13世紀のモンゴル軍の西夏侵攻を背景に、西夏文字を巡る壮大な冒険活劇、『シュトヘル』。2012年に文化庁メディア芸術祭で審査委員会推薦作品として選ばれ、第16回手塚治虫文化賞を受賞しました。本作の作者である伊藤悠は、佐藤大輔原作の『皇国の守護者』や『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』のキャラクターデザインを手がけた人物です。 今回の記事では、そんな『シュトヘル』の見所を6つご紹介。最終回やテーマなども考察していきます。ぜひご覧ください。
物語は現代の日本から始まります。高校生・須藤は、楽器職人である親が蒸発してしまったので独り暮らし。彼は、建物が燃えさかる戦場の中にいる夢を、よく見ることがありました。
そんなある日、彼は仲間からカラオケパーティーに誘われます。そこで転校生の少女・スズキさんと出会うのです。彼に関心を持っていた彼女は、彼の家を訪れました。
そこで彼女は、須藤の作りかけの馬頭琴を見つけます。まだ弦も張っていないそれを手に取り、弓を轢くような仕草をするのです。すると須藤の魂は時空を越えて、別の人間の肉体に転生してしまい……。
シュトヘル1 (BIG SPIRITS COMICS SPECIAL)
2009年03月30日
意識を取り戻した彼は、赤毛の女性になっていることに気がつきます。そこは13世紀のモンゴルでした。
その場へ駆けつけたのは、大きな鷲を連れた、スズキさんにそっくりな少年。ユルールと名乗るは須藤の魂が乗り移った女性を「シュトヘル」と呼びました。
彼は彼女をかくまうと、シュトヘルが己の記憶を無くしているのを見て、これまでのいきさつと、自分と彼女がどんな風に出会ったのかを話し始めます。彼はモンゴルに住む遊牧民の1つ・ツォグ族のハン(族長)の息子でしたが、西夏国から嫁いだ義母によって育てられてため、西夏文字を学んでいます。そのため一族を裏切ることになっても、西夏文字だけは後世に残そうと、心に誓っていた人物でした。
ユルールの一族は、大ハン(チンギス・ハーン)に屈し、恭順の意を示すべく、西夏国を攻め滅ぼそうとしています。その先頭に立つのは彼の義兄・ハラバルです。彼は「神箭手(メルゲン)」と呼ばれるほどの弓の名手で、モンゴル軍にまでその名が知れ渡っていた人物でした。
一方、西夏国の城塞都市・西平府では、守備隊がモンゴル軍の侵攻に追いつめられていました。そして退路を断ったハラバル達モンゴル軍の放った「弩」の攻撃によって、守備隊は全滅。残ったのは「ウィソ(すずめ)」と呼ばれた女性兵士だけ。
ユルールは西夏国の首都・興慶府(こうけいふ)が陥落する前に、西夏文字を守るべく、一族を出奔しようと決意。彼は、母の遺品のなかに隠された西夏文字の刻まれた文字版「玉音同」を取り出し、後世に伝える担い手としてユルールにこれを託し、ともに南宋を目指すことになります。
2人はアラブ商人・アルファルドの案内で成都をめざしますが、道中でオオカミの皮を纏ったシュトヘル(悪霊)と呼ばれた女盗賊と出会います。彼女こそ、ハラバルへの仇討ちのために変わり果ててしまった、ウィソ。これが、シュトヘルとユルールが、初めて彼女に出会った瞬間でした。
本作の最大の特徴は、現代の高校生が13世紀に生きるシュトヘルという女性に転生し、時空を超えた物語を展開していく点。
さらに舞台が13世紀のユーラシア大陸であるため、関わる人間がモンゴル人から、イスラム人、ヨーロッパ人など多種多彩。すなわち本作は、時間、空間ともに壮大なスケールで描かれているのが魅力といえるでしょう。
また、当時のモンゴルや中国の社会の、緻密な描写にも注目です。
モンゴル帝国は、13世紀初頭に頭角を現した有力部族の長・テムジンによって築かれました。モンゴルの遊牧民はもともと各部族ごと独立していましたが、彼の手腕によって統一されたのです。本作では、ユルールやハラバルの所属する一族であるツォグ族も、彼らの傘下に入っていますが、当初ツォグ族はテムジンに抗っていました。初期のころはモンゴルの中にも、敵対する者がいたのです。
