知人が出ている舞台を観た後、劇場を出て3分で着く中華料理屋に入り、モデルの友人とふたりで焼餃子をつつきながらビールを呑んでいた。 斜め前の卓を囲む若い女のひとたちは同じ劇場から出てきたばかりなのだろう、ハイボール片手に華やいだ顔で、黄色い声を上げている。
ふと、彼女に「蓮華ちゃんは何がしたいの?」と言われた。
子鹿のように澄みきった、少女漫画みたいな瞳でまっすぐ見つめられて、わたしはつい、黙ってしまった。
肩書きとしては「女優」を名乗っているくせにこのところ舞台に立っていないし、この先にも舞台の予定がない。
舞台を観に行ったときに貰ってくる何十枚ものチラシの束に混ざった「出演者募集」の1枚や、たまにウェブに上がってくる舞台作品のオーディション要項を、何度も何度もチェックする。
今回こそ出たい、何かしら引っかかりたい、何としてでも舞台に出たい、と思って受ける。けれど、受けただけでは舞台に立てない。振られっぱなしだ。
でもやっぱり私は舞台に出たい。
「かっこいい舞台に出るのと、文章を書くことと、電線を愛でることがしたい」と彼女の目を見返して言った。
ダウンライトを浴びた青島ビールの泡が、黄金色にかがやいてまぶしい。
芸能の仕事をする女の子たちにはもれなく、と言っていいほど華がある。
仕事柄、人の8倍は美少女や美女に会う機会があり、横並びに立ってにっこりしないといけない場も山ほどある。
14、5年くらい前、子役の頃から「いつか垢抜ける」と言われていたけど、とうとう垢抜けないまま25歳を迎え、そろそろ26歳の自分も1クール先に見えてきた。
それなのに名前に「華」がついているのが皮肉めいたギャグのようで、とっても私らしいと思う。
先日、元同僚の結婚式に行ったらわたしだけ度数のずれた顔だったので、何枚も撮ったり撮られたりした写真を見てけっこう落ち込んだ。
なんでこんな美女のなかにぶち込まれているのだ、わたしは前世で何かしたのかもしれない。せっかくの結婚式だからと、いつも地味な格好をしているくせに気合を入れておめかししたらそれが似合ってなくてがっかり感を増していた。
常々感じていたことだけれど、あらためてわたしはキラキラの美女ではないし、美女といるとどことなく引き立て役、美女のレフ板になってしまう「気がする」。言い切らないのはせめてもの意地だ。
しかしわたしがわたしのことをどう感じていたって、たくさんの美女のなかにぶち込まれて美女と並んで同じように微笑まないといけない。これが仕事だ。
けれど容姿で勝負することなんかできやしない、最初から求められてもいないのは悔しいけれど救いでもある。
先月の連載で「アイシャドウが買えない」と書いた後、ついにアイシャドウを買った。アイシャドウはその名の通り、発光するものでなく影を落とすためのものなのに、光があればそれを照り返して目をかがやかせてくれる。
女優の友達が先の挙式の「ご歓談」のあいだに教えてくれたピンク色のパレットと同じものから、美容部員のひとが細かい粉をひと刷毛取って目元に乗せる。
ピンク色のキラキラがまぶたの上でほどけると、鏡越しのわたしは何だか優しい女のように見えた。それに同じ色のアイシャドウを付けたその人があまりに力強く薦めるし、もう半ばどれでもいいような、やっぱりこれがいいような、ないまぜのラメみたいな気持ちになって7000円のアイシャドウを買って帰った。
本当は、わたしもばんばん光を放てる人間になりたい、けれど誰かの照り返しで光る人になったとしても、それはそれで楽しいのかもしれない。だけど。
- 著者
- アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ
- 出版日
- 2010-09-24
主人公は「かわいい!」女だ。誰もがそう言わずにはいられないくらいのかわいいひと。
彼女は、いつもときどきに誰かをごっそり愛さなければ行きてゆけない。その姿はカッコつきの「女」を揶揄しているふうにも、それを褒める人たちを揶揄しているふうにも思えた。
上の文章を書いた後にこの短編を思い浮かべた私はけっこう意地悪かもしれない、けれど主人公のような盲目的な真っ直ぐさが少しだけまぶしくもある。
かわいい人へのあこがれは消えない。
撮影:石山蓮華電線読書
趣味は電線、配線の写真を撮ること。そんな女優・石山蓮華が、徒然と考えることを綴るコラムです。石山蓮華は、日本テレビ「ZIP!」にレポーターとして出演中。主な出演作は、映画「思い出のマーニー」、舞台「遠野物語-奇ッ怪 其ノ参-」「転校生」、ラジオ「能町みね子のTOO MUCH LOVER」テレビ「ナカイの窓」など。