5分でわかる三国干渉!ロシアやイギリスなど各国の状況をわかりやすく解説!

更新:2021.11.16

1895年、ロシア・ドイツ・フランスから日本に突き付けられた「三国干渉」。日露戦争の遠因になったとも考えられています。この記事では概要と経緯を説明したうえで、当時の各国の状況や日本の対応をわかりやすく解説。あわせてもっと理解が深まるおすすめの本も紹介するので、ぜひご覧ください。

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三国干渉とは。なぜ起きたのか概要を簡単に解説

 

1895年4月17日、日本は「日清戦争」に勝利し、清との間に「下関条約(日清講和条約)」を締結しました。この条約にもとづき、2億両の賠償金や、遼東半島・台湾・澎湖諸島などの領土を得ることとなります。

しかしロシア・ドイツ・フランスの三国が、遼東半島を3000万両と引き換えに清に返還するよう勧告してきたのが「三国干渉」です。「下関条約」を締結してからわずか6日後のことでした。

日本は清に勝利したとはいえ、明治維新からわずか30年足らずしか経っておらず、三国の圧力を跳ねのけるほどの国力はありませんでした。5月4日には勧告を受諾し、遼東半島を清に返還することとなります。

三国の言い分は、遼東半島を外国が支配すると首都である北京が脅威に晒され、極東の平和を損なうというもの。しかし日本が返還した後に清の分割支配に積極的に乗り出すようになり、1897年にはドイツが膠州湾を、1898年にはロシアが遼東半島南部の旅順・大連を、そして1899年にはフランスが広州湾を租借するなど、清の領土は草刈り場の様相を呈していくことになります。

日本国内では、「下関条約」によって正当に得た領土を、三国の圧力によって放棄させられたことに反発が高まります。特に本来得るはずだった遼東半島を租借したロシアに怒りの矛先は向けられ、後の「日露戦争」の遠因になったといわれているのです。

三国干渉時のロシア・ドイツ・フランスの状況は

 

三国干渉におけるロシア・ドイツ・フランスの状況や思惑を整理してみましょう。

ロシアは18世紀に海洋進出に乗り出して以降、「不凍港」を手に入れることを悲願としていました。「不凍港」とは文字通り「凍らない港」のことで、領内の多くの港が冬には凍りついてしまうロシアにとっては、軍事的にも経済的にも手に入れることが宿願だったのです。

そのため、幾度となく南下政策を推しすすめてはイギリスなどに阻止されることをくり返していました。ちなみにこのロシアとイギリスの関係は、巨大な盤面で争うチェスになぞらえて「グレートゲーム」と呼ばれています。

アジアにおける権益拡大を狙っていたロシアにとって、不凍港である遼東半島の旅順や大連は、是が非でも手に入れたい港。日本に奪われるわけにはいきません。そのためドイツとフランス、そしてイギリスに対し、結託して日本に勧告することを提案したのです。

一方のドイツは、1894年に「日清戦争」が開戦した当初、極東への進出には消極的な態度を示していました。「下関条約」が締結される10日ほど前の時点でも、講和内容に異議がないことを表明していたのです。

それが心変わりをしてしまった理由は、清に恩義を売っておけば、寄港地を租借できると考えたから。実際に1897年に膠州湾を得ています。

またドイツはロシアとフランスに挟まれた立地にあるため、両者の接近を阻止するとともに、ロシアの目を極東に向けさせて自国への脅威を軽減させたいという思惑もあったようです。

フランスについては、1892年にロシアと秘密軍事同盟を結んでいました。そのためロシアと足並みをそろえる必要があったのです。

三国干渉時のイギリスは?

 

実はイギリスも、ロシアから日本への勧告に誘われていましたが、実際の干渉には加わりませんでした。これは、もともと「下関条約」の内容がイギリスにとって不利な内容ではないことと、イギリス国内の世論が日本を支持していたことが理由にあげられます。

ただ日本側につくこともなく、あくまでも「中立」の立場をとっていました。

当時のイギリスの首相は、1894年に就任したアーチボルド・プリムローズという人物。財務大臣のウィリアム・ヴァーノン・ハーコートと対立し、周囲からは「英国史上稀に見る弱体内閣」と呼ばれ、自らも「私はゴミ捨て場のようなもの」と語るほど苦しい状況にありました。