しかしテムジンはクリルタイ(モンゴルの有力者による議会)によって「大ハン」に任ぜられ、自ら「チンギス・ハーン」と名乗るようになり、徐々にその力を強めていきました。やがてモンゴルは、ユーラシア各地の国々を占領しはじめ、その規模は中国、中東、ヨーロッパ、南ロシアまで拡大。ユーラシア大陸の大半に渡り、強大な帝国を築いていくのです。
西夏国に侵攻しはじめたのは、テムジンが大ハンになってからのこと。西夏国はチベット系タングート族の国で、そのころの西夏国は、貿易に有利な要地を領有していたので大変豊かな国でした。文化面でも優れており、本作で重要な役割を持つ「西夏文字」を生み出したのです。
当時、中国ではすでに活版印刷が発明されており、もちろん西夏国にも存在しました。本作のキーアイテムである「玉音同」がそれを示しています。そして、生み出された書簡を管理するための施設が、本作にも登場する「番大学院」なのです。
さらに西夏人は製鉄や治金にも長け、さまざまな道具を生み出しました。本作だと第7巻でユルールが金国の武人・ジルグスから渡される「西夏の剣(夏人剣)」が、彼らの生み出した鉄器の1つです。ただし、すぐれた技術とは裏腹に、西夏国人はあまり戦闘に長けているとはいえなかったらしく、そのため城塞都市によって守られていました。
本作の主人公であるシュトヘルも、もとは雲州にある城塞都市に配属されていた兵士で、仲間の兵達とともに立てこもっていました。しかし騎馬戦だけでなく、攻城戦の力まで手に入れたモンゴル軍にかなわず、あっという間に全滅させられてしまったのです。
またモンゴル帝国は、中東やヨーロッパにまでおよんでいたので、モンゴル帝国は多種多様な人種、部族が入り乱れており、アルファルドのようなアラブ系の商人や、大ハンの遣いを自称する女性・ヴェロニカのようなヨーロッパ人もいたよう。彼らのことは、まとめて「色目人(しきもくじん)」と呼んでいました。
作中のヴェロニカのように、もしかしたら実際にチンギス・ハーンの部下の中に、ヨーロッパ人がいたのかもしれません。
ここではオリジナルキャラも多い本作の登場人物たちの魅力をご紹介します。
シュトヘル
本作の主人公にして、ヒロイン。燃えるような赤毛が特徴の美人。体を纏う毛革は、狼と戦ったときの戦利品です。元は西夏人の女兵士ですが、あまり優秀とはいえず、仲間達からは「ウィソ(すずめ)」と呼ばれていました。
しかし、ハラバルによって仲間達を皆殺しにされ、仲間の死体を漁りにきた狼達と戦っているうちに、まるで狼が乗り移ったかのような、高い身体能力を手に入れたのです。
さらに喉笛に食らいつくという狂気の戦い方で、モンゴル兵を殺し続けていることから「シュトヘル(悪霊)」と呼ばれるようになりました。
ユルールとは旅の途中で知り合います。当初は彼のことを、仇であるハラバルを呼び寄せる餌としてしか見ていなかったようですが、彼から文字を学んでいくうちに心を通わせていくようになります。
1回処刑されて蘇ったときに須藤の魂が乗り移ってしまったので、内面が二重人格となってしまいました。
須藤
現代の高校生。「見たことの無い戦場の夢」を見るようになってから高校も休みがちになり、楽器職人である両親も蒸発してしまった、災難の多い若者です。仲間に呼ばれたカラオケでスズキさんと出会ったことがきっかけになり、処刑されていたシュトヘルに転生します。
飄々とした性格で順応性が高く、13世紀のモンゴルの暮らしにも、すぐに慣れてしまいました。
彼が宿っているときのシュトヘルは髪がショートになって、戦闘力も低くなってしまい、どこかとぼけたような性格になってしまいます。その一方で根が世話焼き屋のようで、ユルールやヴェロニカのことを気にかけています。
ユルール
