5分でわかるピューリタン革命!原因や指導者クロムウェル等わかりやすく解説

更新:2021.11.16

17世紀に発生し、イギリスを揺るがした「ピューリタン革命」。この記事では概要や原因、その後の影響、指導者だったクロムウェルなどについてわかりやすく解説していきます。あわせておすすめの関連本も紹介するので、ぜひご覧ください。

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ピューリタン革命とは。概要を簡単に解説

 

1642~1649年にかけて、イングランド・スコットランド・アイルランドで起きた内戦のことです。別名を「清教徒革命」ともいいます。

イギリスのステュアート朝が敷いていた絶対王政に対し、議会の中心を占めていた富裕層「ジェントリ」の不満が爆発。彼らは、キリスト教プロテスタントのなかの一派「ピューリタン」がほとんどだったため、このように呼ばれています。

国王を支持する「騎士党」と、議会を支持する「円頂党」が争い、最終的に勝ったのは議会派の「円頂党」。国王のチャールズ1世は処刑され、王政は廃止、「イングランド共和国」が樹立されます。

その後、戦いのなかで頭角を表したオリバー・クロムウェルが「護国卿」という最高統治権をもつ官職に就任。事実上の独裁政治を率いることとなります。

ちなみに当時は、ヨーロッパの各地で争いや自然災害などが起こっていて、ピューリタン革命も含めて「17世紀の危機」と呼ばれています。

ピューリタン革命の原因は?チャールズ1世の専制政治とは

 

ピューリタン革命の原因は、国王チャールズ1世の専制政治にあったといわれています。1625年に王位を継承し、父親であるジェームズ1世が開いたステュアート朝の2代目国王となりました。

当時は、「ヨーマン」と呼ばれる農民のうち、地主として上流階級を形成していく「ジェントリ」と呼ばれる層と、貧しくなって農業さえも続けられなくなる層の二極化が進行し、社会問題となっていました。

農地を離れた者たちが大都市に流入したことで都市人口が急激に膨れあがり、社会不安が増大。さらにジェントリが富を抱え込むことにより国家の収入は減少し、財政も悪化していたのです。

そのような状況下でチャールズ1世は、「王権は神より与えられたものであり、人民は王に反抗することはできない」とする「王権神授説」にもとづいて政治を実行。議会の承認を得ずに徴税を強化したり、新たな課税をしたりしたため、反発を招きます。

さらに、スコットランドに対してイングランド国教会を強制するなどしたため、スコットランドの長老派教会の反発を招き、1639年と1640年の2度の「主教戦争」を引き起こしました。この戦いはスコットランドの勝利となり、イングランドは賠償金を支払う義務を負うこととなります。

1641年になると議会は、国王大権を制限する「議会の大諫奏」と呼ばれる抗議文を提出しましたが、意外にも159対148の僅差で可決。議会が、可決に賛成した「議会派(円頂党)」と、反対した「王党派(騎士党)」に分裂することとなるのです。

続いて議会は、軍の統帥権を国王から議会へ移す「民兵条例」を審議。これに危機感を覚えたチャールズ1世は、1642年1月に議会派の中心人物たちを逮捕してしまいました。

怒ったロンドン市民が議会側につくと、身の危険を感じたチャールズ1世はロンドンを脱出。国王派と議会派は互いに戦争の準備に取りかかり、3月、イングランド全土を巻き込む内戦へと突入していったのです。

ピューリタン革命の指導者、クロムウェルとは

 

ピューリタン革命の指導者となったオリバー・クロムウェル。1599年に、イングランド東部にあるジェントリ階級の家に産まれました。ケンブリッジ大学で学んだ後、1628年に下院に相当する庶民院の議員となります。

1642年、王党派と議会派の最初の本格的な争いとなった「エッジヒルの戦い」にて、議会派が敗れると、自らの私財を投じて「鉄騎隊」と呼ばれる部隊を創設。1644年の「マーストン・ムーアの戦い」で活躍をすると、1645年には議会軍を再編成して結成された「ニューモデル・アーミー」の副司令官に就任することとなりました。同年の「ネイズビーの戦い」では、鉄騎隊の活躍もあり、国王軍を潰走させる殊勲をたてました。

内乱が終結すると、議会派のなかでも、王室との妥協を求める「穏健派」と、妥協を拒絶するクロムウェルら「強硬派」との間で対立が生じます。

1648年には、穏健派と国王が手を結び、「第二次イングランド内戦」が勃発してしまいました。クロムウェルは自ら戦いに参加し、「プレストンの戦い」で撃破。議会からは穏健派を追放し、権力を掌握します。