そのため極東の問題に積極的に介入する余力がなかった、というのも中立で居ざるを得ない理由のひとつだと考えられています。

三国干渉が実施された結果、清の領土は列強に浸食されていくことになります。ロシアが北部の満州に、フランスが南部の雲南省・広西省・広東省・四川省などに、ドイツが東部の山東省に勢力圏を広げたことで、これまで広大な権益を中国に有していたイギリスは苦境に陥ってしまうのです。

イギリスは長らく、他国と同盟を結ばずに「名誉ある孤立」とも呼ばれるスタンスを保っていました。しかし、プリムローズを破って首相となったロバート・ガスコイン=セシルは、自国の力のみで中国の権益を守り切ることは難しいと判断。特に脅威であるロシアの南下政策を阻止するため、1902年に日本との間に「日英同盟」を締結したのです。

その結果、1904年に勃発した「日露戦争」において、イギリスは日本を支援することとなります。

三国干渉に対する日本の対応は?スローガンは「臥薪嘗胆」

 

三国干渉への対応として日本は、「無視」「他の列強を巻き込んでの会議」「受諾」の3つの選択肢を検討していました。

まず「無視」ですが、日清戦争が終わったばかりの状況で大国と争う国力は無いため、不可能となります。

次に「他の列強を巻き込んでの会議」ですが、当時の首相である伊藤博文がイギリスやアメリカ、イタリアなどを巻きこんで三国を牽制し、勧告を撤回させられないかを提案します。

しかし列強国が味方についてくれるとも限らず、むしろ更なる要求を突き付けられる可能性もあるとして、外務大臣の陸奥宗光が反対しました。さらに5月4日にイギリスとアメリカが中立を宣言したため、この構想は断念せざるを得ませんでした。

その結果、日本は受諾を選択。「下関条約」によって正当に得たはずの領土を、大国に屈して手放さなければならない事実に、国民は激しく反発します。

これに対し明治天皇は、「日本が清と戦ったのは東洋の平和のためで、ロシア・ドイツ・フランスも東洋の平和を考えて勧告をした。東洋の平和を守るために、自制してもらいたい」という主旨の「遼東還付の詔勅」を発して国民をなだめました。

しかしその後ロシア・ドイツ・フランスの三国は、「東洋の平和を守る」という建前のもと、次々と中国の領土を租借していきます。日本が放棄した遼東半島の旅順・大連がロシアのものとなると、国民の怒りはさらに高まっていきました。

日本政府は、中国の故事にならった「臥薪嘗胆」という言葉をスローガンに掲げ、国民もこの屈辱をいずれ晴らそうと、一丸となって軍備の増強に邁進していくこととなります。賠償金をもとに八幡製鉄所の建設や六六艦隊計画などが進められ、「日露戦争」へとつながっていきます。

世界史を変えた日清戦争と日露戦争

著者
吉本 貞昭
出版日
2015-04-11

 

「戦争」というと、ルール無用の殺戮がおこなわれていると思われがちですが、「日清戦争」「日露戦争」において日本は、ルールを守ることにこだわっていました。

「眠れる獅子」といわれていた清、そして「世界最強」と恐れられていたロシアの2ヶ国に「ルールを守って」勝利したことで、日本は文明国の仲間入りを果たしたともいわれています。

本書は、アジアが欧米に支配される構造になった経緯や、日本が清やロシアと戦うという選択をした理由、そしてその結果を世界がどのように見ていたのかを検証する作品です。

日本が三国干渉を受けるほどに世界から警戒された理由がわかるので、近現代史を学びたい方はぜひお手にとってみてください。

三国干渉など近現代史を漫画で学ぶ

著者
出版日
2012-11-14

 

日本の歴史を扱う「学習まんが」シリーズの10冊目、明治時代後期を扱った作品です。

オールカラーで、日本が近代国家への歩みを進める激動の時代がわかりやすく描かれています。時代考証もされていて資料も豊富なのが特徴です。

日清戦争と三国干渉、そしてその後の日露戦争などが人物を中心に展開していくため、当時の状況をリアルに感じることができるでしょう。

日本にとって三国干渉は、戦争が二国間の争いではなく、大国同士の思惑が絡みあう複雑なものであるということを初めて痛感する出来事でした。また列強にとっても、アジアの新興国の台頭というこれまでに経験したことのない事態で、どう振る舞えばよいのか模索したものだったといえます。興味をもたれた方はぜひ紹介した本を読んでみてください。

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