15世紀から16世紀のフィレンツェ共和国で、外交官をしていたニッコロ・マキャヴェッリ。国家を統治する君主がどうあるべきかを説いた『君主論』を執筆しました。この記事では、その内容や名言、作者のマキャヴェリについてわかりやすく解説していきます。あわせてもっと理解が深まるおすすめの関連本も紹介するので、ぜひチェックしてみてください。
国家統治者たる「君主」はどうあるべきなのか、歴史上の君主や君主国を分析して政治のあり方を論じた『君主論』。作者は、ルネサンス期のイタリア、フィレンツェ共和国で外交官を務めていた、ニッコロ・マキャヴェリです。
マキャヴェリは、政治と宗教・道徳を切り離して考える現実主義政治理論を唱えた人物で、現代にも通じる政治学の基礎を築いたひとりに数えられています。
『君主論』はもともと、当時のフィレンツェを実質的に支配していたメディチ家のウルビーノ公ロレンツォに献上されたものです。その内容が完成したのは1513年から1514年と考えられていて、マキャヴェリの死後、1532年に刊行されました。
構成は、ウルビーノ公ロレンツォへの献辞に始まり、全部で26の章から成っています。
第1章「支配権の種類とその獲得方法」で君主政体のさまざまな種類を列挙し、第2章から第11章まででそのひとつひとつを解説。続く第12章から第14章までは軍備について記し、第15章から第23章までは君主としてあるべき姿とはどういったものかを論じています。
第24章から第26章にかけては、多くの小国に分裂し、外国からの圧迫で混乱しているイタリアの状況を分析。イタリアを統一するためにはどのような君主であるべきかを論じたうえで、メディチ家への期待を述べて終わっています。
マキャヴェリが理想的な君主として挙げたのは、彼自身もフィレンツェ共和国の外交官として交渉した相手であるヴァレンティーノ公チェーザレ・ボルジアでした。
ちなみに、当初は本作にタイトルはついていませんでしたが、その内容が歴史上の君主たちや君主国を分析し、君主として権力を獲得・保持するために必要な力などを論じたものであった点、マキャヴェリが友人に宛てた手紙のなかで「君主体制に関する本を書いた」と述べていた点などから、『君主論』と呼ばれるようになったといいます。
マキャヴェリが『君主論』で説いた思想は、現代でも「マキャヴェリズム」と呼ばれて広く浸透しています。その内容を要約すると、「美化を排除して徹底して現実を認識する」、「目的のためには手段を選ばない」の2つになるでしょう。
たとえばマキャヴェリは民衆について、「民衆というものは、頭を撫でるか、消してしまうか、そのどちらかにしなければならないものである」と述べています。つまり君主は、民衆を統治の対象として見るだけでなく、潜在的には敵になりかねない存在だと認識すべきだと論じているのです。
またマキャヴェリは、君主にとって軍備と法律は不可欠なものであるとし、「すべての国にとって重要な土台となるのは、よい法律とよい武力である」と述べています。そして「よい武力」とは、自国民から編成する自国軍であるとしているのです。
これは当時のイタリアにおいて主流だった、傭兵や外国からの援軍をかえって危険だと指摘したもの。傭兵の隊長が有能であれば、君主はその圧力に晒されることになり、無能であればそもそも戦争に勝つことができないと考えました。また外国からの援軍は、戦争が終わった後も駐留し、占領されてしまう危険性があると指摘しています。
君主の気質については、「理想的で倫理的な生活にこだわり、善いおこないをしようとすることは破滅をもたらす」と批判し、君主は国家に安全と繁栄をもたらすために悪徳を恐れてはならないと論じました。君主が気前の良さを発揮するとかえって財政が圧迫され重税を課さなければならないなどの例をあげ、ケチだと批判されることは気にする必要がないとしているのです。
また「残酷さと憐み深さ」についての考察では、「憐み深い」という評価が好ましいとはしながらも、憐み深い政策が行きすぎると無政府状態を招きかねないとして、残酷といわれることも恐れてはならないと論じました。
マキャヴェリは、「君主は愛されるより恐れられる方がはるかに安全である」と考えていたのです。
