第一次世界大戦後、再び惨禍をくり返さないために設立された「国際連盟」。世界初の国際的な平和維持機構として一定の成果をあげた一方で、第二次世界大戦の勃発を防ぐことはできませんでした。この記事では機構の目的や問題点、日本の関わりや脱退した理由などをわかりやすく解説していきます。あわせて、もっと理解を深めることができるおすすめの本も紹介するので、ぜひご覧ください。
1920年に設立された、世界初の国際的な平和維持機構「国際連盟」。英語では「League of Nations」といいます。
きっかけは、1918年にアメリカ大統領のウッドロウ・ウィルソンが発表した「14か条の平和原則」とうもの。第一次世界大戦の講和原則と、あるべき国際秩序の構想を提唱したもので、その際に国際社会の新たな枠組みとして、国際平和機構を新設することも提言したのです。
1919年になると、第一次世界大戦の講和条約である「ヴェルサイユ条約」が成立します。ウィルソンの提言をもとに作成され、第1篇は国際連盟の規約が書かれています。
設立当初の加盟国は、第一次世界大戦の戦勝国を中心とする42ヶ国。その後、敗戦国のドイツや共産主義国のソ連など加盟国は増えていき、最盛期には59ヶ国にのぼっています。
本部はスイスのジュネーブに置かれ、最高決定機関である「総会」、主要機関として「事務局」、常任理事国と非常任理事国で構成される「理事会」が設置されました。また外部機関として「国際労働機関」や「国際司法裁判所」などがあわせて創設されています。
国際連盟の主たる目的は、「国際平和を実現すること」。規約には、戦争を抑止するためのさまざまな条項が盛り込まれました。
たとえば前文にて加盟国は戦争を避けることが義務づけられたほか、第8条では必要最低限度まで軍備を縮小することが求められています。第16条では、規約に違反した国に対してその他の加盟各国から経済制裁が科せられることが定められました。
それまで戦争抑止の枠組みは、二国間の条約によって形成されていましたが、国際連盟は違反国とその他の加盟国という構図の「集団安全保障体制」を導入。当時としては画期的な考え方でした。
国際連盟の中心となったのは、「常任理事国」と「非常任理事国」から構成される理事会です。任期が定められているのが「非常任理事国」。その一方で任期が定められていないのが「常任理事国」で、国際社会に対してより強い影響力をもっていました。
当時の日本は、第一次世界大戦の惨禍を免れ、大戦景気の影響もあり国力を強めていました。国際連盟を設立した当初、イギリス、フランス、イタリアとともに「常任理事国」に選出されています。新渡戸稲造が事務局次長の一員を務めるなど、運営にも大きく貢献しました。
また、唯一の非ヨーロッパ圏から選出された国として、1921年に勃発した「オーランド諸島問題」の解決にも尽力し、ヨーロッパ圏で生じた紛争に公平な立場で調停に立ちあっています。
さらに、可決はされなかったものの、1919年に規約を作成する際は「人種差別撤廃」を盛り込むことを提案しました。
このように日本は、国際連盟に対して積極的に関わり、大国として一定の影響力をおよぼしていたのです。
日本の地位は1930年代に一変します。1931年9月に日本が所有する鉄道が爆破される「柳条湖事件」が勃発したのをきっかけに、関東軍が満州一帯を占領して「満州国」の建国を宣言する「満州事変」が起きたためです。
中国は、日本の行為を侵略として国際連盟に提訴しました。これを受けて連盟側は、現地に調査団を派遣します。団長を務めていたイギリスのヴィクター・ブルワー=リットンが作成した「リットン報告書」は、関東軍の行動は不当なもので、「満州国」を承認することはできないという内容でした。
「リットン報告書」の同意確認は、最終的に賛成42、棄権1に対して、反対は日本だけとなり、これを不服とした日本は、1933年3月に国際連盟から脱退を表明したのです。
国際連盟と対立し、孤立の道を選択した日本。ただ実際には、日本に対する国際連盟の態度はそれほど強硬なものでなかったといいます。
たとえばリットン報告書には、「同夜に於ける叙上日本軍の軍事行動は、正当なる自衛手段と認むることを得ず。」に続いて「満州に於ける日本の権益は無視するを得ざる事実にして(中略)、日本と満州との歴史的関連を考慮に入れざるものは満足なるものに非ざるべし。」と記されています。
これは、関東軍の軍事行動を不当な行為と認定して、「満州国」の建設は認められないとしながらも、日本がもつ権益への一定の配慮が示されているもの。さらに事態の解決案として次のような提案がなされました。
「満州に於ける政府は、(中略)地方的状況及特徴に応ずる様工夫せられたる、広汎なる範囲の自治を確保する様改めらるべし。」
