クリスマスってなんで色恋の話題ばかりなのでしょうか。世間がそんなんだから、私だって過去の恋愛を思い出します。
終バスにふたりは眠る紫の〈降ります〉ランプに取り囲まれて
(『シンジケート』より引用)
大学生の時、人生をかけて好きだった人がいた。ひねくれた性格をしているのに芯がとおっていて、ガリガリなのに力が強くて、一年中鼻炎の人だった。
彼は年上ですでに社会人だったけど、才能のある変人だったので学内ではちょっとした有名人だった。友人を介して仲良くなり、共通の趣味もいくつかあって、休みの日はほとんど一緒に過ごしていたと思う。
彼は何かにつけて私のことを殴っていたし、蹴っていた。不思議なことにあの時の私は、体に痕が残れば残るほどひとりの人間として存在を認められている気がして嬉しかったのだ。痛みは感じていたけど、自分から殴られにいっていたようにも思う。
彼が鼻をすすっていたら、ティッシュではなく自分のお気に入りのハンカチを差し出して、それで鼻をかんでもらっていた。それほど、とにかく本当に大好きだったのだ。
でも彼には、付き合っている女性がいた。とっても綺麗な人だった。彼も彼女のことを大切にしていることは知っていた。私には殴る時以外触れなかった。
私が冒頭の歌を知ったのは、この頃だった。私のことを歌にしていると思った。
シンジケート
2006年12月01日
短歌はすごい。たった31の音で、読む人にそれぞれの情景を見せてくれる。
「古い」「じじくさい」「~けり、とかわからない」と思っている人には、穂村弘をおすすめしたい。いわゆる「現代短歌」といわれていて、たとえば「プードル」とか「フェンシング」とか「テロリスト」とか、カタカナもたくさん出てくる。字余りも平気でする。
そして何よりも、究極に「個人的なこと」を書いているのだ。
朝の陽にまみれてみえなくなりそうなおまえを足で起こす日曜
「海にでも沈めなさいよそんなもの魚がお家にすればいいのよ」
ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は
(『シンジケート』より引用)
おまえ、とか、おれ、とか。知らない誰かの個人的なエピソードのはずなのに、その誰かと自分がリンクしてしまう。読んだ瞬間、歌に乗っ取られたかのように感情を制御できなくなる。
あの時の私は、殴られていたにも関わらず、この関係を終わらせたくなかった。2番目だろうとどんな役割だろうと彼に必要とされたかったし、ずっとかまっていてほしかったのだ。
そんな日が数年続いたある時。彼が例の彼女と別れたという報せが入った。
彼は私に直接は教えてくれなかったが、それ以降私の家に泊まりに来るようになった。だけど「付き合う」というキーワードは私たちの間に出てこなかった。人間として認められたかった私は女として認められたいと思うようになった。泣きながら笑っていた。
あの歌のように、紫のランプに囲まれたままふたりっきりの世界で生きていきたかった。でもバスから降りないといけない時が来ていると思った。
それからすべての連絡をシャットアウトし、さらに2年くらいが経った。彼は結婚したそうだ。
たぶんこの歌は、こんなDVまがいを受けている2番目の女の未練ったらしい感情を書いているものではない。
もっとなんかこう、まだ制服を着ているくらい若い男女が、付き合いたてなのか付き合う直前なのか、冬のあたたかいバスのなかでくっついて眠っているような感じなのだろう。どろどろというよりは、きゅんとする歌なはずだ。
でも短歌や本は、読む人にとって受け取り方が異なるし、それを許してくれる。たった31音が、何年経っても忘れられない言葉になることもあるのだ。
ちなみに彼との関係を断ち切った私は、普通の幸せな恋愛を手に入れるかと思いきや、怒涛の夜の業界へと足を踏み入れることになる。自分の価値を、稼ぐ金額で評価しようとしたのだ。その時の話はまたいつか。
シンジケート
2006年12月01日
困シェルジュ
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