東西冷戦の最中にチェコスロバキアの民主化を目指した変革運動「プラハの春」。一体どんなことがおこなわれていたかご存知でしょうか。この記事では、一連の運動の概要や流れ、背景、結末、指導者だったドゥプチェクなどを解説していきます。あわせておすすめの関連本も紹介するので、ぜひ最後までご覧ください。
東西冷戦の真っ最中である1968年、東側陣営に属する社会主義国家のチェコスロバキアで起こった変革運動を「プラハの春」といいます。
「チェコ事件」というワルシャワ条約機構軍による軍事介入によって、わずか8ヶ月で頓挫したものの、後の東ヨーロッパ諸国の民主化に与えた影響を考えると、歴史的意義の大きな出来事でした。
変革運動の指導者は、1月5日にチェコスロバキア共産党第一書記に就任したアレクサンデル・ドゥプチェク。「人間の顔をした社会主義」をスローガンに掲げ、自由を尊重した社会主義を目指していきます。
改革の目的は、共産主義体制に対する民衆の支持を確保し、共産党指導体制を維持すること。そのために、1968年4月に採択された「行動綱領」のなかで、「党への権限集中の是正」「粛清による犠牲者の名誉回復」「連邦制導入を軸とするスロバキア問題の解決」「経済改革」「言論や芸術の自由化」「ソ連との同盟関係を維持しつつ、西側諸国との経済関係も強化する外交政策」などの実現を目指しました。
政策を実現するために、党や内閣などの中枢には改革派の人材を多く登用し、改革を推し進める体制をとります。
変革運動は、共産党による上からの改革として始まったものですが、6月27日には有名な作家であるルドヴィーク・ヴァツリークが、支持を表明する「二千語宣言」を主要な新聞の紙面上に掲載するなど、改革の機運は社会全体へといっきに波及していきました。
一連の改革が起こった背景には、「スターリン批判」があるといわれています。
スターリン批判とは、1956年のソ連共産党大会にて、第一書記のニキータ・フルシチョフがおこなった「個人崇拝とその結果について」と題される秘密報告のこと。それまで絶対的存在として君臨してきたスターリンの思想や政策を批判した内容でした。
スターリン批判は世界中の共産主義者に大きな影響を与えることとなり、それはチェコスロバキアにおいても例外ではありませんでした。
計画経済の行き詰まりやスロバキアの自治要求、また1950年代におこなわれていた粛清の犠牲者たちの名誉回復などさまざまな問題を抱えていたこともあり、不満が高まっていきます。
特に矛先を向けられていたのが、1953年からチェコスロバキア共産党の第一書記となり、1957年からは大統領も兼任していたアントニーン・ノヴォトニーです。
共産党体制への批判と改革の要求が集中し、結果的に1968年に、彼に代わってアレクサンデル・ドゥプチェクが共産党第一書記に就任します。これが後にプラハの春と呼ばれることになる改革運動のきっかけとなりました。
プラハの春の指導者であるアレクサンデル・ドゥプチェク。1921年にスロバキア西部で生まれました。父親の影響もあり、1939年に18歳で非合法政党だったスロバキア共産党に入党します。
第二次大戦末期の1944年には、ナチス・ドイツの支配に対する武装闘争「スロバキア民衆蜂起」に参加。戦後は、チェコスロバキアがソ連の占領下で共産主義国家となると、国内の共産党機関で勤務し、1955年から1958年まではモスクワに留学して政治学を学びました。
当時のソ連では、「非スターリン化」と呼ばれるソ連共産党の政策転換がおこなわれていて、これを目の当たりにしたことが、後にドゥプチェクが改革を目指す素地になったともいわれています。
帰国後は、1962年にブラチスラヴァ市のスロバキア共産党県委員会第一書記、1963年にスロバキア共産党中央委員会第一書記に就任するなど、順調に出世。出版規制の緩和などに尽力しました。
1968年にはチェコスロバキア共産党第一書記に就任し、さらなる改革を目指します。
ドゥプチェクの目的は、民衆の支持を獲得して共産党指導体制を維持することで、完全なる民主化を目指していたわけではありませんでした。しかし改革運動は彼の意図を超えて広がり、共産党だけではなく、労働組合や青年組織、社会民主党などの非共産系政治組織の活動も急進化していくこととなったのです。
