村上春樹が書いた本作は、作者の5作目の長編小説であり、1987年に講談社から刊行されました。世界中で人気のある村上春樹の作品のなかでも、もっとも売上部数が多いのが本作であり、文庫本も合わせるとその発行部数は1000万冊以上。2010年にはトラン・アン・ユン監督によって映画化もなされました。 この記事では、そんな本作をもっと楽しめるように、隠された謎について考察していきます。ぜひご覧ください。
村上春樹が書いた本作は、37歳の主人公ワタナベ・トオルが、大学時代を回想する物語として進んでいきます。精神を病んでしまった最愛の女性・直子に振り回されたワタナベの青春時代を振り返る恋愛小説です。
作品は、ワタナベがハンブルグ空港の機内でビートルズの『ノルウェイの森』を耳にするところから始ります。本作のタイトルは、このビートルズの曲名に由来するものです。この曲が、主人公を一気に18年前へと引き戻します。
彼は、自殺した友人キズキの恋人だった直子と、大学で仲良くなった緑という2人の女性と関わるなかで「生と死」について思いを馳せるのです。
もう取り返しがつかない18年前のある出来事に、読者を導く物語です。
- 著者
- 村上 春樹
- 出版日
- 2004-09-15
映画化もされており、松山ケンイチ、菊地凛子、水原希子などの豪華キャストで話題となりました。映画は愛の物語として描かれ、キャッチコピーは「涙は涸れても、愛は枯れない」。
しかし、原作小説は、死の物語としても描かれているのです。ここでは原作の魅力についてフォーカスしてご紹介していきましょう。
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ここでは物語を彩る、個性的な登場人物たちについてご説明していきます。
・ワタナベトオル
主人公。神戸の高校を卒業した後、東京の私立大学文学部演劇科に進学しました。大学1、2年生の頃は寮で生活。高校時代には恋人がいましたが、上京後に別れることになります。
その後、大学で直子と恋人関係となりますが、彼女が療養して京都に行ってしまってからは、その寂しさを補うために知らない女性と寝るようになりました。
・キズキ
ワタナベトオルの友人で、直子の彼氏。直子とは幼馴染であり、知らないことはないというほど仲良しでした。高校3年の5月、自宅のガレージで練炭自殺します。
・緑
ワタナベと同じ大学で、同じ授業を受けている女性。最初にワタナベと出会ったときには坊主でした。頭の固い恋人がおり、実家の父が書店を経営しています。
・直子
ヒロイン的存在として描かれている女性。キズキの彼女。彼が自殺してしまった後、少しずつ精神を病んでいきます。ワタナベとゆきずりのセックスの後、治療のために大学を休学し、治療施設である阿美寮に入寮。見舞いにやってきたワタナベと恋仲となります。
・レイコ
阿美寮での直子のルームメイト。ピアノがうまく、寮の人々にピアノを教えています。ギターを弾くこともできます。もともと夫がいましたが、ある事件をきっかけに離婚。阿美寮に3度入退院をくり返しており、通年で8年間も寮に住んでいます。
・永沢
東京大学法学部に在籍しているイケメン。死後30年経っていない作家の作品は読まないなど、妙なこだわりを持っています。彼女がいますが、バーなどに通い、多くの女性と性的関係を持っています。
・ハツミ
永沢の彼女であり、お金持ちの通う女子大に在籍。永沢が複数の女性と性行為をおこなっていることを黙認しています。その後は彼と別れて別の男性と結婚しますが、最終的に自殺してしまいます。
作者・村上春樹はいわずと知れた有名作家であり、ノーベル文学賞の受賞候補に何度もノミネートされている人物です。本作は、彼の5作目の長編小説として書かれました。
『ノルウェイの森』は、彼の自伝的小説ともいわれています。実際、本作の主人公は著者と同じく文学部で、演劇を学ぶ大学生。講義や構内の様子も、非常に細かく描かれています。
主人公が足繁く通っていた図書館も実在していますし、都電の様子もまた非常に詳しく描写されています。村上春樹は関西で育っていますが、青年時代を早稲田大学で過ごしているので、東京を舞台とした作品を数多く残しているのです。
このような内容から、結果として本作は彼の自伝的小説であるといわれるようになりました。
