5分でわかる三国同盟!三国協商との違い、世界情勢の構図をわかりやすく解説

更新:2018.11.22 作成:2018.11.22

第一次世界大戦へとつながることになった「三国同盟」と「三国協商」の対立。いったいどのような流れで戦いに突入していったのでしょうか。この記事では当時の世界情勢を説明したうえで、「三国同盟」と「三国協商」の違いや、裏切りと呼ばれたイタリアの行動、日本の関わりなどをわかりやすく解説していきます。あわせて理解が深まるおすすめの関連本も紹介するので、ぜひチェックしてみてください。

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「三国同盟」はなぜできた?第一次世界大戦前の世界情勢をわかりやすく解説

 

まず三国同盟が締結されるまでの流れを説明していきましょう。

1914年に勃発した「第一次世界大戦」の遠因は、1870年に始まった「普仏戦争」にまでさかのぼるといわれています。世界の大半がフランスが勝つと予想していましたが、意外にもプロイセンがナポレオン3世を捕虜にするほどの圧勝をおさめたことが、ひとつのきっかけだとされているのです。

1871年には、プロイセンが中心となってドイツが統一され、ドイツ帝国が成立しました。一方で敗れたフランスは混乱状態に陥ります。アルザス=ロレーヌ地方を失い、多額の賠償金の支払いを命じられ、ドイツに対する敵対感情を強くしていきました。

一方でドイツの「鉄血宰相」ことオットー・フォン・ビスマルクは、フランスを外交的に孤立させるために、1873年にロシア、オーストリア=ハンガリー帝国との間に「三帝同盟」を締結します。ただこの同盟はロシアとオーストリア=ハンガリー帝国が対立したことで解消してしまいます。

するとビスマルクは、フランスを封じ込める新たな体制の構築を目指し、1882年にオーストリア=ハンガリー帝国、イタリアと同盟を結びました。これが「三国同盟」です。

さらにビスマルクはロシアとの関係も維持するべく、1887年に「独露再保障条約」を締結します。

ヨーロッパからフランスを孤立させる「三帝同盟」「三国同盟」「独露再保障条約」は、「ビスマルク体制」とも呼ばれ、彼が1890年に辞職するまでの間続きました。

「三国同盟」と「三国協商」違いと対立構図

 

では「三国協商」について説明していきます。

ビスマルクが辞職した後、ヴィルヘルム2世の親政が開始されると、これまでビスマルクが推進してきた列強との協調関係よりも、ドイツの勢力拡大を目指す帝国主義政策が重視されるようになります。

ヴィルヘルム2世は、ビスマルク体制を支える柱のひとつだった「独露再保障条約」の更新を拒否。その結果、外交的に孤立したロシアはフランスへの接近をはかり、1894年には「露仏同盟」が締結されました。

ヴィルヘルム2世は幼い頃から海に興味を抱いていたこともあり、海軍の増強に乗り出します。1898年に「第一次艦隊法」、1900年に「第二次艦隊法」を成立させます。

しかしこの政策が、イギリスを大きく刺激することとなるのです。それまでイギリスは、他国と同盟を結ばない外交方針を貫いていましたが、オランダ系アフリカーナと植民地を争った「ボーア戦争」で苦戦したことや、極東におけるロシアの南下、それに加えてヨーロッパでドイツが台頭してきたため、方針転換をせざるを得なくなりました。

「ドイツと手を組んでフランス・ロシアと戦う」もしくは「フランス・ロシアと手を組んでドイツと戦う」という2択を迫られ、後者を選ぶのです。

1904年にはフランスとの間に「英仏協商」を、1907年にはロシアとの間に「英露協商」を相次いで締結しました。

こうしてできあがった「英仏協商」「英露協商」、そして「露仏同盟」というイギリス・フランス・ロシアの協調関係を「三国協商」といいます。

先述した「三国同盟」と「三国協商」の対立が、「第一次世界大戦」へとつながっていくこととなるのです。
 

両者とも似た名前をしていますが、「同盟」が軍事的な協力も含めたものであるのに対し、「協商」には軍事的意味が含まれていません。「同盟」に比べると緩やかな結びつきだと覚えておくとよいでしょう。

「三国同盟」におけるイタリアの裏切り

 

三国同盟の一員だったイタリアは、1861年に王国が成立したばかりの新興国です。建国以来、オーストリアの支配下に置かれている南チロルやヴェネツィアの奪還を目指していました。

1866年に起きた「普墺戦争」ではプロイセンと同盟を結び、オーストリアと戦ってヴェネツィアを奪還することに成功したものの、戦争がすぐに収束してしまったため、南チロルをはじめトリエステやイストリアなど残りの地域を取り戻すにはいたりませんでした。

