5分でわかるアステカの歴史!生贄は本当にあった!?場所や滅亡なども解説!

更新:2021.11.15

かつてメキシコの中央部で栄えたメソアメリカ文明の国家「アステカ」。この記事では、場所や栄えた時代、滅亡など歴史の概要と、生贄の儀式、スペインによる征服、ひとくくりにされやすい「マヤ文明」「インカ文明」との違いなどを解説していきます。あわせてもっと理解の深まるおすすめの関連本も紹介するので、ぜひチェックしてみてください。

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アステカとは。帝国が栄えた時代や場所などをわかりやすく解説

 

1428年頃から1521年までの約100年間、現在のメキシコ中央部にあたるテスココ湖を中心に栄えた国家、アステカ。メシカ人と呼ばれる人々を中心に建国されました。メシカ人はメキシコ北部で遊牧民的な生活をしていたチチメカ族の一派と考えられています。

伝説によると、彼らはもともと美しい湖に水鳥と魚が満ち、人が老いることのない北方の楽園「アストラン」という地にいたそうです。神託によってそこを出ることになり、狩猟をしながらメキシコ中央高原を彷徨った後テスココ湖のほとりに定住し、1325年に都「テノチティトラン」を築きました。

ちなみにこの頃のテスココ湖は、南北約65kmにわたるひょうたん型の大きな湖で、周辺にはいくつもの都市国家が存在していました。現在では埋め立てが進み、ほんのわずかしか残っていません。かつて湖があった場所には、メキシコ合衆国の首都であるメキシコシティがあります。

都市テノチティトランは、当初はメキシコ盆地最大の国家だったアスカポツァルコに従属してたそう。1428年にテスココ湖周辺の都市国家のひとつであるテパネカ人らと同盟を結び、アスカポツァルコを打倒しました。この時に結成された「アステカ三国同盟」が、いわゆる「アステカ帝国」となります。

「アステカ」という名称は、伝説上の楽園アストランにもとづいていて、19世紀のはじめにドイツの地理学者だったアレクサンダー・フォン・フンボルトが名付けました。当時の人々が自分たちをアステカと称したことはありません。

アステカ文明の特徴。生贄の儀式があった⁉

 

アステカ文明といえば、生贄の儀式を連想する方も多いのではないでしょうか。映画や小説などで描かれるシーンがあまりにも衝撃的なため、本当にあったことなのか疑問に思う人もいるでしょう。

ただ記録によると、当時は実際に生贄の儀式がおこなわれていたようです。その証拠となる大量の人骨が、2012年にメキシコシティの地下5m、かつてアステカ帝国の大神殿があった場所から発掘されています。男女問わず子どもから大人まで、実に1789片が見つかりました。

アステカでは、生きた人間から心臓を取り出し太陽の神に捧げるという祭がおこなわれていました。生贄となった者の肉は、トウモロコシなどと一緒に調理され、貴族や司祭たちが食したそう。ちなみにこの料理は「ポソレ」と呼ばれ、現在では豚肉を使い、メキシコ伝統のスープ料理としてよく食べられています。骨は楽器や武器として利用されました。

また生贄にする捕虜を手に入れるため、戦争もおこなわれていました。わざと敵国を全滅させず、生贄にするために牧場のようなものを作り、生かし続けた例もあったそうです。

そのほかアステカでは、捕虜の全身の皮を生きたまま剥ぐなどさまざまな儀式がおこなれていて、毎年多くの人が神に捧げられていたそうです。

アステカ帝国の滅亡について。スペインが征服!

