1912年から1926年まで続いた大正時代。短い期間ながら、現代に繋がるさまざまな変化が生じた時代です。この記事では、主な出来事を年表で紹介し、服装や食事などの生活や、「大正ロマン」と呼ばれた文化などをわかりやすく解説していきます。あわせてもっと理解の深まるおすすめの関連本も紹介するので、ぜひチェックしてみてください。
大正時代は日本史上もっとも短い時代区分で、大正天皇が即位した1912年7月30日から、昭和天皇の即位する1926年12月25日までの期間を指しています。年号では15年間ありますが、実質的には14年と5ヶ月ほどしかありません。
「大正」という元号は、中国の古典『易経』のなかの「大亨以正、天之道也」が由来です。「おおいにとおりてもってただしきは、てんのみちなり」と読み、「為政者が民の声を聞き受け入れ、政治が正しくおこなわれる」という意味が込められています。元号にも表れているとおり、大正時代は庶民の政治参加が進展した時代でした。
世界に目を向けてみると、ロシアやドイツ、オーストリア、トルコなどで帝政が崩壊し、共和政が成立しています。日本では革命こそ起きていませんが、1913年に発生した「大正政変」をきっかけに、民主主義的な思想や運動が盛り上がりを見せるようになりました。こうした一連の風潮は、「大正デモクラシー」と呼ばれています。
「大正デモクラシー」は政治だけにとどまらず、社会や文化などあらゆるジャンルに発展していきます。「女性解放運動」「部落差別解放運動」「普選運動」などさまざまな社会運動が発生しました。多くの庶民が参加し、社会の在り方を変えていったのです。
特筆すべきは、「普選運動」を経て1925年に制定された「普通選挙法」でしょう。それまでは一定額以上の納税をしていないと選挙権が与えられませんでしたが、これ以降は25歳以上の成年男子に選挙権が与えられるようになりました。有権者の割合は、1.1%から20%近くにまで増加したそうです。
その一方で政府は、ほぼ同時期に「治安維持法」も制定しています。当初は、革命が起きるのを恐れて共産主義者を取り締まる目的でしたが、後に自由の弾圧を正当化するものとなってしまいました。
また経済面を見てみると、第一次世界大戦がくり広げられた1914年~1918年の間は、「大戦景気」と呼ばれるバブルが発生。しかし終戦にともなって「戦後恐慌」が起き、さらには1923年に「関東大震災」が発生し、長期間の不景気に陥ることとなりました。
景気の悪さは昭和時代に入ってからも継続し、やがては国民の軍部支持へと繋がっていくのです。
大正時代は、短いながらも後の時代に大きな影響を与えたといえるでしょう。
1912年7月30日:明治天皇が崩御し大正天皇が即位。元号が「明治」から「大正」に改元される
1912年:第一次護憲運動が始まる
藩閥系の第三次桂太郎内閣に批判が集まり、「憲政擁護・閥族打破」を掲げた立憲政友会の尾崎行雄や民衆たちによって第一次護憲運動が発生しました。その結果、桂内閣は60日ほどで総辞職することとなります。
この出来事は「大正政変」と呼ばれ、民衆の運動で内閣が倒された最初の事例となりました。これをきっかけに「大正デモクラシー」が進展することとなります。
1914年8月23日:日本がドイツに宣戦布告をし、第一次世界大戦に参戦する
オーストリアの皇太子夫妻がセルビアの青年に暗殺された「サラエボ事件」をきっかけに、ドイツを中心とする「同盟国」と、イギリスを中心とする「連合国」の間で第一次世界大戦が勃発します。日本は日英同盟を理由に連合国側で参戦、ドイツの勢力圏である山東省の青島やサイパンなどを占領していきました。
さらにこの期間中はヨーロッパ各国の力が弱まり、アジア市場へ日本製品の輸出が促進されます。連合国側から軍需品の注文も殺到。そのため「大戦景気」が生じ、日本経済は飛躍的に発展していきました。「成金」と呼ばれる巨万の富を築いた人々も現れました。
