明治維新から遅れること43年。中国で起こった辛亥革命により、アジア初の共和制国家が誕生しました。一体どのようなものだったのでしょうか。この記事では、革命の概要や、背景と原因、指導者である孫文や袁世凱についてわかりやすく解説していきます。あわせて、もっと理解を深めることができるおすすめの関連本も紹介するので、ぜひご覧ください。
革命が起きたのは1911年の清時代の中国。干支が「辛亥」だったことから、「辛亥革命」と名付けられました。勃発日である10月10日にちなんで「双十革命」とも呼ばれています。
湖北省の武昌で起こった兵士の反乱をきっかけに、清最後の皇帝である宣統帝が退位する1912年2月12日まで続きました。
この革命によって、およそ270年間にわたり中国を支配していた清が倒され、同時に古代より続いてきた君主制が終わり、アジアで初めての共和制国家「中華民国」が樹立されることとなります。革命に合わせて元号も変更され、1912年は民国紀元の元年になりました。
辛亥革命が起こった背景には、貿易相手である欧米列強の台頭によって変革を求められるなかで、政府が有効な手を打つことができない閉塞感がありました。
もともと清という国は、満州族の愛新覚羅氏によって建国された王朝で、少数の満州人が多数の漢民族を支配下に置く征服王朝でした。中国の伝統を重んじて統治をしてはいましたが、「八旗」と呼ばれる軍事力が支配の根底にあったことは否定できません。
しかし1840年に起きた「阿片戦争」でイギリスに敗れると、清の武力に対する信頼感が揺らぎます。すると曽国藩や李鴻章といった一部の官僚や知識人のあいだで、「洋務運動」と呼ばれる、欧米の知識を導入して富国強兵を目指そうとする提唱がなされるようになりました。
ただ当時の武官は地位が低く、文官を重視する伝統的な政治体制のなかで改革を進めることは困難です。くわえて、1894年に起きた「日清戦争」では、一足先に明治維新を成し遂げた日本に敗戦。洋務運動は下火になっていきます。日本に敗れたことで、欧米各国も清に対して厳しく接するようになっていきました。
また国内にキリスト教が広がっていくと、数々の軋轢や問題が起き、これが一般民衆の対欧米への反感と結びついて、1900年に「義和団の乱」が起こります。この反乱は日本を含む列強の連合軍によって鎮圧され、政治的閉塞感が深まる結果となりました。
そんななかで漢族の間に、征服王朝である清朝を打倒し、漢民族の王朝だった明朝の時代を取り戻そうとする「反清復明思想」が広まっていきます。中国各地に革命を起こそうとする秘密結社が結成され、ついに1911年に革命が起こることとなりました。
1911年10月10日、湖北省の武昌で反乱が起きます。清は袁世凱(えんせいがい)率いる北洋軍を派遣しました。戦いは47日間におよび、およそ1万人の死傷者が出たそうです。
この間に、中国国内にある18の省のうち、14省が清からの独立を宣言。清の勢力は直隷、河南、山東、甘粛に限定されることとなりました。
12月29日、各省の代表が南京に集まり「臨時大総統選挙」を実施。孫文が中華民国の初代臨時大総統に選出されました。孫文は、清朝打倒活動としてハワイで革命組織を樹立した人物。以降各国をわたり歩いて資金を集め、12月25日に帰国すると独立した各省から歓迎を受け、ニューリーダーとなりました。
1912年1月1日、孫文が南京にて中華民国の成立を宣言、同時に初代臨時大総統就任の宣誓をおこないます。このなかで彼は、「中華民国は国民主権の国である」とし、「五族共和」という各民族が協力していくことを強調しました。
この間に、袁世凱が内閣総理大臣に就任。清朝の行政権が移譲されます。清軍との間に停戦協定が結ばれることとなりました。
革命が起きてから、欧米各国は静観の姿勢を貫いていましたが、いつ介入してくるかはわかりません。これは革命軍にとっても清軍にとっても避けたい事態。停戦の条件は、宣統帝が退位して権限を委譲する代わりに、彼の命を保証することでした。
交渉は1912年の1月にまとまり、2月12日に宣統帝が退位。ここに清朝は滅亡し、辛亥革命は成就したのです。
辛亥革命の指導者であった孫文は、中華民国の初代臨時大総統を務め、「中国革命の父」「中華民国の国父」と呼ばれています。
1866年に広東省の農家に生まれ、1878年には兄を頼ってハワイに移住。1883年に帰国するとイギリスの植民地だった香港で医学を学び、卒業後はポルトガルの植民地だったマカオで開業医となります。