本作の、もう1人の主人公。常に鷲のヤラルトゥを連れて、馬頭琴を持った、切れ長の目が印象的な少年です。音楽と書を好みます。名前は「祝福」という意味。ツォグ族のハン(族長)の息子として生活していますが、実は大ハン(テムジン)の息子です。
族長の妻が大ハンに奪われ、その後戻ってきたときに、彼女は大ハンの赤ん坊を身ごもっていました。その赤ん坊が、後のユルールとなったのです。その後、大ハンの血を引いているということで、いずれ彼を大ハンとの取引に使えると思った族長が、彼を養子としました。
ハラバルの母・玉花に育てられたため彼女を「母」と慕い、読み書きを学んだ影響から、西夏文字を読み解くことができます。その一方、弓や戦いに興味が無いため、兄以外の一族の者とは打ち解けることが出来ませんでした。
さらにモンゴル軍が、母の祖国である西夏国を攻め込んでいくさまに心を痛め、玉花の愛した西夏文字を守るべく、一族を抜ける決意をします。
彼が道中でさまざまな人に出会い、いろんな価値観やものの考え方を学んで成長していく一方、シュトヘルのように、彼の誠実さや優しさに影響される人も現れるようになるのです。
スズキ
須藤が休んでいる間に転校してきた、寡黙でミステリアスな少女。容貌はユルールによく似ています。
海外で生活していましたが、日本に帰国してから須藤同様、不思議な夢を見るので、同じ境遇である彼に興味を持つようになりました。
彼女の導きで須藤はシュトヘルに転生しますが、一時的に彼が現代に戻ったために歴史が変わり、彼女の存在が消えてしまったことから、須藤は再びシュトヘルに転生することになります。
ハラバル
ユルールの義兄で、ツォグ族の族長の息子。母は西夏人で、ユルールの育ての母である玉花です。名前の意味は「黒虎」で、その名前を示すためか、滅ぼした町に血で虎の絵を描くことがあります。
「神箭手(メルゲン)」と呼ばれるほどの弓の達人で、大ハンに逆らったために立場の悪くなった一族を立て直すべく、蛮勇を奮っています。そのためなら、母の故国である西夏国を攻めていくことも厭いません。
一方ユルールに対しては、本物の弟のように愛情を注いでいました。彼のように文字に興味を持つことはないようですが、西夏文字は母から学んでいたよう。
西夏侵攻の際、シュトヘルの仲間を皆殺しにしたため、彼女の仇の対象となります。
ボルドゥ
ツォグ族に仕える老人。元は西夏人で、針治療の達人です。かつては玉花の従者でもありました。
元は西夏の高官で、玉音同を守る使命を受けていました。しかし一族を出ようとしたユルールの覚悟を見抜き、彼の従者となって、ともに西夏文字を守る旅に出ます。
ボルドゥという名前は、モンゴル族にいたときから使いはじめた名前で、本名ではありません(元の名は忘れたとのこと)。
ヴェロニカ
大ハンの夜伽の相手や体の治療、使者などの任務をこなす金髪碧眼の美女。
ヨーロッパ人で、もとは敬虔な修道女だったのですが、流浪の異民族(ロマ)と仲良くなったために魔女と疑われてしまいます。その後司教に強姦され、異端者の焼印をつけられてしまい、異民族たちは村人達に殺されてしまいました。
このような無慈悲な故国の住人を憎悪した彼女はモンゴルに流れ落ち、大ハンに近づき、彼に故国を攻めてもらえるように画策していきます。
もともと異民族達から医術を学んでおり、それを大ハンの背中にある傷の治療に役立てています。彼女も背中に忌まわしい焼き印を刻まれていることから、彼の背中の傷を知ることを許された、唯一の人物でもあるのです。
また、須藤の人格でいる時のシュトヘルと時折出会うことがあり、その際交流を深めていき、やがて奇妙な友情で結ばれることになります。
アルファルド
ユルールとボルドゥが成都に向かう際、道案内を引き受けたアラブ系の男で、本業は商人。シュトヘルに魅了されており、彼女の情報屋のようなこともしています。