1915年:日本が中国の袁世凱(えんせいがい)政権に「21カ条の要求」を発する
第一次世界大戦中に欧州列強がアジアから後退したことをチャンスとし、日本は中国での権益の拡大を図ります。「21カ条の要求」を発し、「山東省のドイツ権益の継承」「旅順、大連の租借期限延長」などを求めました。
最終的には中国政権にこの要求を認めさせ、中国国民の反発とアメリカの対日感情の悪化を招き、日本への警戒心が強まる結果となります。
1918年:富山県の女性たちの抗議行動をきっかけに「米騒動」が発生する
1917年、ロシアでは、戦争を続ける皇帝への不満が高まり「ロシア革命」が起こります。世界初の社会主義国家であるソビエト連邦が成立すると、日本は革命の波及を恐れて「シベリア出兵」を実施しました。
すると米の価格が高騰。富山県で数十人の女性たちが抗議のために米屋へ押しかけたことをきっかけに、各地で「米騒動」と呼ばれる暴動が発生しました。
1919年6月:第一次世界大戦の講和条約「ヴェルサイユ条約」に調印
1918年に「ドイツ革命」が発生し、帝政が崩壊。ドイツは休戦協定を結び、第一次世界大戦が終結しました。
翌1919年に講和条約として「ヴェルサイユ条約」が調印され、同時期に「国際連盟」も創設されています。日本は戦勝国の一員として「国際連盟」に加盟し、常任理事国に選出されました。
その一方で、大戦が終結したことにともないヨーロッパ各国が貿易を再開すると、日本製品は過剰生産に陥り、「戦後恐慌」が発生します。その後も昭和時代まで「震災恐慌」「金融恐慌」「昭和恐慌」などが断続的に発生し、慢性的な不況は昭和期の日本を戦争に向かわせる大きな要因となってしまいました。
1921年11月:ワシントン会議が開催される
国際協調が進むなか、日本の勢力拡大を抑える必要があると考えたアメリカは、大国間の勢力維持を図ってワシントン会議を開催します。
この会議を通じて、太平洋の現状維持を定めた「四カ国条約」、中国の主権尊重や門戸開放を規定した「九カ国条約」、そして米英日仏伊の戦艦や航空母艦などの保有量を制限した「海軍軍縮条約」が結ばれました。ワシントン会議を通じて築かれた戦後の国際秩序を「ワシントン体制」と呼びます。
1923年9月1日:関東大震災が発生
関東地方でマグニチュード7.9の大地震が発生。地震にともなって生じた火災によって被害が拡大し、死者・行方不明者は10万人以上にのぼりました。被災した人は190万人を超えるといわれています。
また、パニックのなかで朝鮮人や社会主義者などが暴動を起こすという流言が広まり、「自警団」によって多くの朝鮮人や中国人、彼らと誤認された日本人が殺害される事態となりました。
1924年:第二次護憲運動が始まる
非政党内閣が相次いで成立するなか、憲政会、政友会、革新倶楽部の三党は「護憲三派」を結成。「普選運動」が盛りあがりを見せていることを受けて、「普通選挙」の実現を公約に掲げて「第二次護憲運動」を開始します。
その結果、選挙で護憲三派は圧勝、連立内閣として加藤高明内閣が成立しました。それ以後、1932年まで相次いで政党内閣が成立し、この期間の政治は「憲政の常道」と呼ばれました。
加藤内閣は、1925年に「普通選挙法」を制定。25歳以上の男性に選挙権が与えられました。しかし同時に共産主義を弾圧するため「治安維持法」も制定していて、後にさまざまな問題をもたらすこととなります。
1926年12月25日:大正天皇が崩御し昭和天皇が即位。年号が「昭和」に改元され大正時代が終わる
第一次世界大戦にともなう好景気を背景に、工業化が各地で進み、都市が発達していきました。さらに義務教育の普及による就学率の上昇やジャーナリズムの発展、海外からの新たな知識の流入により、都市部を中心に生活様式が大きく変化することとなります。