1883年に起きた「清仏戦争」の頃から政治に興味をもつようになり、革命思想を抱くようになったといわれています。「日清戦争」が終結した後、広州での武装蜂起を企むも失敗。日本に亡命しました。
1900年の「義和団の乱」に乗じて再度挙兵をするものの、これにも失敗。今度はイギリスへと渡ります。この頃には世界的にも有名な革命家と認識されていました。
1905年、東京で革命団体を糾合し、中国同盟会を結成。当時東京へ留学していた蒋介石とも出会い、革命への機運を高めていきます。
辛亥革命が勃発した当時は、アメリカにいました。革命派は新しいリーダーに孫文を据えようと帰国を要請。これを受けて臨時大総統に選出され、「中華民国」が成立するのです。
日本とも縁が深く、日本に滞在中は中山樵(なかやまきこり)や高野長雄(たかのながお)と名乗っていたそう。革命家の宮崎滔天や頭山満、内田良平と交友を深め、そのほか数人の日本人から資金援助を受けています。
明治維新や日露戦争に大いに刺激を受け、犬養毅には「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である」と記した手紙を送ったそうです。
1912年2月12日に宣統帝が退位したことで辛亥革命が成立。翌2月13日には、孫文が臨時大総統の職を辞任して、3月10日に袁世凱が第2代臨時大総統に就任しました。
その後、革命のスローガンでもあった国民主権を実現しようとする孫文らと、中央集権政府でなければ国をまとめられないとする袁世凱らとの間で対立が起こります。
そんななかで1913年に、中国で初めてとなる国会選挙が実施。孫文が結成した中国同盟会を母体とする国民党が第一党となりました。この結果を受けて、国民党の事実上の党首であった宋教仁(そうきょうじん)を総理大臣とする内閣を組織することになります。
しかし袁世凱の指示により、宋教仁が暗殺されてしまうのです。これに激怒した孫文は袁世凱を倒そうと武装蜂起をしますが、失敗。これを「第二革命」といいます。
敗れた孫文らは日本に亡命することを余儀なくされ、袁世凱は1913年に初代中華民国大総統に就任。孫文の国民党は解散させられました。
袁世凱は権力を握ると、1916年には年号を「洪憲」にあらため、国号を中華帝国に変更。自身は皇帝を名乗ることを宣言します。
しかしこの行為は反発を呼び、各地で地方軍閥が反旗を翻します。長らく袁世凱とともにあった北洋軍閥のなかからも批判が出ました。
結局、1916年の3月には在位わずか3ヶ月で皇帝を退位。失意のなか、6月に亡くなります。
袁世凱の死後、中国は国民党や共産党、各地方の軍閥、さらには日本などが入り乱れる動乱の時代に突入していくこととなるのです。
- 著者
- 小坂 文乃
- 出版日
- 2009-11-17
貿易業を営み、日活を創業した梅屋庄吉。 孫文と妻である宋慶齢の結婚披露宴を自宅で執りおこなうなど、革命への援助を惜しみませんでした。実に2兆円もの資金を孫文に投じたといわれています。
まさに革命を「プロデュース」した梅屋庄吉。本書の作者は、そんな彼の曾孫であたる小坂文乃です。
梅屋が亡くなった後、長らく公開が禁じられていた史料がようやく日の目を見ることになり、当時の中国と日本の様子が明らかになりました。梅屋がどれだけ孫文のことを信頼していたか、そして中国と協力することを日本にとっても良いことだと政府に働きかけていたかがわかります。
生々しい描写で臨場感にあふれた一冊。中国だけでなく、日本の歴史を学ぶうえでも読んでおきたい作品です。
- 著者
- ["あや 秀夫", "下川 香苗", "石井 規衛"]
- 出版日
- 2002-11-01
世界史を漫画でわかりやすく学べる「世界の歴史」シリーズの17巻。 レーニンによるロシア革命と、孫文による辛亥革命から毛沢東の登場までが描かれています。
古代より連綿と続いてきた皇帝による君主制を打倒した辛亥革命。その背後には、日本や欧米列強のさまざまな思惑が絡んでいました。
今日の味方が明日の敵になるような複雑怪奇な時代は、文字で読むだけだとなかなか理解できないもの。漫画になることでより情景をイメージしやすくなり、流れを掴みながら理解することができます。
興味はあるけれど歴史書にはなかなか手が出せない、という方におすすめの一冊です。