十字軍に己の故郷を滅ぼされた過去があり、その際、信仰や正義みたいな「物差し」で生死を決めるのは馬鹿馬鹿しいと思うようになりました。厭世的で虚無的な性格になってしまったようです。
テムジン
モンゴルの各部族を統括する「大ハン」で、ユルールの実父。一般的には「チンギス・ハーン」と呼ばれている、実在の人物です。肖像画で描かれている彼の顔はふっくらとしていますが、本作では精悍(せいかん)な顔立ちで、目はユルールによく似ています。
歴史物では、英傑として描かれることが多い人物ですが、本作では目的のために手段を選ばない性格として描かれているキャラ。
本作では、少年時代に仲間達とともに西夏の町に盗みに入りましたが、捕まってしまい、その際に仲間達を介抱してもらうために、背中に西夏文字の焼印を押されてしまいます。その痛みに耐えたものの、その文字の意味が侮辱的であったために、仲間達から蔑んだ眼差しを送られるという仕打ちが待っていました。
これをきっかけに彼は仲間を殺し、西夏文字を激しく憎むようになりました。
トルイ
実在した大ハンの末子で、後にチンギス・ハーンの後継者となります。本作ではオリジナル設定で、双子のナランという兄弟がいます。
本作の魅力はのひとつが、熱い戦いのシーン。ここでは大ハン(テムジン)とユルールとのバトルの様子をご紹介します。
小さなおれよ。今一度会おうとは。
(『シュトヘル』第10巻より引用)
大ハンは、息子であるユルールにそう言って、己の名前を彼に伝えました。
それが…あなたの名か…?
―テムジン。
(『シュトヘル』第10巻より引用)
上記は、本作最大の見所の1つ。ユルールと大ハンが金国で対峙する前に、ユルールが父本人から、彼の本名を聞かされる場面です。2人を会わせたのは、トルイの双子の兄弟・ナランの策略でした。彼は、大ハンにユルールを殺させるために2人を会わせ、その大ハンを殺させるために、シュトヘルとハラバルをここへ呼び寄せたのです。
- 著者
- 伊藤 悠
- 出版日
- 2014-09-30
やがて、2人は語り合います。
ユルールは、文字の力が時に人を傷つけるのだということを学びました。そのうえで、彼は文字の尊さを説くのです。彼は数多くの人が書いた、数多くの文字を残さなければならないと言いました。敗者や死んだ人の残した悲しみは、文字によって残されて、誰かに伝えられていくからです。そして文字は人と人を繋ぐことで、死者も敗者も救うことが出来ると説くのです。文字に記録されることで、読まれた人の心の中で生き続けるのだと。
それに対し大ハンは、人が触れられたくないことを暴きたて、侮辱となると怒り、これを否定しました。そして自分は、語ることも語られることも望まぬと言い放つのです。
どちらも一歩も退けぬなか、シュトヘルがユルールを助けに現れました、しかし、大ハンはユルールの背に刃を突きつけてしまいます。ユルールを殺されたと思ったシュトヘルは怒りに駆られ、再び悪霊のごとき凄まじさで、大ハンを切りつけるのです。
双方がまるで野獣になったかのような、激しい戦い。
そしてハラバルも現れ、大ハンの片腕を撃ち抜きます。そしてとどめを刺そうとするのですが、トルイが父親を守るべく現れて阻まれてしまうのです。
ユルールと大ハンの、一触即発のなかでも言葉を交わし続けるその場面は、言葉の決闘ともいうべき迫力に満ちています。
ナランは、トルイを大ハンの後継者とするべく、ユルールを利用し、大ハンの殺害を企てました。しかし父を敬愛するトルイは、ナランに重症を負わせ、彼をその場に放置するのです。
結果的にナランはヴェロニカに殺され、彼が持っていた玉音同の半分は、ヴェロニカが回収しました。
戦いが終わったとき、シュトヘルはヴェロニカに助けられ、2人は慰めあいながら、ユルールがいなくなった場所を確認します。そして彼の荷物も無くなっていることに気がつき、彼が生きている可能性を見出すのです。
一方、片腕を切り落とされ、心が少し軽くなったようにも見えるものの、ユルールに自分と同じ西夏文字の傷を与えた大ハン。どことなく自分の苦しみを理解してもらいたいようにも見えます。
