5分でわかる遣隋使!目的や国書の内容、仏教との関係などをわかりやすく解説

更新:2019.1.29 作成:2019.1.29

「日出ずる処の天子」という書き出しの国書が有名な遣隋使。この記事では、派遣された目的や国書の詳しい内容、仏教との関係、小野妹子の人物像などをわかりやすく解説していきます。あわせておすすめの関連本も紹介するので、ぜひチェックしてみてください。

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遣隋使とは。時代やルートなど概要や、朝貢の意味を簡単に解説

 

第33代天皇である推古天皇の時代、倭国と呼ばれていた日本から、中国の隋に派遣された朝貢使を「遣隋使」といいます。

大阪の住吉津(すみのえのつ)という港から出発し、大阪湾、瀬戸内海、玄界灘をとおるルートを使っていたそうです。600年から隋が滅びる618年までの間に、5回以上派遣されました。日本から中国に遣いが派遣されたのは、400年代前半に「倭の五王」が朝貢して以来、百数十年ぶりのことでした。

「朝貢」とは、中国の皇帝に対して周辺諸国の君主が貢物を献上し、皇帝側は恩恵として返礼の品々を持たせて帰国させ、外交の秩序を築く体制のこと。また皇帝の徳を内外に示し、政権の正統性を表すという重要な意味もありました。国や民族の間で君臣関係を結ぶ「冊封」体制下では、中国に従属した国は原則として朝貢が義務とされていたのです。

日本は中国に従属してはいませんでしたが、そのような国でも朝貢自体をおこなうことは可能でした。

遣隋使の目的は?

 

百数十年ぶりに中国に使いが派遣されることになった背景には、581年に楊堅によって建国された隋が、184年に起きた「黄巾の乱」以来およそ400年ぶりに分裂していた中国を統一したことが挙げられます。超軍事大国が誕生し、東アジアの国際情勢は激変しました。

また当時の朝鮮半島では、高句麗、新羅、百済の3国が激しく争っています。隋と結ぶのか、それとも対立するのかをめぐり、外交がおこなわれていました。

しかし日本は、この状況に乗り遅れてしまいます。蘇我氏と物部氏の内紛や、崇峻天皇暗殺事件が起こるなど、内政が混乱していたのです。

最初の遣隋使が派遣されたのは、600年のこと。しかし隋の初代皇帝となった文帝に拝謁した一行は、皇帝からの質問にまともに答えることができず、未開発の野蛮な国という印象をもたれてしまいます。 失敗に終わったからか、この第1回に関する記録は中国側には残っているものの、『日本書紀』など日本側の記録には残されていません。

ただ、隋の政治の在り方や文化などを持ち帰ることができ、後に聖徳太子や蘇我馬子のもとで、これらの知識が宮殿や寺院の建設、十七条憲法や冠位十二階などの制度を整えることに貢献したと考えられています。

文明国として体制を整えた日本は、608年に2回目の遣隋使を派遣。この時に大使を務めたのが小野妹子です。

その目的は所説あるものの、隋に従属するでも対立するでもない、いわば第三の道ともいうべき「対等の国」として外交を取り結ぶことにあったといわれています。

遣隋使が持って行った国書に、隋の皇帝が怒った本当の理由

 

第1回の反省もふまえて派遣された、第2回遣隋使。しかし小野妹子が持参した「国書」に書かれた「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」という文言が、隋の第2代皇帝・煬帝を怒らせてしまうのです。

その理由として、「天子」という言葉には「世界を統治する者」の意味があり、煬帝は、それは隋の皇帝である自分のみに許された呼び名だと考えていたこと、また隋を「日没する処」と表現したことが、まるで隋が衰退に向かう国であるかのような印象を与えたことが挙げられます。

598年、隋は万里の長城以北に勢力を伸ばそうと高句麗に30万の大軍で攻め込みましたが、失敗。翌年の599年には突厥という部族の侵入を受け、604年には煬帝の弟である楊諒が反乱を起こすなど混乱が続いていました。

ちょうど隋の国内情勢に暗雲がうまくいっていなかった時期だったため、遣隋使を派遣した聖徳太子の皮肉だと考えられてしまったのです。

実際に隋は、612~614年にかけて高句麗へ遠征をくり返すものの滅ぼすことができず、負担に耐えかねた人々が各地で反乱を起こして、618年で幕をおろすこととなるなりました。

遣隋使と仏教の関係は?

