社会において、「族」や「部族」の成立過程をみると、それらの呼称が差別的な意味を多分に含んできたと結論せざるを得ない。

一方の中国における「族」は、中立的であり、どのような民族集団であろうとも使用可能な道具となっている。英語世界においても、○○ tribe表記をやめてほしいという運動が定着し、○○ people 表記が一般的となってきている。

これらと比べた場合、日本の民族集団の呼称は、文章にするとき、「○○人」なのか「○○族」なのかについて悩まねばならないため、システムとして煩雑なのである。少なくとも、差別的な意味合いを含む「○○族」「○○部族」という「ドジン」的表記をやめるだけで、よりすっきりした表記体系になるはずだ。

民族集団を「○○」もしくは「○○人」表記とし、「○○民族」表記もあり、ということでよいのではないか。さらに細かいニュアンス(○○国の国民なのか、○○語を話す集団なのか、など)を表現したい場合は、勉強した上で、そこに少々説明を加えるだけで十分にことたりるのである。

それでも、「とんでもない!族や部族には差別的な意味などまったくない!」とおっしゃる方は、それはそれでよい。どうぞご自身を、「私は○○部族です!」と声高らかに宣言されたい。そして外国のお客さまに「あなたはなに部族ですか?」と質問されたい。それは長期的に、部族の呼称の意味合いを変化させる可能性をもたないとはいえない。

しかし、ヒトが、自分が帰属していると信じる集団を誇るときには、その集団が輩出した偉人やその歴史などを誇っているのであって、その集団が「部族」と呼ばれていることを誇っている訳ではない。僕はそのように信じる。

「部族」と呼ばれている(た)人々が民族と呼ばれることになったときに、「失われた」と感じるナニカ。このナニカについて、よくよく吟味すべきである。我々はすべて、文字として刻まれている/いないに関わらず、固有の歴史をもち、そして今を生きている。

我々はカザフスタンの草原で、「伝統」衣装に身をつつみ、携帯電話を片手に馬を駆って、太陽光エネルギーによってコンピュータを起動し、家畜の管理をする。相互にゆるく繋がり絡みあいながら、同じ現在を生きている「現在人」なのである。「文明度」とは、いったい、なんであろう?

自分を「客観的」に規定することがむずかしいように、ヒトにとっての言語や民族をヒトが定式化することはなかなかやっかいである。その上で、民族と部族を使い分けることに、実用的な意味は少ない。それを認めるならば、意味のない呼称をできるだけ減らし、よりすっきりとした表記体系をつくってゆこう、というのが僕の提案だ。

もしも、こんなことをいうヤツと同じ民族集団でいることが嫌な場合、そしてそこに歴史的・言語的・政治的「裏付け」がみつかる場合、新しい民族集団が生まれないともかぎらない。そのとき、その集団は何と自称するのであろうか?

 

  • twitter
  • facebook
  • line
  • hatena
もっと見る もっと見る