このような状況は、共産党の政策修正の域を超えているとして、ソ連をはじめとする東側諸国の批判を招くことになりました。特にソ連のレオニード・ブレジネフ書記長は、ヴァツリークの書いた「二千語宣言」を反革命的と厳しく批判しました。
党大会を前倒しして9月に開催することが決定されると、さらに反発が強まります。この党大会で改革に反対する人々を一掃し、改革勢力の支配がより盤石なものになると考えられたからです。
東側諸国は、3月にドレスデン、5月にモスクワ、7月にワルシャワ、8月にブラチスラヴァで会談の場を設け、改革運動を抑制しようとしますが、合意にはいたりませんでした。
その結果、8月15日から17日に開かれたソ連共産党政治局会議で、チェコスロバキアへの軍事介入が決定してしまいます。
8月20日の午後11時頃、ソ連、ポーランド、ブルガリア、東ドイツ、ハンガリーからなるワルシャワ条約機構軍が侵攻。チェコスロバキア全土を占領し、ドゥプチェクらは拘束され、プラハの春は終わることとなりました。
改革が盛りあがりを見せるなかで、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアに侵攻し、軍事占拠した出来事を「チェコ事件」といいます。
この介入を正当化するために用いられたのが、「ブレジネフ・ドクトリン」と呼ばれるもの。
「制限主権論」と訳すことができ、「社会主義国家のひとつが危機に陥ることは、社会主義ブロック全体が危機に陥るということ。そのため他の社会主義国家は無関心でいることはできず、全体の利益を守るために一国の主権を乗り越えることができる」という考え方です。スターリンやフルシチョフの時代を通して、ソ連の一貫した対東欧政策でした。
拘束されたドゥプチェクは、「共産党の指導的役割の擁護」「検閲の復活によるメディアコントロール」「非共産党系政治組織の解散」「改革派主要メンバーの更迭」を柱とする「モスクワ議定書」の締結を余儀なくされました。チェコスロバキア内にいる駐留軍の圧力のもとで、改革に逆行する「正常化」がおこなわれていきます。
ちなみにワルシャワ条約機構による軍事介入について、介入した翌日の8月21日にアメリカ・イギリス・フランスの要求で国連安保理が開かれ、即時撤退を求める決議が採択されています。しかしソ連が拒否権を行使したため、廃案となりました。アメリカはちょうどソ連と関係の改善を模索している時期で、相互不干渉という暗黙のルールに積極的に介入しようとはしなかったのです。
結局、ソ連軍がチェコスロバキアから撤退したのは、チェコ事件から約20年が経過した1989年のこと。共産党体制が崩壊してからになります。
- 著者
- ミラン クンデラ
- 出版日
20世紀を代表する「究極の恋愛小説」と呼ばれる作品。作者は、チェコスロバキア生まれでフランスに亡命したミラン・クンデラです。
ミラン・クンデラは、プラハの春で改革への支持を表明したため、チェコ事件以降創作の場を失い、著作も発禁処分を受けました。1979年にチェコスロバキア国籍をはく奪されるという壮絶な人生を送っています。
本書で描かれているのは、プラハの春で国が大荒れの状況で交錯する、2人の男と1人の女の三角関係です。人生における「重さ」や「軽さ」という概念を追求する哲学的な物語。世界的なベストセラーとなりました。
東欧の歴史に興味がある人はもちろんですが、純粋に美しい恋愛小説としても楽しめる作品です。
- 著者
- 春江 一也
- 出版日
- 2000-03-17
作者は、プラハの春当時にチェコスロバキアの日本大使館で勤務していて、ソ連軍侵攻の第一報を打電した外交官です。
本書は、共産主義社会の反体制活動家である女性と、西側の若き外交官の命がけの愛を描いた物語。作者自らの体験がもとになっているそうです。
実在する人物も登場し、歴史の1コマをリアルに感じることができるでしょう。どこまでがフィクションでどこからがノンフィクションなのか、当時の街の雰囲気を感じられる一冊です。