5分でわかる「租庸調」!それぞれの特徴と「雑徭」をわかりやすく解説

更新:2019.1.7 作成:2019.1.7

飛鳥時代の646年に、天皇により発布された政治的改革「大化の改新」。天皇を中心とする律令国家の成立を図り、さまざまな施策がおこなわれました。そのうちのひとつに「租庸調(そようちょう)」があります。中国の制度を元とした税制度で、日本用に改定されて用いられました。この記事では、「租」「庸」「調」それぞれの特徴や「雑徭」と呼ばれる労役についてわかりやすく解説していきます。あわせておすすめの関連本も紹介するので、ぜひチェックしてみてください。

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租庸調が日本に導入されたきっかけは?

 

中国の北周の時代(556~581年)に導入され、唐の時代に(618年~907年)完成した税制度です。日本では646年の「大化の改新」の際に、中大兄皇子や中臣鎌足らによって日本の国情に合わせて改訂されたうえ、導入されました。

「租」は、各国の役所が置かれている国衙(こくが)に設けられた正倉に蓄えられ、地方政府の財源とされたものです。

一方で「庸」と「調」は、都に運ばれて中央政府の財源とされました。飛鳥時代から平安時代にかけて、「庸」「調」を運ぶために全国で道の整備が進められたことがわかっています。日本の古代道路と呼ばれるこれらは、地方で幅6~12m、都周辺で24~42mにおよび、非常に広いものでした。また直線状のものが多いのも特徴で、場所によっては30km以上にわたって直線が続く道もあったそうです。

また「庸」と「調」は、生産した農民のなかから選ばれた運脚夫という者が運ぶことになっていましたが、食料などは支給されないため、運んでいる最中に餓死する人も多くいたようです。

さらに、免疫が落ちて病原菌に犯されやすい状態にあったこと、そんな運脚夫が各地から都に集まり再び地方に帰ったことから、病原菌が全国に拡散され、疫病の原因になったともいわれています。

租庸調の「租」をわかりやすく解説!

 

「租」は収穫された稲のうち一定の割合を税として納めるもので、田1段につき2束2把と定められていました。これは税率に直すと3~10%相当になります。

9月中旬から11月30日までの間に国へ納入され、不動穀と呼ばれる災害時用の備蓄米を除いた分が国衙の主要財源となりました。

しかし農業は天候などに左右されるものなので、歳入としては非常に不安定です。そこで「租庸調」の制度が導入されてしばらく経つと、「租」で集めた米を「種もみ」として農民に貸し出し、秋に利息をつけて返済させる出挙(すいこ)がおこなわれるようになりました。

中国では成人男子の人数を基準に税を定めているのに対し、日本では田の面積を基準に税を定めているのが特徴です。このことから日本の「租」は、奈良時代以前からおこなわれていた収穫された稲の一部を神に捧げる儀式である「初穂儀礼」を取り入れたものではないかと指摘する研究者もいます。つまり神の役割を朝廷が担うようになったという考えです。

租庸調の「庸」をわかりやすく解説!

 

「庸」は20歳以上の男性に課されたもので、本来は都に出向いて労役に従事することを指しました。しかし遠隔地で難しい場合は、労役の代わりに布や米、塩などを納入するようになったのです。

日本には古来より、地方から朝廷へ人を送る習慣があり、元々は豪族など地方の実力者たちの離反を防ぐための人質だったと考えられています。都へ出仕した者の食料などは各地方が負担していて、これを「庸」という税として置き換えたのです。

米で納める場合は「庸米」、布で納める場合は「庸布」といいます。集められた「庸」は、朝廷に仕える人々の食糧や被服として用いられました。

租庸調の「調」をわかりやすく解説!「調布」とは

 

「調」は17~20歳の男性に課されたもので、基本的には「正調」と呼ばれる繊維製品を納めることを指します。場合によっては、地方の特産品や貨幣も認められていました。これらは中央政府の主要財源とされ、官僚たちの給与などに充てられています。

「正調」は、絹で納める「調絹(ちょうきぬ)」と、布で納入する「調布」の2種類がありました。天皇など高貴な身分の人々のための絹と、庶民が用いる布は別物と考えられていたからです。

養老律令が施行された後は、「調絹」は長さ6丈、幅1尺9寸のもので6人分、「調布」は長さ4丈2尺幅2尺4寸で1人分と規定されました。なかでも美濃国で作られた絹製品と、上総国で作られた麻織物は上質であるとして、宮中行事や祭祀、遣唐使の贈答品などに用いられていたそうです。

また飛騨国の住民に関しては、「調」と「庸」が免除される代わりに「匠丁(たくみのよほろ)」と呼ばれる職人を都に送ることが義務付けられていました。彼らは「飛騨工(ひだのたくみ)」と呼ばれ、宮内庁の機関に所属して工事に従事しています。

労役「雑徭」とは

 

「雑徭(ぞうよう)」は、各地方で治水灌漑工事や国衙の修復などの各種工事に従事させるもので、21~60歳の男性に年間60日以下、61歳以上の男性に30日以下、17~20歳の男性に15日以下と定められていました。

雑徭に従事している間は、給料や食料などは支給されないため、農民たちにとっては相当な負担になっていたでしょう。課する権限は国司に与えられていて、なかには私用で行使する者もいたそう。農民の没落や逃散を招く一因になったと考えられています。

遣唐使の船や、663年に起きた「白村江の戦い」で用いられた大型船も、雑徭で集められた農民たちによって作られました。

「租庸調」と「大化の改新」を考える一冊

著者
吉村 武彦
出版日
2018-10-20

「大化の改新」といえば、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺した「乙巳の変(いっしのへん)」が注目されがちですが、このクーデターは始まりにすぎません。実際に社会に大きな変革をもたらしたのは、その後におこなわれた改革の数々です。「租庸調」という租税制度をはじめ、政治的、社会的変革が律令国家をつくりあげていきました。

本書では、歴史文献の解読と考古学資料の分析をし、人々の生活にどのような影響をおよぼしたのか解き明かしていきます。

姿を大きく変えていった当時の日本について知りたい人は、ぜひ読んでみてください。