つまり、「満州国」を中国に返還するのではなく、日本の権益に配慮した自治政府を設置することを提言していたのです。
このことからもわかるように国際連盟は、「満州国」という枠組み自体は認めないものの、日本の権益に配慮した態度をとっていました。ではなぜ日本は、脱退という選択をしたのでしょうか。
要因は多岐にわたりますが、そのひとつが国民の動向です。当時日本国内では「昭和恐慌」が発生していて、国民は政府への不信感を強めていました。その一方で日本の権益保持につながる「満州国」を建国することは歓迎していたのです。政府は国民の支持を獲得するために、彼らが望む「満州国」を否定することができませんでした。
こうして日本は世論を背景に国際連盟を脱退、その後、ドイツやイタリアも脱退することとなり、国際情勢は第二次世界大戦へ向けて動き出すことになるのです。
1939年になると第二次世界大戦が勃発。「国際平和を実現すること」を目的としてきた国際連盟ですが、争いを防ぐことはできませんでした。その理由として、影響力が限定的だったことが挙げられます。
問題点として指摘されているのは3つ。まず1つ目は、国際連盟の制度そのものの問題です。最高決定機関である「総会」が、多数決ではなく全会一致の方針をとったため、問題が生じても迅速な対応をとることが困難でした。また軍事力ももたないため、侵略行為に対して軍事制裁をおこなうことができなかったのです。
2つ目は、大国であるアメリカが参加しなかったことです。国際連盟はアメリカのウィルソン大統領の提言を受けて設立されましたが、当のアメリカは、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸間の相互不干渉を基本とする「モンロー主義」を掲げ、加盟しませんでした。
そして3つ目は、1930年代に大国の脱退が相次いだことです。1933年3月に日本が脱退すると、同年10月にドイツが脱退を表明。さらに1937年にはイタリアも離脱してしまいます。国際連盟は、1934年にソ連の加盟を認めて勢力の維持を図りましたが、そのソ連も1939年に除名されてしまいました。
ほとんどの大国が参加していない国際連盟は、もはや有名無実となってしまったのです。
第二次世界大戦末期の1945年4月、大戦後の新たな国際秩序を構築するため「サンフランシスコ会議」が開催されました。会議に参加した国々は「国際連合憲章」に署名。ここで、国際連盟の反省をふまえ、新たな国際平和機構を設立することが決定されました。
国際連盟と国際連合は、どちらも国際平和の維持を最大の目的に掲げています。また国際連盟に設置されていた「国際労働機関」や「国際司法裁判所」は、国際連合へ継承されました。
大きな違いは、国際連合は「多国籍軍」を結成し、軍事制裁をおこなうことが可能になったことです。そのほか「PKO(平和維持活動)」の実施など、より実効性のある平和維持のための行動をとれるようになっています。
また「総会」は全会一致から多数決に変更され、迅速に方針を決定することができるようになりました。常任理事国であるアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国には「拒否権」が認められ、この5ヶ国が反対する議決は採決されないようになっています。
「拒否権」の存在はしばしば他の国から批判されることもありますが、国際連盟から日本が脱退してしまったように、大国の利害衝突が機構の分解を招くことを防ぐ措置であるといえるでしょう。
国際連盟 (中公新書)
2010年05月25日
本書は、設立から解消まで、国際連盟の全期間の動向をまとめた作品です。
第二次世界大戦を防ぐことができなかったため、しばしば「失敗」だったと評価される国際連盟。もちろん本書でもその限界には言及していますが、その一方で作者は、文化財保護の取り組みなどが今日の国際社会にもさまざまな影響を与えていると指摘しています。
組織の動きだけでなく個人にも注目し、新渡戸稲造をはじめとする日本人の行動にも言及。国際連盟の理念と日本国内の認識にギャップが生じていく様子が描かれています。
国際連盟を軸に、大戦の戦間期に世界がどのような情勢だったのかがわかる一冊です。
- 著者
- 玉城 英彦
- 出版日
- 2017-12-25
WHOで勤務した経験をもつ作者が、日本人としてはじめて国際連盟の職員となった新渡戸稲造の生涯を描いた作品です。
本書によると新渡戸は、「日本人らしさ」を活かすことで、国際社会のなかで活躍することができたそう。彼が経験した出来事を背景も含めて知ることで、日本が直面していた大きな時代の流れを感じることができるはずです。