梅雨が明けて夏が来たとたん、光がフラッシュみたいに白くなった。窓のそとを家のなかを吹いていく風があまりに大柄だからそれでまた、うわあ夏だ、と圧倒されてしまった。しかも今年の夏は平成最後の夏だ、と思った途端、息が詰まりそうになった。
もう大暑も過ぎたのに、というか夏真っ盛りなのに、正直なところまだ夏を受け容れられていない。それも平成最後の夏、25歳の夏、暦の上でももう8月。ああ、もう、ああ、わたしも前向きに夏に飛び込みたい。できることなら明るい光や熱射、っていうか日焼けばかりをおそれず、楽しいことに目を向けたい。
『平成最後の夏』という言葉が持つどことなく寂しくてキリキリした雰囲気に引っ張られて、わたしはこのひと月、生まれてこのかた25年すべての夏でやり残したことをなんとなく頭のすみで探すようになった。花火大会、海水浴、家族旅行に盆踊り。幸福なことにたいがいの夏らしいイベントは平成一桁や十年代の子ども時分にひと通り済ませて貰っている。どの思い出もひとりで思い出すにはおぼろげで、手持ち花火の煙の向こうにあるみたいで正直なところ「あった」ということ以外はさっと思い出せないけれど、こういうのは「あった」というだけで嬉しいもんかもしれない。
けれどこのところ、夜でも暑すぎて眠れない夜が続いているし、睡眠不足のあたまでビールをエンジンに書いているから今ここに書いている一つひとつの言葉をわたしはしっかり持っているのかわからなくって不安だ。
だから、あなたもそのくらいのつもりでお読みいただけたらと思います。
日々こなしてゆきたい一つひとつの物事を手に持って慎重に触ろうとすると、その手ごと置いたまま、肩ではなく肋骨の一本からあたらしく伸ばした腕が別のものを手に取り始める。
目はぐるぐると様々な物に引き寄せられ、手はわたしの積載量を超えて、物を持つだけ持って動けなくなる、わたしはこのところ暑さで少し脳が溶けてすべてもったりしてる。
そんな感じだ、ああ夏だ夏だ、と家の中に閉じこもりながらも黒いキーボードの上を跳ねる指の爪だけは夏の金色とテラコッタという素焼きレンガのオレンジに塗った。
いま吸い込めるだけの夏は吸い込んでみせようという魂胆でマニキュアを塗ると、とたんに工業製品じみてくる樹脂っぽいツヤが母親譲りのやや縦長の爪のふちを際立てる。
何日か前、父親から旧い写真のデータがLINEで送られてきた。
それらは別に夏の写真でもなく、私の記憶にもない生後3日のわたしと母のものだったりするのだけれど、1992年10月の日付の中で今のわたしと同い年の母の腕に抱かれ、ふかふかのタオルケットに包まれた、見覚えのあるような無いような小さい頭を見ていると、これまでの夏が急にまぶしいような気がしてくる。きっともう、走馬灯でしか思い出せない眩しい夏が、いくつもいくつも私のなかにはあるんだと思うと涙がこぼれそうになる。
梅雨明けの日のごおおおっと顔に吹きつける風の強さで思い出した。
高校生の頃、わたしは通学路の農道で向かい風に顔を圧されながら「将来があまりに見えなくてつらい」とよく泣いていた。
一緒に帰ってくれていた友達もはじめは心配したり話を聞いてくれたりしたけれど、それがあまりに毎日だから終いにはもう半分慣れて「ああ今日も蓮華は泣いてんの」くらいに言いながら片道7Kmを自転車で飛ばしていた。
思春期だったからか、感じやすい性格かつ考え込みがちだったからか、自転車を漕ぎながらありえないほど涙も鼻水も出して泣いていた。たしか夏は、期末テストが怖くて泣いていた気がする。けれど、どんな問題があったのか、もうなんにも思い出せない。
農道の真ん中で鼻水と涙をべろんべろんに吐き出していた頃、夏休みってどう過ごしていたんだろう。平成の夏は、やっぱりぱっと思い出せない。
高校生の頃はずっと先にあった25歳の夏も、変わらず先が見えなくってこのところよく泣いている。次の年号の終りの夏は生きているだろうか。
この先のどこかで平成最後の夏を思い返すかもしれないけれど、どの夏も思い出せないから眩しいんだろう。
- 著者
- 津原 泰水
- 出版日
- 2012-01-25
女子高校生役をやった2015年夏、六本木の劇場からの行き帰りに第一章を読んでからずっと大好きな夏の一冊。
昏睡状態の娘「理沙」の意識が世界ごと掴んでひっくり返していくこの物語で大好きなのは、一行ごとの酩酊感とドライブのかかりっぷりです。
「隈なく巡らされたワイヤー、ひっきりなしに飛び交う電磁波、空間を埋め尽くすノイズ、無尽蔵に蓄積され増殖を続ける情報、その中で暮らす個々の人間の脳や神経――(p58)」
「命題、都市は人間の脳を代替しうるか?(p66)」
いま見ていた景色がぐるりと返される。東京の空も地中も埋め尽くすように這い回る電線が、最高気温に耐えきれず動き出す瞬間を見てしまうかもしれない、自分自身が白昼夢に溶けていくようなSF小説です。
撮影:石山蓮華電線読書
趣味は電線、配線の写真を撮ること。そんな女優・石山蓮華が、徒然と考えることを綴るコラムです。石山蓮華は、日本テレビ「ZIP!」にレポーターとして出演中。主な出演作は、映画「思い出のマーニー」、舞台「遠野物語-奇ッ怪 其ノ参-」「転校生」、ラジオ「能町みね子のTOO MUCH LOVER」テレビ「ナカイの窓」など。