そんなユルールは戦場で倒れていたところで目が覚め、背中に大ハンと同じ傷を持ったことに気づきます。その後、残り半分の玉音同を持ち去り、玉音同を探す任務に就いたトルイに近づくのでした。その目的は、モンゴル軍に入って彼に取り入り、軍の内側から文字を守ることでした。ただ、それは戦争によって他国を蹂躙するという、彼がもっとも嫌う行為をすることを意味しています。
一方、ヴェロニカに助けられたシュトヘルの命は、残り少なくなってきていました。理由は定かではありませんが、しだいに傷の治りが遅くなってきているのです。
モンゴルと父を守ろうとするトルイ。文字を守るという使命と正義感の間で揺れるユルール。シュトヘルを助けて心を通わせたことで、胸の内に変化が訪れるヴェロニカ。多くのキャラクターの思いと行動が、再びとてつもないドラマを生み出します。
大ハンとの戦いのあとに始まるこのうねりは、読者をまさかの展開へとつれていきます。ここから始まる新たな展開には驚かされること間違いなしです。
本作の魅力は、心に響く言葉にもあります。ここでいくつかご紹介しましょう。
兄さん、文字は生き物みたいだ。
記した人の思いや願いを伝えようとする。
その人が死んでも、文字は託された願いを抱きしめているようで…
生き物みたいだ。
(『シュトヘル』第1巻より引用)
ツォグ族が侵攻した、西夏国の町。その寺院で見つけた、経典の切れ端。それを見ながら、兄・ハラバルに語りかけるユルールの台詞です。兄は、そんなものにうつつをぬかすから滅ぼされると言って、それを捨ててしまいますが、本作のテーマに繋がる名言です。
- 著者
- 伊藤 悠
- 出版日
- 2012-12-27
お前の卑劣を、生きるための卑劣ゆえに許そう。
(『シュトヘル』第1巻より引用)
シュトヘルがまだウィソと呼ばれていた頃、ハラバルに仲間を皆殺しにされ、野にさらされた仲間の死体を食らおうとした狼たちを、彼女は片っ端から殺していきます。
そして、仲間の狼と妻を惨殺した彼女に、狼の首領は跳びかかってきます。しかし彼の一撃を、シュトヘルは、彼の妻の死体を盾にして防ぎ、彼も殺してしまうのです。
彼は死ぬ直前に、ウィソに上記の言葉を言いました。その言葉には、自然の摂理と真理が込められているようです。
あれは、物差しなしの生き物だ。
美しいとは思いませんか。
(『シュトヘル』第2巻より引用)
ユルール達の旅に同行したシュトヘルに、魅了されている様子のアルファルド。そんな彼に、ユルールがあの「悪霊」に惹かれているのか、と聞いたときの返答です。
アルファルドの一族はかつて十字軍と戦い、そして、その果てに滅びてしまいました。当時少年だった彼が見たものは、イスラム教を信じる自分の一族と、キリスト教を信じる十字軍の殺し合いだったのです。
そんな彼は、物差し=価値観をぶつけ合って生き死にをすることが、馬鹿馬鹿しくなってしまいます。そして、いかなる価値観でも計ることのできないシュトヘルの狂気に魅了されて、彼女の協力者となったのです。
彼にとって彼女は執着であり、信仰であり、そして物差しだったのかもしれません。
何処にあっても、おのれの、生の台詞を吐け
(『シュトヘル』第7巻より引用)
金国に攻め入ったハラバルと死闘を演じ、最後は爆薬で道連れにしようとした金国の老将軍・ジルグスが、己の死を看取って世話をしようとしたユルールに伝えた言葉です。
ジルグスが亡くなる前に、文字を知れば人が人を知り、結びつき、助け合うことをユルールは学びます。そして王がいなくても、人々自身が人を救うと説きました。
その言葉に感銘を受けたジルグスは、彼が子供時代に世話係をした北宋最後の王から頂いた、西夏の剣をユルールに授け、その剣の一太刀を持って、彼に自身の世話をさせたのです。
この言葉は読者だけでなくユルールの心にも大きな影響を与え、後に大ハンと対峙したときに思い起こすものとなります。
