5分でわかる勘合貿易!いつ誰が始めたのか解説!倭寇や朱印船貿易との関係も

更新:2019.1.24

かつて日本と中国の間でおこなわれていた「勘合貿易」。いつ誰が始めたものなのか概要を説明するとともに、貿易で用いていた「勘合符」や輸出入していたもの、倭寇、朱印船貿易などについて解説していきます。あわせておすすめの関連本も紹介するので、ぜひチェックしてみてください。

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勘合貿易とは。いつ誰が始めたのか、概要を簡単に紹介

 

室町時代の日本と、明朝時代の中国との間でおこなわれていた「日明貿易(にちみんぼうえき)」。そのなかでも、幕府などがおこなっていた公的な貿易を「勘合貿易」といいます。倭寇や密貿易と区別して正式な貿易船であることを示すために、「勘合符」というものを用いたことから、こう呼ばれるようになりました。

中国で明王朝が開いたのは、1368年のこと。農民出身の朱元璋(しゅげんしょう)が元を倒し、初代皇帝として建国しました。

同じく1368年に室町幕府の3代将軍となった足利義満は、対明貿易が莫大な利益を生み出すことを聞き、1401年に商人の肥富(こいとみ)と僧侶の祖阿(そあ)を派遣します。明の3代皇帝永楽帝との間に国交と通商が結ばれ、日明貿易が始まりました。

1404年に、勘合符を所持した者だけに貿易が制限されたことから、それ以降は勘合貿易と呼ばれています。

当時の明は、異民族だった元を倒して建国したという経緯もあり、中華思想が強く、皇帝に対する貢物や返礼品を送る「朝貢貿易」しか認めていませんでした。足利義満は、明の皇帝から「日本国王」として君臣関係を結び、冊封されていたのです。

ただ朝貢貿易では、皇帝の豊かさと気前の良さを示して周辺諸民族を服属させていたため、明側が大幅な輸入超過になるのが通例でした。一方の朝貢国は、元値の4~20倍ともいわれる利益を得ることができます。

義満は、日本と中国が対等の立場であるという名分を捨てることで、自国の統治を盤石にするための豊富な資金を手にしたのです。

ただ本来ならば、「日本国王」に相応しいのは天皇であるはず。義満が天皇を飛び越える形で明に朝貢し、「日本国王」の冊封を受けたことに関しては、問題視する人も多くいました。

勘合貿易で用いた「勘合符」ってどんなもの?

 

勘合符とは、文字の書かれた木札を2つに割ったもの。日本と明のそれぞれが勘合符を片方ずつ所持し、ぴたりと合えば本物の交易相手であると照合することができる仕組みです。「勘合」はもともと、「2つのものの考えを合わせる」という意味があり、これが転じて、2つの札をあわせて公式な貿易船であることを証明することも勘合と呼ぶようになったそう。

日本から明へ持っていくものを「本字勘合」、反対に明から日本へ持っていくものを「日字勘合」といい、それぞれ100枚ずつ用意されました。

1408年に足利義満が死去した後は、朝貢貿易である点を問題視した4代将軍の足利義持(よしもち)によって中断され、朝鮮や琉球との貿易に切り替えられています。

その後、6代将軍の足利義教(よしのり)によって再開されましたが、1467年から約11年間にわたって「応仁の乱」が起こると、幕府は船を送り出すための財政負担を賄えなくなります。勘合貿易は、堺を拠点にする細川氏や兵庫に拠点を得た大内氏、博多や堺の有力商人によっておこなわれるようになっていきました。

こうして断続的ではあるものの、1401年から1549年までの間に19回の交易がおこなわれました。

勘合貿易ではどんなものが輸入、輸出されていた?

 

勘合貿易によって日本から明へ輸出されていたものは、主に硫黄や銅などの鉱物と、扇子、刀剣、漆器や屏風などの工芸品です。特に銅は高く売ることができたそう。当時の明では慢性的な銅不足が起きていたことに加え、日本の銅にはわずかですが銀が含有されていたからです。

明には、日本はもっていない銅から銀を抽出する技術があったため、銅としては高く、銀としては安い値で取引されていたのです。

その一方で日本は、明から貨幣や生糸、織物、書物などを輸入していました。室町時代は急速に貨幣経済が広がったため、勘合貿易でもち込まれる「永楽通宝」という銅製の銭貨が重宝されます。永楽通宝は永楽銭とも呼ばれ、江戸時代の初頭まで200年以上にわたって用いられることとなりました。

ただ明では、初代皇帝の時代に永楽通宝が禁じられたため、流通はしていなかったそう。日本との貿易決済用の通貨として鋳造されていたと考えられています。

勘合貿易と倭寇の関係は?