これらは「未回収のイタリア」と呼ばれ、イタリア国民にとっていつかは取り戻すことが悲願だったのです。

ビスマルクに誘われて「三国同盟」に入ったものの、同じく同盟に加入しているオーストリアに対しては敵対感情が強くある状態が続いていました。

1914年に「第一次世界大戦」が勃発すると、当初は参戦を拒否。しばらく傍観していましたが、なんと「三国協商」の一員であるイギリスと1915年に「ロンドン秘密条約」を締結。「未回収のイタリア」の割譲を条件に、連合国側として参戦することになるのです。

「三国同盟」を結んでいたはずのドイツ軍、オーストリア軍と戦い、連合国側の勝利に貢献しました。

「三国同盟」と「三国協商」はやがて第一次世界大戦へ。日本の関わりは?

 

1914年に勃発した「第一次世界大戦」は、「三国同盟」を結んでいたドイツ、オーストリアを中心とする同盟国側と、「三国協商」を結んでいたフランス、イギリス、ロシアを中心とする連合国側の戦いです。

そのきっかけは、6月に起きた「サラエボ事件」というものでした。オーストリアの皇太子夫妻が、セルビア人の青年に暗殺された事件です。当時オーストリア領だったボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで起こったため、「サラエボ事件」と呼ばれています。

オーストリア政府はセルビアに対して10の項目が記してある「最後通牒」を突きつけ、その内容をセルビアが一部保留にしたことで、オーストリアが宣戦布告。各国が回避に尽力するものの、当時ヨーロッパを網の目のように覆っていたさまざまな条約が「自動参戦」を発動。その結果わずか数週間で主要な列強国が参戦することとなりました。

最終的には、軍人が900万人以上、軍人以外も700万人以上が亡くなるという未曽有の大戦へと発展していきます。

日本は当初、中立を宣言していました。イギリスと結んでいた「日英同盟」には「自動参戦条項」が付随していなかったからです。

イギリス政府としては、中国を拠点とするドイツ艦隊を日本に対応してもらいたいと考えている一方で、日本が中国や南太平洋のドイツ領を占領して権益を拡大させることを危惧する意見もあり、参戦を要求したり延期したりと、対応が安定しません。

当時の大隈重信首相は、8月8日に緊急閣議を開いて参戦を決定。8月15日にドイツに対して最後通牒を発し、1週間の回答期限を設けた後、8月23日に宣戦布告をしました。

連合国側の要請に応じる形で、ドイツ領の南洋諸島を占領。そのほかドイツ艦隊の拠点となっている中国の膠州湾および青島の攻略、太平洋およびインド洋での輸送船護衛、アメリカ沿岸からメキシコにかけての海域哨戒などに従事します。

1917年になると、ドイツの潜水艦を使った「Uボート」作戦が活発に。日本は連合国側の要請で巡洋艦や駆逐艦など計18隻からなる特務艦隊を編成し、ヨーロッパに派遣しました。

連合国側に大きく貢献した日本は、五大国の一員として「パリ講和会議」に参加。締結された「ベルサイユ条約」にもとづいて、中国のドイツ領を獲得し、1920年に創設された「国際連盟」の常任理事国となるのです。

日本人の知らない第一次世界大戦史

著者
板谷 敏彦
出版日
2017-10-17

 

日本人にとって「戦争」というと、第二次世界大戦を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。しかし現代に繋がる中東や東欧の問題、民族主義の問題、日中の外交問題などはその源流を辿ると、第一次世界大戦に繋がるのです。

どうしてあの戦争は起きたのか。「三国同盟」をはじめとする当時の世界の状況と、大戦の全貌を明らかにする作品です。

作者は、『金融の世界史』がヒットした板谷敏彦。金融史や産業史など独自の視点も絡めて見ていきます。

日本人の知識と世界のギャップを埋める一冊。新たな発見があるでしょう。

オスマン帝国はなぜ三国同盟側についたのか

著者
ユージン・ローガン
出版日
2017-10-03

 

第一次世界大戦の結果、ドイツやロシア、オーストリアなどの帝国が崩壊していきました。なかでも、現代において混迷を深めている中東問題の発端となったのが、600年以上にわたって存続してきたオスマン帝国の崩壊です。

なぜオスマン帝国は、三国同盟を中心とする同盟国側について参戦したのでしょうか。

これまでは戦勝国側の史料をもとに語られることの多かった第一次世界大戦ですが、本書はトルコ語やアラブ語の史料を駆使して、新たな視点からアプローチをしていきます。

いかにして戦い、敗れ、姿を消したのか。中東の現代史を学ぶうえでも読んでおきたい一冊です。