ガス・水道・電気が各家庭に普及、西洋風の生活様式も定着して、玄関横には洋風の応接間を備えた「文化住宅」が流行。食卓にはカレーライスやコロッケ、オムレツなどの洋食が並ぶようになり、スプーンやナイフ、フォークも広く使われるようになりました。
その他、新しい階層として役所や会社に勤めるサラリーマンが登場し、彼らを中心に洋服を着て暮らす人たちが増えていきました。戦後は欧米諸国の影響を受け、バスガールや電話交換手などの「職業婦人」と呼ばれる働く女性も増加しています。
こうして都市部で働く人が増えたため、人材育成のために高等教育機関も充実していきました。1918年には「大学令」が公布され、私立大学や専門学校などさまざまな機関が増設されています。これにあわせて都市部では進学熱が高まり、「東京高等受験講習会(現在の駿台予備学校)」などができ、受験競争が過熱していきました。
このように大正時代は、現代の私たちのライフスタイルの原型ともいうべき生活が形成されていった時代だといえるでしょう。甲子園や箱根駅伝など馴染みのあるスポーツの大会が始まったのもこの頃です。
一方で、このような変化は都市部を中心に進んでいき、農村部にはなかなか広まりませんでした。全国的に現代のライフスタイルが定着していったのは、高度経済成長期の頃だとされています。
上述したとおり、都市部を中心にライフスタイルの洋風化が進みました。このような生活様式や流行などの文化を総称して、「大正ロマン」といいます。
「大正ロマン」は、18世紀末から19世紀にかけてヨーロッパで流行した「ロマン主義」の影響を受けています。「ロマン主義」は、個人主義を前提に、自我の尊重や恋愛などの感情の動きをありのままに表現することを重視した考えのこと。そんな「大正ロマン」の雰囲気は、大正時代に流行した「いのち短し恋せよ乙女」という歌詞からもうかがうことができるでしょう。
建築やファッションは、和洋折衷の特徴的なスタイルが特徴です。なかでも有名なのが、女学生のファッション。「矢絣袴」に代表される和装とブーツを組み合わせ、髪には大きなリボンをあしらうというものです。
昭和時代にはセーラー服などの洋装に変化していきましたが、和洋を融合させた独特の趣があることから、100年以上経った現在でも人気を集めています。
- 著者
- 山口 謠司
- 出版日
- 2017-12-21
本書では、大正時代を今日の礎となる時代と位置づけ、さまざまなエピソードを通じて現代のルーツとなるものを紹介しています。
この時代に起きた出来事をコンパクトに紹介しているので、本書を読めば大正時代の雰囲気を掴むことができるでしょう。
激動の明治時代と昭和時代に挟まれ、その短さもあってかあまり注目されることのない大正時代ですが、女性の社会進出や欧米文化の流入、政治的反乱など、現代を考えるうえで大きな意味をもっているのです。
巻末には年表も載っているので、調べものにも役立ちます。簡単に当時のことを学びたい方におすすめの一冊です。
- 著者
- 武田 知弘
- 出版日
- 2013-03-01
本書が対象とするのは大正時代から昭和時代初期の、いわゆる「大正ロマン」や「昭和モダン」と呼ばれる時期。特に日常生活に根差した62のトピックを取りあげ、現代の暮らしとの共通点、相違点について論じています。
戦前は自由が抑圧され、戦いにまい進するよう軍国主義一辺倒だったのかと思いきや、意外と当時から海外旅行に出かける人がいたことや、スポーツや趣味を楽しんでいた人が多かったこともわかります。
当時の貨幣価値を現在の貨幣価値に換算して解説してくれているので、よりリアルに「普通の生活」を感じることができるでしょう。大正時代のイメージを膨らませたい方におすすめの一冊です。