本作のワタナベは、ほっとしたりがっかりしたりすると、「やれやれ」とつぶやきます。この「やれやれ」という言い回しが作品のなかで頻出するのは、村上春樹作品の特徴ともいえます。
彼の作品に登場する主人公は、本作に限らず、どこか諦念感が滲み出ており、達観していて受身的であることが多くなっています。「やれやれ」は、そんな主人公の性格を象徴する台詞であるといえるでしょう。そして、数ある村上春樹の作品のなかでも、特にこの表現を多用しているのが『ノルウェイの森』です。
- 著者
- 村上 春樹
- 出版日
- 1987-09-25
村上春樹は、本作を書く前に『蛍』という作品を書いています。この作品には、『ノルウェイの森』の前半部分で描かれる学生寮での生活や、中央線で直子と再開し、四谷から飯田橋へとつながる堀端を歩く描写があるのです。
このように、『蛍』は『ノルウェイの森』の第2章および第3章の下敷きとなっています。
しかし、『ノルウェイの森』で「突撃隊」とあだ名がつけられていた同居人は、『蛍』では同居人のままであったり、友人も恋人にも名前が当てられていなかったりします。それぞれの作品を読み比べて見ると、新たな発見があるかもしれません。
本作のワタナベは、なぜか女性にものすごくモテます。女性に不自由することはなく、こちらから特にアプローチしなくても、女性たちが集まってくるのです。
緑が彼に「どれくらい(私が)好き?」と聞く場面があります。その時、彼は次のように答えるのです。
「春の熊くらい好きだよ。」
(『ノルウェイの森』より引用)
こんな不思議な言い回しをして彼女に春の熊について想像させ、緑への好意を伝えています。とはいえ、これでは「どれくらい好きか」の答えになっていません。
『ノルウェイの森』だけではなく、ほとんどの村上春樹作品では、「女性から主人公に話しかけて、主人公はそれになんとなく付き合う」という構図になっています。
女性たちの働きかけに対して、ワタナベはただ受動的にそれを受け止めるだけで、うまく彼女たちと恋愛関係を築くことはできません。つまり、彼には「主体性」がないのです。先ほどの受け答えからも分かる、のらりくらりとした雰囲気を持っています。
しかし、ワタナベが直子と関わり、緑と知り合い、さまざまな体験をする中で、親友であったキズキの死以来、眠っていた感情を思い出していきます。
そして、ワタナベの成長を実感しながら読み進めると、突如として直子が死んでしまうのです。ワタナベは彼女に対して、何かを働きかけることは最後までありませんでした。
結局の所、彼が女性にモテるのは、「どこか影があるから」という部分が大きいでしょう。主体性がなく、影があるからこそ、放っておけない存在として描かれているのではないでしょうか。
本作では、永沢という人物が登場します。彼はワタナベが暮らす学生寮の先輩で、何かとワタナベの面倒を見てくれるのです。彼は容姿端麗で、東大法学部の学生。文句のつけようがない存在として描かれています。
しかし、そんな彼は「ナメクジを食べた」という逸話を持つちょっと変わった人物。上級生と新入生のイザコザを丸く納めるために、3匹まとめて飲んだのだそう。
ハツミという彼のガールフレンドは、最終的に彼と別れて別の男性と結婚し、その後自殺してしまいます。本作の中では2人の過去については触れられていないので、彼女がなぜ自殺したのかは最後までわかりませんが、以下のように考察することができます。
そもそも、2人が別れた理由は、永沢が自分ではハツミを救うことができないどころか、彼女の病を悪化させてしまうと理解したから。彼が外務省を受験したのは、彼女から離れるためでした。
そして、就職祝いの時にわざと悪く振る舞うことで、さらに彼女から嫌われようとします。結局、入省後に永沢がドイツに赴任することになり、それが明確な転機となって2人は別れました。
しかし、ハツミにとっての永沢は、病を悪化させる存在であったと同時に、現実世界との唯一の繋がりでもありました。その繋がりを失ってしまった彼女は、自殺せざるをえなかったのでしょう。
現実世界との繋がりを断たれた彼女は、徐々に死の世界(昔の恋人の世界)に侵食されてしまい、そのせいで自ら死ぬことを選んでしまったのでした。
