5分でわかる東インド会社!イギリスとオランダ、日本との関係等を簡単に解説

更新:2021.11.15

アジアとの貿易を独占し、会社を名乗りながら植民地経営までも担った東インド会社。イギリスのものが有名ですが、実は複数の国に存在していたのです。この記事では、概要と各国の歴史、日本との関係などをわかりやすく解説していきます。あわせておすすめの関連本も紹介するので、ぜひご覧ください。

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東インド会社とは?現在も存在する歴史的企業の概要を解説

 

インド・アジア地域との貿易独占権を与えられた企業のことです。17世紀から19世紀なかばにかけて、重商主義・帝国主義にもとづく経済活動のなかで大きな役割を果たしました。

ここでいう「インド」とは、現在のインドという国を指しているわけではなく、ヨーロッパ以外の地域を意味しています。当時の世界の中心であったヨーロッパを基準に、アジアなどの東側を「東インド」、南北アメリカなどの西側を「西インド」と呼んでいました。

有名なのは、インドの植民地経営に従事したイギリスの東インド会社や、世界最古の株式会社として知られるオランダの東インド会社などです。ちなみに鎖国中の日本が長崎の出島に設置していたオランダ商館は、オランダの会社の支店でした。

このほかにもフランスやウェーデン、デンマークで東インド会社が設立され、貿易に従事していました。

18世紀末から19世紀のなかばにかけて相次いで解散していますが、2018年現在でもその名前を見ることができます。ひとつは、解散から100年以上が経過した1978年に、紅茶の販売を目的に許可を受けてロゴなどを引き継いだブランドです。

そしてもうひとつは、2010年にインド人の実業家が設立した会社です。商標を使用する許可をイギリスの大蔵省から得て、実に130年以上ぶりに企業名として復活しました。ロンドンに店舗を置き、輸入食品や宝飾品の販売をしています。

 

イギリスの東インド会社の歴史。シパーヒーの反乱で解散

 

複数存在する東インド会社のなかでもっとも有名なのが、イギリスのものではないでしょうか。1600年に、女王のエリザベス1世からアジア貿易の独占権を得て設立されました。

当時は、フランシス・ドレークという人物がイギリス人として初めて世界一周を達成し、世界の海への進出を目指していた時期でした。インドネシアなどの香辛料を得ることを主な目的とし、インドのスーラトやジャワ島のバンテンに拠点を置いて、オランダなどと貿易利権を巡って激しく争います。

しかし1623年、オランダ領東インド(現在のインドネシア)のアンボイナ島にて、オランダがイギリス商館を襲撃して職員全員が殺される「アンボイナ事件」が発生しました。殺害されたなかには、傭兵として雇われていた日本人も含まれていたようです。

これによってイギリス東インド会社による香辛料貿易は挫折。アジアからの撤退を余儀なくされることとなりました。活動の拠点をインドに移すことにします。

インドではカルカッタ・マドラス・ボンベイなどを中心に、今度はフランスの東インド会社と争います。1757年に起きた「プラッシーの戦い」でフランスを破り、インドの覇権を握ることに成功しました。

そしてこれ以降、単なる貿易会社にとどまらず、政治的にもインドを支配するようになっていくのです。

1803年から1815年まで続いた、フランス帝国軍対イギリス、オーストリア、プロイセン、スペインなどが戦った「ナポレオン戦争」が終結すると、再びアジアに進出。国との広東貿易に参入し、1840年に起こった「アヘン戦争」で香港を獲得します。

この間インドでは、イギリスの強引な統治に対して人々の不満が高まっていました。そしてついに1857年、北部の都市メーラトで反乱が起こります。反乱を起こしたのは、「シパーヒー」と呼ばれる東インド会社が編成したインド人傭兵たちでした。

運動はインド全域に広まり、鎮圧をするのに約1年半かかります。イギリス議会から統治失敗の責任を追及され、東インド会社は、インドの行政権をヴィクトリア女王に譲渡することになりました。

その後1874年に解散し、約250年にわたる活動に終止符が打たれました。

 

オランダの東インド会社の歴史。史上初の株式会社!

