太平洋戦争末期、日本とアメリカによる壮絶な戦闘がくり広げられた「硫黄島の戦い」。クリント・イーストウッド監督が手掛けた映画で知っている人も多いでしょう。この記事では、その悲惨な戦いの概要や流れ、硫黄島が戦地に選ばれた背景、戦死者数など戦いの結果、指揮を執った栗林忠道などをわかりやすく解説していきます。あわせておすすめの関連本も紹介するので、ぜひ最後までご覧ください。
太平洋戦争の末期である、1945年2月19日から3月26日までの約1ヶ月間、東京都の小笠原諸島のひとつである硫黄島にて日本軍とアメリカ軍の戦いがありました。これを「硫黄島の戦い」といいます。
硫黄島は東京都に属していますが、都心からは約1200kmも離れています。活火山があり、島の表面が硫黄の堆積物で覆われていることから名付けられました。大きさは東西に8km、南北に4kmほど。狭いところでは800mほどの幅しかない小さな島です。
戦前は、硫黄の採掘やサトウキビの栽培に従事する住民が1000人ほど居住しているだけの、平和な場所でした。
硫黄島の戦いで日本軍は、守備兵力およそ2万人のうちの96%が戦死、もしくは行方不明となっています。一方でアメリカ軍も、人数でいえば日本軍以上の損害が出ました。
これほど激しい戦いは、太平洋戦争の後半では非常に稀なもので、硫黄島の戦いは沖縄戦とともに激戦地のひとつとして数えられています。
東京とグアム島のちょうど中間地点にある硫黄島。1944年の夏に、アメリカ軍がグアムやサイパンを含むマリアナ諸島を攻略すると、この地を拠点としてB-29による日本本土への空襲が始まりました。硫黄島の場所は、戦略的に重要度を増していくのです。
マリアナ諸島から出撃したB-29は硫黄島の周辺を通過するため、日本軍としては硫黄島で早期に発見できれば迎撃態勢を整えられるという利点があります。
一方でアメリカ軍にとっては、迎撃態勢を敷かれてしまってはB-29の損害が出てしまうことになります。マリアナ諸島から東京までは片道2000km以上あり、戦闘機の航続距離が足りずに同行させることができませんでした。また日本軍の爆撃機が硫黄島を経由してマリアナ諸島へたびたび攻撃を仕掛けてくることも、アメリカ軍を悩ませる要因となっています。
そのためアメリカ軍統合参謀本部は、「損傷、故障、燃料不足に陥ったB-29の緊急着陸先の確保」・「爆撃機を護衛する戦闘機の基地確保」・「日本軍の攻撃基地の奪取」・「日本軍の早期警報システムの破壊」などを目的として、硫黄島の占領作戦を決定したのです。
アメリカ軍が想定した、硫黄島占領に必要な日数は「5日」でした。
硫黄島の戦いに参加した日本軍の兵力は、栗林忠道陸軍中将以下、約2万3000人。一方のアメリカ軍の兵力は、リッチモンド・ターナー海軍中将以下、約11万人でした。
戦いの結果生じた損害は、日本軍が戦死約1万8000人、捕虜約1000人、アメリカ軍は戦死約7000人、戦傷約2万2000人です。
硫黄島の戦いに先がけて、日本軍は1944年6月の「マリアナ沖海戦」で航空母艦「大鳳」「翔鶴」「飛鷹」を撃沈され、続く1944年10月の「レイテ沖海戦」で戦艦「武蔵」「扶桑」「山城」、航空母艦「瑞鶴」「瑞鳳」「千歳」「千代田」を失っています。
こうして海と空の戦力がほとんどなくなっていた日本軍が、制空権と制海権を掌握して押し寄せるアメリカ軍に対抗できないことは、誰の目にも明白でした。
そこで栗林中将は、戦いに勝利することではなく、「上陸部隊に可能な限りの損害を与え、日本本土への進行を1日でも遅らせる」ことを目標とします。民間人全員を疎開させた後、天然の洞窟や人口の坑道からなる地下坑道を島全体に張り巡らせて硫黄島を要塞化し、内陸部にアメリカ軍を誘い込んで持久戦や遊撃戦に持ち込むことを基本方針としました。
坑道を作るのは、ツルハシやスコップなどを用いての手作業。火山島である硫黄島では至るところで硫黄ガスが噴き出し、防毒マスクの着用が不可欠でした。