 

日明貿易が勘合貿易に発展した背景には、倭寇の存在があります。

倭寇とは、瀬戸内海や北九州を拠点にしていた海賊のこと。なかには重武装をした武士も含まれいました。主に日本人で構成されていて、一部に高麗人も加わっていたそうです。朝鮮沿岸部や中国沿岸部を、時には数百隻もの船団を組んで荒らしていました。

倭寇が活動を始めたのは、日本は南北朝の動乱期、また中国では元末期の混乱期にあたります。社会情勢が混迷を深め、中央政府の統制が行き届いていなかったことが原因だと考えられているのです。

元を倒して明を建国した朱元璋は、日本に使者を送り、倭寇の討伐を要請します。最初に要請を受けたのは、南朝の将軍、懐良親王(かねよししんのう)でした。その後1392年に、足利義満によって南北朝が合一され、日明貿易の実現を望んだ義満が倭寇の鎮圧に乗り出したのです。

義満が明から「日本国王」の冊封を受けたのは、倭寇を鎮圧した功績によるものだと考えられています。

勘合貿易と朱印船貿易の違い

 

1523年、大内氏が、細川氏と明の役人を殺害する「寧波の乱」が起きると、その後の勘合貿易の利権は大内氏が掌握するようになりました。

しかし1551年に大内義隆が家臣に討たれ、1557年に義隆の息子の義長も討たれると、勘合貿易は途絶えてしまいます。これ以降東アジアでは、商人や倭寇による私貿易や密貿易が中心となり、取引量はかえって増加していきました。

1590年に豊臣秀吉が天下統一を果たすと、海外貿易を統制するため、許可証である「朱印状」を発行するようになります。マニラやアユタヤ、パタニなどに船を派遣しました。

朱印状を用いて外交易をする船を朱印船といい、朱印船によっておこなわれる貿易を「朱印船貿易」といいます。

朱印船貿易を本格的に展開したのは、1600年の「関ヶ原の戦い」で勝利し天下人となった徳川家康。海外交易に熱心な人物としても知られていて、日本に漂着したオランダ人を召し抱え、遠洋航海に向いているガレオン船を建造し、東南アジア諸国と国交を結んでいきました。1604年から1635年までの間に、350隻以上の日本船が海外に渡航したそうです。

勘合貿易と朱印船貿易の違いは、貿易主体や貿易相手、正式な船を見分ける方法などが挙げられるでしょう。勘合貿易は、明と交易をするために勘合符を用いて公式な船と倭寇を見分け、朱印船貿易は、東南アジア諸国と交易をするために朱印状を用いて海賊と正式な船を見分けていました。

海で繋がる東アジアを解説した一冊

著者
田中健夫
出版日
2012-12-01

 

14世紀から16世紀にかけて、激動の時代を迎えていた東アジア。日本では鎌倉幕府が滅亡し、南北朝の動乱、応仁の乱、戦国時代を経て江戸幕府が開きます。一方の中国では、元を倒して明が建国。朝鮮でも高麗を倒して李氏朝鮮が成立しました。

この時代に、国の垣根を越えて縦横無尽に暴れまわっていたのが倭寇です。貿易の拠点となる地を抑え、海を制圧していきます。
 

本書は、そんな彼らの活躍と勘合貿易についてわかりやすくまとめている解説書です。「日本史」「世界史」と切り離して学ぶのではなく、東アジアの一国としての日本がどのように対外関係を結んできたのかを理解できるはずです。広い視野で歴史を学べるでしょう。

勘合貿易をはじめ激動の時代をオールカラーの漫画で読める

著者
出版日
2012-11-14

 

南北朝の動乱期から室町時代までをオールカラー漫画で描いた作品です。後醍醐天皇の倒幕、足利尊氏との対立、足利義満の勘合貿易などのあらましが、まるでドラマを見ているかのように生き生きと展開していきます。

歴史には興味があるけれど、文章を読むのは苦手という方におすすめ。時代考証はしっかりとなされているので、楽しく読み進めながらも着実に知識をつけることができます。