「天国へ行くのに最も有効な方法は、地獄へ行く道を熟知することである」
成功事例よりも失敗事例を研究する方が、成功への近道であるという教えです。成功には運や縁など計算することのできない要素が重要になる場合もありますが、失敗にはある程度のパターンがあるからです。
個人の間で法律や契約書や協定が効力をもつのは、それを保証し、違反者を罰する国家の「力」があるからこそ。つまりどちらの場合も「力」が大切だという考えです。
この世界では「力」がとても重要。その現実から目をそらしてはいけないという教えが込められています。
マキャヴェリが研究したのは西洋の君主たちですが、日本に置き換えたとしても源頼朝や足利尊氏、徳川家康、大久保利通など、手段を選ばないことで大きな成果を残したリーダーはたくさんいます。
人の恨みを買うのは大きなリスクであるため、最小にとどめる必要があります。一方で人は恩恵に慣れてしまうものなので、1度に与えるのではなく少しずつ与えたほうがよいという考えです。
ニッコロ・マキャヴェリが生まれたのは1469年。貴族であり法律家でもあったベルナルド・ディ・ニッコロ・マキャヴェリと、その妻バルトロメーア・ディ・ステファノ・ネリの3番目の子どもでした。
貴族ではあったのもののそれほど裕福ではなく、マキャヴェリは後年「楽しむより先に、苦労することを覚えた」と語っています。
彼が生まれたころは、ルネサンス文化がもっとも活発な時期でした。同時に、フィレンツェを実質的に統治しているメディチ家が、優れた政治や外交能力を発揮するロレンツォ・デ・メディチのもとで最盛期を迎えている時期でもあったのです。
しかし、マキャヴェリが20代なかばに差し掛かった1492年にロレンツォが亡くなると、メディチ家は政敵によって追放されてしまいます。ドミニコ会修道士のジローラモ・サヴォナローラが政治の実権を握り神権政治をおこないますが、彼も失脚。フィレンツェは激動の時代を迎えるのです。
1498年、マキャヴェリは、サヴォナローラの後に政権を担ったメディチ派のピエロ・ソデリーニのもと、内政や軍政を管轄する第2書記局長に選出されました。海のないフィレンツェにとって重要だった海洋国家ピサへの侵攻に関わり、そこで傭兵軍や外国軍には頼れないと体感するのです。『君主論』にて自国軍をもつ重要性を説いたのは、このころの経験によるものでした。
1512年、スペインのハプスブルク家に屈する形でソデリーニ政権が終わると、マキャヴェリも第2書記局長の職を解かれることに。その後はキャンティ地方サンタンドレアの山荘に家族とともに移り住み、昼は農業、夜は読書や執筆作業をする隠遁生活に入りました。この隠遁生活のなかで『君主論』が生まれたのです。
- 著者
- ニッコロ マキアヴェッリ
- 出版日
- 1998-06-16
ロレンツォ・デ・メディチのもと、華やかなルネサンスの時代に成長したマキャヴェリ。しかし、ロレンツォが亡くなるとフィレンツェは激動の時代を迎え、彼もまたそのうねりに身を投じていくこととなります。そんななかでマキャヴェリが目を留めたのが、君主たちの姿でした。どんな状況でも逞しくいる、君主のあるべき姿をまとめたのです。
『君主論』は刊行されてから500年近くが経ったいまでもなお、多くの人々に影響を与えています。苛烈なまでに現実を見据えるその思想は、現代の日本人にとっては辛辣すぎるようにも見えるかもしれませんが、当時はこれが真理だったのです。
本書は、半分が本文、残りの半分が解説や注釈で構成されています。事前知識がなくても問題なく読むことができるでしょう。
- 著者
- マキアヴェッリ
- 出版日
- 2008-10-01
『君主論』に興味はあるものの、活字で読むのは難しそうだと感じている方におすすめの一冊。漫画で描かれているので、イラストとしてイメージで理解することができます。
また作者のマキャヴェリや、彼が理想の君主と考えていたチェーザレ・ボルジアについても紹介されているので、伝記としても楽しむことができるでしょう。
『君主論』は国家のリーダーだけでなく、職場や学校の人間関係においても参考になる点が多いのが特徴です。人の上に立つ者はどうあるべきなのか、ぜひ参考にしてみてください。