ある日、直子は突然、「井戸」の話をワタナベに語ります。ワタナベは彼女が語った井戸の話を受けた後で、次の引用のように語るのです。
「直子がその井戸の話をしてくれた後では、
僕はその井戸の姿なしには草原の風景を思い出すことができなくなってしまった。
実際に目にしたわけではない井戸の姿が、
僕の頭の中では分離することのできない一部として
風景の中にしっかりと焼きつけられているのだ。
(中略)僕に唯一わかるのはそれがとにかく おそろしく深いということだけだ。
見当もつかないくらい深いのだ。
そして穴の中には暗黒が――
世の中のあらゆる種類の暗黒を煮詰めたような濃厚な暗黒が――つまっている…」
(『ノルウェイの森』より引用)
本作だけではなく、村上春樹が書く小説では、井戸は非常に重要なモチーフとなっています。本作における井戸は、「生の世界と死の世界をつなぐ媒体(トンネル)」として扱われています。
直子はワタナベに井戸の話をしたときには、すでに自分が死の淵にいることに気付いていたのです。その話を受けた後で、上記の引用のとおり、ワタナベは井戸の姿(死の世界)なしには草原の風景(生の世界)を思い出すことができなくなってしまうのです。
「実際に目にしたわけではない死の世界の姿が、僕の頭の中では分離することができない一部として風景の中にしっかりと焼き付けられている」といっているように、死の世界は生の世界の一部を構成しているのです。
『ノルウェイの森』という物語のなかでも、死を象徴する存在として描かれる直子。彼女は物語の序盤から登場していますが、冒頭からすでに色濃く死を予感させています。
実際、彼女は「もし私が深い穴に落ちて、それに誰も気づかなかったら…」という不安に駆られることがあるとワタナベに告白します。このことからもわかるように、彼女はこの時すでに自分の死を意識していたのです。
では、彼女はなぜ、自分の死を意識するようになったのでしょうか?当時付き合っていたキズキが死んだ後、直子は死んだように生きている状態となります。これは、死者と生者が彼女の中で混在していることを意味しています。
本作のなかで唯一太字になっているのが、「死は生の対局としてではなく、その一部として存在している」という言葉。本作のテーマともいえるこの考えは、キズキの死をきっかけとして直子の中に芽生えていたものでした。
ところが、ワタナベとの再会が、彼女を変えてしまいます。もともと、彼女がワタナベに会っていた理由は、キズキの記憶を共有している彼と一緒にいることで、死んだキズキと邂逅できるからというものでした。この意味では、ワタナベも半分死んだ存在といえます。
しかし、2人の関係は徐々に変化を迎え、彼女の誕生日にセックスをしたことによって、決定的に変わってしまいます。ここで、直子に今までなかった自己意識が発生するようになるのです。
その自己意識とは、現実世界で生きたいという欲求。ワタナベと一緒にいれば、現実世界を生きることができる……そのために、彼女はワタナベを求めるようになります。結果として彼女は、生の世界と死の世界によって引き裂かれた状態となってしまうのです。
そんな不安定な状態を回避するために、サナトリウムである阿美寮へと入寮したのですが、結局生の世界と死の世界の板挟みに耐えられなくなり、自殺してしまいます。
『ノルウェイの森』は、生と死をテーマとして描かれた作品です。
村上春樹がこの本を通じて伝えたいことは、「死は生の対局としてではなく、その一部として存在している」ということ。先ほどもお伝えしたように、この一文だけ本作のなかで太字になっています。そして、キズキが自殺した場面の直後に、この一文は書かれているのです。
本作では、キズキや直子が突然自殺します。そのため、ワタナベにとって死は珍しいものではなく、人間の中に常に存在するものでした。
通常であれば、死は突如として外部から現れるものだと思いがちではないでしょうか。しかし、実は人間は死を内包しながら常に存在しています。人間は生まれた瞬間から死に向かって生きており、すでに死は約束された確実なものなのです。
ワタナベの周りで起きた大切な人の死は、突然起こったものではなく、常に仄めかされているものでした。その死というものの身近さ、常に存在するということが本作の柱になっているようです。淡々と描かれるそのテーマから、あなたは何を感じ取るでしょうか?