モンゴル軍が、西夏の残党を殲滅するための戦いが始まる前に、ユルールとシュトヘルは再会。この時のユルールは青年に、一方のシュトヘルは、もう「悪霊」ではなく、1人の女性に戻っていました。
ユルールは彼女に、玉音同の写しが刻まれた文字版と、自分が今まで出会ってきた人のことの記録を渡します。それを見たシュトヘルは、彼の名前が記されていないと気づいて、こう言うのです。
続きを書いてもいいか。
(『シュトヘル』第14巻より引用)
彼女はユルールのことを、そして自分が彼と出会ったことを書くといいました。2人は文字を通じて、何度でも出会うこととなるのです。それは、心と心の交流でした。
彼女と別れたユルールは、彼女を生かすために、手に入れた生首に細工をして彼女の死を偽装します。トルイはその偽装を一目で見抜いていたものの、そのうえでユルールを己の影武者することを決めるのでした。
一方、ボルドゥとユルールによって命を救われたハラバルは、ナランの侍女だった少女・メルミを連れていました。彼らの標的は、トルイです。
やがて戦いが始まりましたが、力の差は歴然。もはや西夏軍の残党は、河の中をひたすら逃げ続けるしかありません。シュトヘルは、知り合いとなった男・ガジに運ばれます。彼女にはもう、命の力が無くなりかかっていたのです。
そんなとき、仲間の西夏人が、命惜しさにシュトヘルをモンゴル軍に引き渡そうとすべく、ガジとシュトヘルに迫ってきました。窮地のなかで再びよみがえる、シュトヘルの最後の力。
彼女はガジを逃し、再び戦場へと向かうのです。
- 著者
- 伊藤 悠
- 出版日
- 2017-05-12
『シュトヘル』は、誰かに何かを残したい者と、すべてを燃やして消し去りたい者の対比が巧みに描写された物語です。前者が、ユルールとボルドゥ。ハラバルも、最初は家や一族を守りたいと思って戦っていました。
そして後者は、テムジンとヴェロニカです。2人は呪いを刻まれたために、それを消し去ろうとします。その結果、テムジンは西夏を、ヴェロニカは己の故郷を滅ぼそうとしました。
シュトヘルは最初「消し去りたい者」でしたが、ユルールと接しているうちに、いつしか文字の力に魅了され、彼と同じ志を持つようになります。なぜなら彼女には、忘れたくない存在・仲間がいたからです。その仲間はすでに死んでいましたが、ユルールから教わった西夏の文字で、彼らの名前を記すことが出来ると知りました。
たとえその人が死んでも、文字に刻まれることで、時を越えて誰かに知られる。
この物語がたまらなく胸を熱くさせるのは、時を越えて、誰かに、大事な何かを伝えようとすることの素晴らしさを物語っているからでしょう。
心が呪いと憎しみにまみれたヴェロニカにも、会いたい人、思い出したい人がいたはずです。もしかしたらテムジンの心の中も、呪いだけではなかったのかもしれません。2人の心の内の真実を、呪いを受けた人間の悲しみも、苦しみも、文字によって刻んで誰かに伝えることが出来るとわかっていたら、彼らにも別の道があったのかもしれません。
そんな考えが浮かぶほど、他者と繋がること、何かを伝えることの素晴らしさを感じさせてくれる作品です。
本作の重要人物である大ハンこと、チンギス・ハーンの孫であるフビライ・ハンは、後に鎌倉時代、日本に攻めてきます。世にいう、元寇です。そして、この元寇の戦いを描いた漫画作品で、アニメ化もされたことで話題になった『アンゴルモア 元寇合戦記』という作品もあります。歴史的理解を深める意味でも、合わせて読んでみるのも面白いかもしれません。
また、本作のご紹介にあたってシュトヘルとユルールの関係は、恋愛という簡単な言葉で済ましていいものではないような気がして、あえて本文では使いませんでした。そのくらい、この2人は時空を超えた絆で結ばれているからです。こちらも見所ですので、ぜひご自身の目でその様子をご覧いただければと思います。