 

アステカの神話には、神々のなかでももっとも大きな力をもつ「テスカトリポカ」によって追いやられた、「ケツァルコアトル」という神がいます。ケツァルコアトルがアステカの暦における「一の葦」の年に戻ってきて、支配権を取り戻すという伝説がありました。

彼が戻ってきた「一の葦」というのは、西暦にすると1519年のこと。この2年前から姿を見せるようになったスペイン人のことを、アステカの人々はケツァルコアトルの一味なのではないかと考えました。

そしてちょうど1519年、スペイン人の探検家エルナン・コルテスが、アステカの首都テノチティトランにやってきたのです。当時のアステカの支配地域は約20万平方kmにおよび、テノチティトランの人口は数十万に達していたそう。これは当時世界最大級の都市でした。

しかし国王だったモクテスマ2世は抵抗をせず、スペイン国王カルロス1世に対して膨大な財宝を献上しました。これがかえって征服者たちの欲望を刺激してしまい、アステカ全土で略奪がおこなわれるようになるのです。
 

するとこれに反発した人々が、仲裁に入ろうとしたモクテスマ2世を殺害。次に国王となったクィトラワクは、スペイン人たちと対立を深めていくこととなりました。そして周辺諸国がスペイン側に加わったことをきっかけに、敗北することとなります。1521年に、アステカ帝国は滅亡しました。

アステカ文明、マヤ文明、インカ文明の特徴と違い。古代文明を理解しよう

 

中南米の古代文明としてひとくくりにされることも多い「アステカ文明」「マヤ文明」「インカ文明」の3つ。しかし同じアジアである中国やインド、東南アジアがまったく異なる文化をもっているように、この3つの文明もそれぞれに特徴があります。

まずアステカ文明は、現在のメキシコシティを中心に広がり、14世紀から16世紀に栄えました。その理由のひとつに農業があります。

湖沼に杭を打って葦などを敷き詰め、湖底の土を盛ることで人工の畑を作るチナンパという方法が主流だったそう。湖の豊富な栄養分を利用して、生産性の高い畑を作っていました。

一方のマヤ文明は、現在のメキシコ、グアテマラ、ホンジュラス、エルサルバドル、ベリーズなどにまたがる中米の広い地域において、紀元前19世紀から17世紀初頭まで、実に3700年近くも続きます。

大きな特徴として、高度に文字が発達していったことが挙げられるでしょう。天文学などが発展するとともに、多くの記録も残っています。

ちなみにアステカ文明にも絵文字はありましたが、マヤ文字ほど高度なものではありませんし、インカ文明にも数字を示すものはあったものの文字はありませんでした。

インカ文明は、15世紀から16世紀にかけて、アンデス山脈一帯を支配しました。現在のアルゼンチン、ボリビア、チリ、コロンビア、エクアドル、ペルーなどにあたります。

アステカは三国の同盟による連帯国家で、またマヤについては統一する国はいませんでしたが、インカ帝国は各地に行政官を置き、国中を網羅するインカ道を整備するなど強固な統治体制をもった統一国家でした。

古代文明の神々をポップに学ぶ一冊

著者
芝崎みゆき
出版日
2010-05-22

 

アステカやマヤ、インカなど、古代文明に興味をもった人にまずおすすめしたい一冊です。

当時のことを学ぶうえで困惑するのが、多種多様な神々の存在ではないでしょうか。アステカの神であるテスカトリポカやチャルチウィトリクエなど、まず名前の複雑さからしてハードルが高いですよね。本書では、そんな神々をユニークなキャラクターとして描き、理解を助けてくれます。

もちろん歴史の流れもしっかりと網羅。ポップなイラストがついているため、親しみやすいうえにイメージを膨らませやすくなっています。

アステカの人々はなぜ生贄を捧げたのか

アステカ国家の生贄の祭祀: 血・花・笑・戦 (刀水歴史全書)

2015年08月18日
岩崎 賢
刀水書房

 

生きたまま心臓を取り出すなど、アステカの人々がおこなっていた生贄の儀式は、想像するのも難しいほど残忍なように見えます。しかしこれは、日本で武士が切腹をしていたことや、ヨーロッパで処刑のためにギロチンを使っていたことなどど同じこと。当時の人々には、彼らなりの道理があったはずなのです。

本書では古代語の文献や資料などを緻密に分析し、アステカの人々の精神性を解き明かそうとしています。彼らの思想がわかると、当時の歴史もリアリティをもって学べるのではないでしょうか。

一風変わった視点から歴史を考えられる一冊です。

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