5分でわかる清須会議!開催の理由や参加者の思惑、その後をわかりやすく解説

更新:2021.11.17

羽柴秀吉による天下統一を決定付けたといわれる「清須会議」。映画化もされ話題になったので、聞いたことのある人も多いでしょう。この記事では、会議の概要や開催までの流れ、参加者の思惑、結果とその後への影響などをわかりやすく解説していきます。あわせてもっと理解の深まるおすすめの関連本も紹介するので、ぜひチェックしてみてください。

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清須会議とは。概要を簡単に解説

 

1582年6月2日の早朝、京都の本能寺に滞在していた天下統一を目前に控える織田信長が、家臣の明智光秀によって討たれるという事件が起こります。有名な「本能寺の変」です。

信長の嫡男で、当時の織田家の当主でもあった織田信忠も、二条城にて切腹をしてしまいます。

信長・信忠親子を失った織田家の家臣たちは、6月27日、尾張にある清須城に集まり、後継者問題および領地の再分配に関する話し合いの場を設けます。これが、今回ご紹介する「清須会議」です。
 

参加者は、織田家臣団筆頭の柴田勝家、丹羽長秀(にわながひで)、明智光秀を倒して信長と信忠の仇を討った羽柴秀吉、秀吉とともに戦った武将で信長の乳兄弟でもある池田恒興(つねおき)の4人です。

清須会議が開かれた理由は?流れを簡単に解説

 

織田家の実質的な主君であった織田信長と、名目上とはいえ当主であった織田信忠の両者を失ってしまった織田家。早急に次の当主を決める必要がありました。

生前の信長は天下統一を目前に控えていて、北陸には上杉氏、関東には後北条氏、四国には長宗我部氏、中国には毛利氏と、四方を敵に囲まれた状態だったのです。
 

さらに身内ではありますが、「山崎の戦い」で明智光秀を倒し、信長と信忠の仇を討つことに成功した羽柴秀吉を牽制する必要もありました。

そのため家老の筆頭だった柴田勝家の呼びかけにより、軍団長クラスの重臣たちが会議を開くことになったのです。ただ、関東方面の軍をまとめていた滝川一益は召集されていません。滝川は、「本能寺の変」の直後に「神流川の戦い」で後北条氏に惨敗を喫し、関東から自身の所領である伊勢に敗走していたところでした。

距離と時間の問題で間に合わなかったのか、敗北を恥じて自ら辞退したのか、敗北した者に参加資格なしとして召集されなかったのかはわかっていませんが、反秀吉派だった滝川の欠席がなければ、会議の結果は大きく変わっていたのではないかと指摘されています。

清須城が会議の開催場所となった理由についても諸説ありますが、織田信長が最初に天下にその名を轟かせた、1560年の「桶狭間の戦い」時の拠点だったことから、織田家が再出発を図る場所として相応しいと考えられたという説が有力です。

清須会議の参加者と、それぞれの思惑を解説

 

織田家後継者として声をあげ、争っていたのが、信長の次男である織田信雄と、三男である織田信孝です。

本来であれば次男の信雄が最有力候補となるはずですが、1579年に無断で伊賀国に攻め込んで敗北し、信長から「親子の縁を切る」と厳しく叱責されるなど、織田家内での評判が芳しくありませんでした。

「本能寺の変」の際に伊勢にいた信雄は、軍勢を率いて近江国甲賀郡まで進軍したものの、結局戦わずに撤退しています。さらにその後、信長の居城だった安土城に入りましたが、過失で火事を起こし城を焼いてしまうなど、失敗を重ねてしまいました。

その一方で三男の信孝は、家内での評判もよく、宣教師のルイス・フロイスが「思慮あり、諸人に対して礼儀正しく、また大いなる勇士である」と評するなど優秀な人物だったそう。また、実は信雄よりも20日ほど早く生まれていたものの、母親の身分が低かったため三男として扱われたという経緯もありました。