本作のなかには、多くの名言が登場します。そのなかでも代表的なものを4つ紹介します。
どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒すことはできないのだ。
どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、
その哀しみを癒すことはできないのだ。
我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、
そしてその学びとった何かも、
次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。
(『ノルウェイの森』より引用)
主人公は多くの死に直面します。愛する者の死の哀しみは、癒やすことはできません。誰かが死ぬたびに、死に少しずつ慣れていくことはできます。しかし1人ひとりの死の哀しみに対しては、その前の死から学んだものも何の役にも立たないのです。
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。
(『ノルウェイの森』より引用)
本作は、これを主なテーマとして描かれた物語です。人間の死は生の対極にあるものではなく、生とともにあるもの。だからこそ、身近な人物が突然死んでいなくなってしまうことも、十分にありえるのです。
自分に同情するな。自分に同情するのは下劣な人間のやることだ。
(『ノルウェイの森』より引用)
この言葉は、永沢がワタナベに言った言葉です。自分の人生を自分で可哀想だと同情していては、前に進むことはできないということを端的に、力強く訴えてきます。
最後に、緑がワタナベに言った名言を紹介します。
私が求めているのは単なるわがままなの。
完璧なわがまま。
たとえば今私があなたに向って苺のショート・ケーキが食べたいって言うわね、
するとあなたは何もかも放りだして走ってそれを買いに行くのよ。
そしてはあはあ言いながら帰ってきて
「はいミドリ、苺のショート・ケーキだよ」ってさしだすでしょ、
すると私は「ふん、こんなのもう食べたくなくなっちゃったわよ」って言って
それを窓からぽいと放り投げるの。
私が求めているのはそういうものなの。
(『ノルウェイの森』より引用)
女性の気持ちというのは移ろいやすいもの。彼女がワタナベに求めているのは、そういう気持ちの移ろいやすさを理解してくれるような愛なのでした。移ろいゆく人間の命とともに、女性の心というものもまた、つかみどころのないものなのですね。
直子が自殺してしまい、ワタナベはその哀しみを癒やすために1ヶ月にわたる旅に出ます。旅を終え、彼が東京に戻ると、直子が死んだ時のことを話すために、レイコが施設から出てきました。
直子のすべてを話し終えた後で、2人は一緒に、直子のための葬儀をおこないます。ワインを注ぎ、レイコがギターを弾いて歌を唄うのです。それは哀しみにくれるための葬儀ではなく、2人にとって次へ進むために必要な前向きな儀式のようなものでした。
- 著者
- 村上 春樹
- 出版日
- 2004-09-15
そして、その後、2人は交わり合います。もし緑が、2人がセックスをしたことを知ったら、ワタナベと緑の関係は崩れてしまうでしょう。しかし、彼らはセックスをするのです。
「緑さんと二人で幸せになりなさい。
あなたの痛みは緑さんとは関係のないものなのよ。
これ以上彼女を傷つけたりしたら、
もうとりかえしのつかないことになるわよ。
(中略)これを言うために療養所を出てきたのよ」
(『ノルウェイの森』より引用)
レイコはこう言っているにも関わらず、彼と重なるのでした。
翌日、レイコは北海道の旭川へ向けて旅立ちます。彼女と別れた後で、ワタナベは電話を掛けます。果たして彼はそのとき、誰に電話を掛けるのでしょうか?
キズキをはじめ、直子やレイコのように、彼の周りからは次々と人が去っていきます。また孤独になって(井戸の底へと落ちて)しまうのです。
本作は、映画化された際のキャッチコピーのように、「深く愛すること。強く生きること」について考えさせる結末となっています。人間は生の世界を1人で生きていくことはできません。一緒に支え合いながら生きていく人が必要で、それこそが「生きる」ということなのではないでしょうか。
『ノルウェイの森』は、ノーベル文学賞にノミネートされるほどの作家である村上春樹の作品のなかでも、特別な作品として位置づけられているもの。驚異的な売上発行部数を誇る本作は、誰もが1度は読んでおきたい作品です。