また時には気温が50度にもおよぶ地熱にも苦しめられ、連続して作業できる時間は5分ほどだったといいます。
飲み水も、わずかな雨水のほかは硫黄臭がする井戸水しかないという過酷な状況。多くの病死者や脱走者、自殺者を出しながら、全長18kmにもおよぶ坑道を張り巡らせていきました。
1945年2月16日、アメリカ軍が硫黄島に向かって地形が変わるほどの艦砲射撃をおこない、上陸を開始します。日本軍は水際防御を放棄していたため、あるアメリカ兵が「俺達用の日本兵は残っているのか」と尋ねたほど。
しかしアメリカ軍が内陸部への前進を始めた19日、坑道の中で機をうかがっていた日本軍が一斉に攻撃を始め、海兵隊に大きな打撃を与えました。この日だけでアメリカ軍は2000人以上の死傷者を出したそうです。21日にはアメリカ軍の死傷者が5000人を超えました。
それでも進軍を続けるアメリカ軍。2月23日には、硫黄島の最高峰である摺鉢山の頂上に、星条旗が掲揚されます。1時間に約10mというスピードながら着実に前進を重ね、2月26日には元山飛行場を占領しました。
その戦い方は、火炎放射器で坑道を焼き、火炎の届かないには発煙弾を投げ込み、煙によって特定した出入口を重機で塞ぎ、上部に削岩機で穴をあけてガソリンを流し込んで火を放つというもの。日本軍からは「馬乗り攻撃」と呼ばれたそうです。
必至に抵抗する日本軍でしたが、3月16日16時過ぎに、栗林中将が大本営に対して訣別の電報を打ちます。
3月26日、約400人の将兵が最後の総攻撃を敢行。栗林中将は階級章や所持品など、個人を特定できるものをすべて外して総攻撃に臨んだとされ、その遺体は発見されていません。
栗林忠道中将は、太平洋戦争における各地の戦いで日本軍がおこなった「水際防御」と「バンザイ突撃」をせず、玉砕することを禁じたといいます。
また硫黄島の要塞化を進めながら島内を巡視し、すべての将兵と顔を合わせたそうです。時間が限られるなかで作業の遅れを防ぐため、上官の巡視時であっても敬礼をしなくてよいとするなど、合理的な人物でした。
そんな指揮官のもとで日本軍は戦い続け、当初は5日間で占領されると考えられていた硫黄島の戦いは36日間におよび、アメリカ軍にも多大な損害をもたらしました。
この様子はアメリカ国内でほぼリアルタイムで報道されていて、「硫黄島」や「栗林忠道」という名前は鮮烈なイメージを残すこととなります。
海兵隊兵士が摺鉢山に星条旗を掲揚したシーンは、その写真がピューリッツァ―賞を受賞したこともあって、アメリカ国民の記憶にも強く残っているそう。星条旗が掲揚された2月23日は、後に「アメリカ海兵隊記念日」にも制定されています。
日本とアメリカ双方の歴史に残る激戦となった硫黄島の戦い。その戦いを指揮した栗林忠道中将は、優秀な指揮官としていまなお高く評価されているのです。
- 著者
- 出版日
生存率5%以下。この数字だけでも衝撃的ですが、実際にそんな激戦を体験した人々の証言は、数字だけではわからない生々しさをもっています。
本書は、硫黄島の戦いから生還した方を取材したものです。炭を食べ、虫の湧いた水を飲み、死んだ仲間の体から内臓を取り出す……震えるほどの凄惨な光景がくり広げられています。
戦争の記憶が遠のきつつあるいま、あらためてどのように平和を守ればよいのか考えさせられる作品です。
- 著者
- 久山 忍
- 出版日
- 2013-11-30
日本軍の善戦を評価して、アメリカ軍が「勝者なき戦い」と呼ぶ硫黄島の戦い。本書は、なかば伝説と化しつつあるこの戦いを生き残った、元海軍中尉の証言をまとめたものです。
硫黄島の戦いはけっして大昔の出来事ではありません。しかも遠い異国の地ではなく、日本の東京で起こったことです。映画化もされたため名前を知っている人も多く、話題にもなりましたが、本書には実際に戦場に行った者にしかわからない真実が描かれています。
日本の歴史を知るためにも、ぜひ読んでいただきたい一冊です。