「本能寺の変」の際には、丹羽長秀らとともに、光秀の娘婿で自身にとっては従兄弟でもある津田信澄を殺害。果敢な行動によって、信孝はさらに評判を高めていたのです。

一般的に知られている通説では、羽柴秀吉は次男の信雄を、柴田勝家が三男の信孝を推し、丹羽長秀は柴田勝家に賛同、池田恒興は中立を保っていたとされています。そしていよいよ会議が膠着してきた頃に秀吉が、信長の孫で信忠の嫡男でもある三法師(後の織田秀信)を擁立し、後継者にすることに成功したとされてきました。

しかしこの三法師擁立劇は、江戸時代初期に成立した『川角太閤記』の内容で、近年では創作されたものではないかと指摘されています。

同時代の資料によると、秀吉は清須会議を開く前に、希望の領土を配分するかわりに三法師の擁立に協力するよう、丹羽長秀や池田恒興に根回しをしていたそう。

明智光秀討伐の功績もあげていて、さらに2人の同意を得ている秀吉に対し、勝家は抗うことができず、後継者問題はすんなりと三法師に決まったそうです。

清須会議の結果とその後。どんな影響があった?

 

清須会議の結果、三法師が織田家の家督を継承し、信雄と信孝の2人が後見人、そして堀秀政が傅役となりました。柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人は執権として補佐に入る体制が構築されます。

また、会議のもうひとつの重要な議題であった領地の再分配に関しては、信雄が尾張国を、信孝が美濃国を相続。信長の四男で、秀吉の養子である羽柴秀勝は、明智光秀の旧領である丹波国を継承しました。

家臣団は、柴田勝家が秀吉の領地である近江長浜城と北近江3郡、丹羽長秀は近江国の2郡、池田恒興は摂津国の3郡を加増されています。羽柴秀吉は長浜を割譲したものの河内国と山城国が与えられ、自身の養子である秀勝の領地も含めれば、その広さは柴田勝家を逆転することになりました。

清須会議の結果、これまで家老の筆頭として強い発言力を有していた勝家の影響力は低下し、秀吉が実質的な重臣筆頭に。織田家内部の勢力図が大きく塗り替えられます。

この後秀吉は、三法師の傅役である堀秀政や、重臣の丹羽長秀と池田恒興の2人、さらには織田信雄をも抱き込み、秀吉陣営を形成していきます。

これに対抗して、織田信孝、柴田勝家、滝川一益らは反秀吉陣営を構築。信長の妹であるお市の方も、田勝家に嫁ぐという形で反秀吉陣営に加わりました。

両陣営は1583年4月に「賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)」で激突し、勝利した羽柴秀吉が天下統一へとひた走ることになるのです。

ワクワクする心理戦が描かれた三谷幸喜の時代小説

著者
三谷 幸喜
出版日
2013-07-26

 

日本の歴史を動かした会議をいくつか挙げるとすれば、必ず含まれるであろう清須会議。戦で雌雄を決するのが当たり前だった戦国時代において、話し合いで決めたという実に稀有な例です。

本書は、そんな会議のなかでおこなわれていたであろう心理戦を、三谷幸喜がユーモア溢れる筆致で描いた時代小説。映画化もされ大ヒットしましたが、原作はより濃密に、悲喜交々の人間関係を感じることができます。

言葉は現代語なので読みやすく、初めて時代小説を読む方にもおすすめです。

清須会議の解説書

著者
柴裕之
出版日
2018-09-27

 

日本史を紐解く人気のブックレット「実像に迫る」シリーズの第17弾です。

秀吉が大きく飛躍するきっかけとなった清須会議について、多彩な史料を用い、最新の研究結果をふんだんに盛り込んで解説しています。

参加者それぞれの思惑が丁寧に紡がれ、実際に会議を傍聴しているかのような臨場感を味わうことができるでしょう。

会議において、いかに事前準備や根回しが大切なのかもわかる作品。日々のビジネスシーンにも役立つかもしれません。

織田家の行く末だけでなく、日本の歴史そのものに大きな影響を与えた清須会議。弓や槍を振るわなくとも、参加者にとっては命がけの戦と同義だったことでしょう。この記事を通じて少しでも興味を抱き、実際に本を読んでいただければ幸いです。

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