 

オランダに設立された東インド会社は、正式には「連合東インド会社」といいます。設立されたのは1602年でイギリスよりも後ですが、イギリスは航海ごとに出資者を募る方式で、恒常的な株式会社ではありませんでした。そのためオランダの東インド会社が、世界最古の株式会社となります。

「会社」といいつつも、従事するのは商業活動だけではありません。条約締結権や交戦権、植民地経営権など国家に準じる権限を、喜望峰からマゼラン海峡までの広大な地域で発揮していました。

当時のオランダは、スペインからの独立を目指す「八十年戦争」の真っただ中。貿易制限をかけられて香辛料などが入手できなくなっていたため、独自の航路を開拓することで対抗していったのです。イギリスやポルトガルなどとも激しく争い、台湾、スリランカ、マラッカなどを占領していきます。

そして、1623年の「アンボイナ事件」でイギリスの東インド会社を退け、さらに鎖国していた日本の江戸幕府と結んでポルトガルを追い落とし、アジアにおける貿易をほぼ独占することに成功しました。

しかしオランダの東インド会社が順調に権益を獲得していく一方で、オランダ本国の国力は徐々に衰えていきます。たび重なる戦争で消耗し、ついにイギリスに海上帝国の覇権を奪われてしまいました。

また18世紀になると香辛料貿易は不振になり、イギリスがおこなっていた綿織物や茶などの貿易が盛んになります。1795年にはフランス革命政府に本国を占領されることとなりました。

このような混乱のなかでオランダ東インド会社も解散。黄金期を支えた海外植民地の多くは、イギリスに接収されていきました。

 

東インド会社と日本の関係

 

世界に複数存在した東インド会社のなかで、日本と関わりがあったのはオランダとイギリスです。

オランダ東インド会社の船が日本に初めてやってきたのが、1609年。徳川家康の許可を得て長崎県の平戸に商館を開設します。イギリス東インド会社も、1613年に平戸に商館を設置しました。しかし1623年の「アンボイナ事件」でイギリスはアジアから撤退、平戸の商館も閉鎖されます。

1637年に「島原の乱」が起きると、江戸幕府はキリスト教の布教を目的に来日していたポルトガル人たちを追放。彼らが住んでいた出島が無人になったため、平戸にあったオランダ商館が移転しました。

これ以降およそ200年間にわたり、オランダは西洋列強のなかで唯一、日本と交易をしていた存在となります。

オランダ東インド会社は、出島に「織物・香料・香辛料・薬・砂糖・象牙・ガラス製品・珊瑚・地球儀・書籍」など多彩な貿易品をもたらしました。なかにはラクダやトラなどの珍しい動物もいて、見世物として人気を博したようです。

またオランダ船が提供する海外情勢は、鎖国をしていた江戸幕府にとって貴重な情報源でした。

これらに対し日本から輸出されていたものは、「金・銀・銅・陶磁器・漆器」などです。日本産の銀は質が良く、貨幣の材料として広く用いられました。また伊万里焼などはその芸術性の高さが珍重され、ヨーロッパの芸術にも少なからず影響を与えたそうです。

フランス革命が起き、オランダ本国が占領されるなかで、出島にあるオランダ商館だけが世界で唯一オランダ国旗を掲げ続けていたといいます。

 

ヨーロッパとアジアの交易を一元的に学べる一冊

著者
羽田 正
出版日
2017-11-11

 

イギリス、オランダ、フランスの東インド会社と、アジア地域の関係を記した作品。会社でありながら条約締結権や交戦権まで有し、植民地の経営にも乗り出した躍動感あふれる歴史が記されています。特定の国に偏っていないので、当時の世界全体の交易ネットワークを知ることができるでしょう。

日本の授業では日本史と世界史を別々に学ぶため、なかなか繋がりを理解することが難しいですが、本書を読むと「点」ではなく「線」で、一元的に流れを学ぶことができます。

実は一冊の本にまとめるのはもったいないほどの、さまざまな出来事があった時代ですが、文章もわかりやすくまとまっていて読みやすく、おすすめの作品です。

 

オランダ東インド会社の興亡史

著者
永積 昭
出版日
2000-11-10

 

かつてのオランダは、ポルトガルやスペイン、イギリスなどと争い、アジアにおける海上覇権を握っていました。オランダの黄金期ともいえる時代に生まれ、衰退するとともに消えていったオランダ東インド会社の興亡を描いた作品です。

インドネシアという国の誕生にも大きな役割を果たし、日本にとっても世界と接する窓口となっていて、世界に大きな影響を与えていたといってよいでしょう。

ダイナミックな物語のように読める作品です。

 

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