 

隋を建国した文帝は、13歳頃まで尼寺で養育されていたこともあり、仏教がとても身近な存在でした。また遣隋使を派遣した聖徳太子は、法隆寺や四天王寺を建立するなど、仏教に帰依した人物として知られています。

小野妹子が持参した国書には、「海西の菩薩天子重ねて仏法を興さると聞き、故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人来りて仏法を学ばんとす」と書いてありました。つまり「仏教が再興されたという隋へ、朝貢を行なうとともに僧侶を送って仏法を学ばせたい」という意味です。

この一文は外交上の建前ともとれますが、仏法を学びたいという聖徳太子の本心も含まれていたでしょう。

そんな聖徳太子が仏教の師と仰いでいたのが、慧慈という高句麗出身の僧侶です。聖徳太子にとって慧慈は、単に仏法の師というだけでなく、高句麗との連絡役も兼ねていました。

聖徳太子が煬帝が怒るかもしれない内容の国書を持参させた背景には、高句麗との関係を匂わせることで、高句麗遠征に敗れて国内が動揺している隋が、日本に対して敵対的な態度をとれなくなると計算した外交手腕がありました。

遣隋使の小野妹子ってどんな人?

 

隋が超大国となったことで国際情勢の緊迫度が増していくなか、遣隋使の大使という重要な役割を担ったのが小野妹子。名前から勘違いをされることも多いですが、れっきとした男性です。

妹子の持ってきた国書を見た煬帝は「蕃異の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」と部下に命じ、遣隋使一行を追い返したと記録されています。

ただ実際のところ、煬帝が怒ったのは小野妹子らに対してではなく、無礼な内容が書いてある国書を自分に取り次いだ部下に向けてでした。また遣隋使たちを追い返したのでもなく、返書を持たせ、裴世清(はいせいせい)という役人を帯同させています。

こうして帰国の途についた小野妹子ですが、なんと道中で皇帝からの返書を紛失するという大失態を犯してしまいました。その責任を問われ、流罪にされてしまいます。しかし不思議なことにすぐに許され、罰せられるどころか冠位十二階の最高冠位である「大徳」に昇進、翌年に実施された第3回遣隋使でも大使を務めているのです。

返書を紛失するという大失態を犯したにもかかわらず、かえって出世をした件について、実は返書の内容に、日本に不都合な点があったため、聖徳太子ら政府中枢の承認のもとわざと紛失したことにしたのではないかなどの説がありますが、定かではありません。

小野妹子は晩年になって出家をし、聖徳太子が建てた六角堂に入ります。妹子は隋で見た習慣をとりいれて仏像に花を供えたそうで、これが日本における華道の始まりだといわれています。

古代史のロマンを感じる歴史小説

著者
安部 龍太郎
出版日
2018-08-03

 

芥川賞作家が描く、歴史小説です。

朝鮮半島と日本の平和的外交を実現するため、聖徳太子が派遣した遣隋使。彼らの渡航を支えたのが、海の民と呼ばれる宗像一族の人々でした。

本書は、その棟梁と姫巫女を描いた物語になっています。宗像大社に実在する「金の指輪」をめぐる壮大なストーリーで、ロマンを掻き立てられるでしょう。

遣隋使など、日本古代史の新しい見方

著者
青松光晴
出版日
2017-03-27

 

作者の青松光晴は、ビジネスマンとして企業に勤めるかたわらで独自に歴史の研究をしてきた人物。理工系出身なだけあり、科学的なアプローチで斬新な見解を打ち出していきます。

「倭国と日本国は別物」「聖徳太子の遣隋使はなかった?」など、新しい視点を教えてくれます。図が豊富に用いられているので解説はわかりやすく、国が興っては入れ替わる複雑な古代史の理解も助けてくれるでしょう。