1649年1月には、チャールズ1世を処刑に。5月に「イングランド共和国」の樹立を宣言し、一介の議員に過ぎなかったクロムウェルはイングランドの指導者となったのです。

クロムウェルは共和国軍の総司令官として、1649年8月にアイルランド、1650年にスコットランドへ遠征。反議会派を一掃します。クロムウェルの独裁をめぐって議会と対立すると、これを解散させて「護国卿」に就任しました。「護国卿」は、王権に匹敵する最高統治権を与えられた官職のことです。

後の研究によると、クロムウェルは、自身が独裁をすることを必ずしも望んでいたわけではありませんでした。しかしさまざまな党派が入り乱れる革命後のイギリスを統治するうえでは、強権的にならざるを得なかったとのこと。

しかしその支配はかつてのチャールズ1世の専制政治を彷彿とさせ、人々の反感を買うことになってしまうのです。

1658年にマラリアで亡くなると、跡を継いだ息子のリチャード・クロムウェルに対して不満が噴出。リチャードはまもなく身を引き、護国卿政は終了しました。

1660年、議会の穏健派である「長老派」が、チャールズ1世の息子であるチャールズ2世を亡命先のオランダから迎え入れ、国王に。王政復古をおこないました。

するとクロムウェルは、すでに亡くなっているにも関わらず、国王裁判にて反逆者と認定されてしまうのです。墓を暴かれ、絞首刑の後斬首され、その首は約25年間も晒されたそう。なお現在は、彼の母校であるケンブリッジ大学に葬られています。

ピューリタン革命の影響は?イギリスでは名誉革命が勃発

 

チャールズ2世の王政復古は、ピューリタン革命以前の体制に戻すことを目標に掲げ、「国王至上法」にもとづく絶対王政の復活を目指します。しかし実際の国政においては議会の影響力が大きくなっていき、かつての体制をとり戻すことはできませんでした。

チャールズ2世の弟であるジェームズ2世が国王になると、さらに議会との間に対立が発生。ピューリタン革命時にフランスに亡命していたジェームズ2世は、カトリックに改宗していて、プロテスタントの大臣たちを相次いで罷免していきました。

当時は、ほとんどの議員がプロテスタントです。議会はジェームズ2世の甥でもあるオラニエ公ウィレム3世を擁立する形で、クーデターを起こしました。

1688年、ウィレム3世が率いる軍がイングランドに上陸。しかしイングランド軍内部では、ジェームズ2世が命したカトリックの士官たちの不服従が広まり、戦おうとしません。結局争いは終了。1689年、ウィレム3世はイングランド王ウイリアム3世として、娘のメアリーはメアリー2世として即位することとなったのです。

この戦いは「名誉革命」、またはピューリタン革命と比べて激しい争いがおこなれることがなかったため、「無血革命」とも呼ばれています。

クロムウェルは英雄なのか?

著者
今井 宏
出版日
2018-04-16

 

「17世紀の危機」と呼ばれる社会不安のなかで、チャールズ1世の専制政治に不満を抱いた人々が起こした「ピューリタン革命」。その過程で台頭していたのが、クロムウェルです。

王に対して穏健的な長老派や強硬な独立派、平等な政治体制の実現を求めた平等派、アッシリア・ペルシア・ギリシア・ローマに続く第5の千年王国を目指した第五王国派など、議会派のなかでもさまざまな派閥が入り乱れていたといいます。

そんな乱世のなかで、クロムウェルが目指したものとは何だったのでしょうか。

「英雄」か、「王殺し」か。彼の思考や行動を分析し、イングランド、ひいてはヨーロッパ全体にどんな影響を与えたのかを解明していく一冊です。

ピューリタン革命と名誉革命にはじまる、イギリスの栄枯盛衰物語

物語イギリスの歴史(下) - 清教徒・名誉革命からエリザベス2世まで (中公新書)

2015年05月22日
君塚 直隆
中央公論新社

 

イギリスの歴史を上下巻でまとめた作品。下巻で扱っているのは、17世紀のピューリタン革命や名誉革命を通じて、絶対君主制の国家から議会を中心とする国家へと移り変わっていく様子です。

ヨーロッパ辺境の小国に過ぎなかったイングランドは、2度の革命で後の大英帝国へと続く発展の道を歩みはじめます。激動の時代をダイナミックに描いた本作、大きな流れとして歴史を読むことができ、おすすめです。

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