5分でわかるレイテ沖海戦!敗因や特攻隊、海外の反応などをわかりやすく解説

更新:2021.11.17

第二次世界大戦時、アメリカやイギリスと並んで「世界三大海軍」に数えられていた大日本帝国の海軍。それが事実上壊滅した、史上最大の海戦といわれているのが「レイテ沖海戦」です。この記事では戦いの概要や流れ、敗因、海外の反応などをわかりやすく解説していきます。あわせて、もっと理解の深まるおすすめの関連本も紹介するので、ぜひご覧ください。

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「レイテ沖海戦」とは。戦死者数など概要を簡単に紹介

 

第二次世界大戦中の1944年10月23日から25日にかけて、フィリピンの周辺海域で起こった、アメリカ・オーストラリア連合国軍と、日本との戦闘を「レイテ沖海戦」といいます。

シブヤン海海戦、スリガオ海峡海戦、エンガノ岬沖海戦、サマール沖海戦など一連の海戦をあわせた相称で、当時は「フィリピン沖海戦」と呼ばれていました。その規模の大きさや戦域の広さから「人類史上最大の艦隊戦」といわれています。

連合国側の主な目的は、日本の勢力下にあったレイテ島の奪還。一方で日本側の目的は、連合国軍の上陸を阻止して本土への侵攻を食い止めることです。

連合国軍の戦力は、航空母艦17隻、護衛空母18隻、戦艦12隻、重巡洋艦11隻、軽巡洋艦15隻、駆逐艦141隻、航空機約1000機、補助艦艇1500隻という圧倒的なもの。

これに対し日本軍は、稼働できるほぼすべての艦艇を投入しましたが、航空母艦4隻、戦艦9隻、重巡洋艦13隻、軽巡洋艦6隻、駆逐艦34隻、航空機約600機と、その差は歴然でした。

一連の海戦の結果、日本軍は連合国軍に、航空母艦1隻、護衛空母2隻、駆逐艦2隻の損失を与えることができましたが、日本軍は4隻の航空母艦が全滅し、不沈艦といわれていた「武蔵」をはじめとする戦艦3隻、重巡洋艦6隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦9隻が沈没しています。戦死者は約7500人と、事実上壊滅してしまいます。

「レイテ沖海戦」に敗れて以降、日本軍は大規模な戦闘をおこなうことが不可能な状態となったのです。

「レイテ沖海戦」の流れを簡単に解説。神風特攻隊とは

 

連合国軍のフィリピン侵攻への対抗策として日本が計画したのが、「捷一号作戦」です。これは、航空兵力によって連合国軍の機動部隊を牽制し、その隙を突いて戦艦を主力とする水上部隊が突撃して敵の艦隊を殲滅、上陸を阻止しようとする作戦でした。

1944年10月17日、連合国軍がレイテ湾に侵入したのを受け、日本軍は「捷一号作戦」を発令します。栗田健男中将、西村祥治中将、志摩清英中将、小沢治三郎中将らに率いられた各艦隊が、レイテ湾へ向けて進軍を始めます。

10月24日、栗田健男中将率いる主力艦隊は、シブヤン海にさしかかったところで連合国軍に発見され、たび重なる空襲を受けた結果、戦艦「武蔵」を撃沈されてしまいました。

またスリガオ海峡では、西村祥治中将と志摩清英中将が率いる艦隊が連合国軍に発見されてしまいます。攻撃が栗田の艦隊に集中しているうちに、西村の艦隊は単独でレイテ湾へ突入。戦艦6隻を含む計79隻もの大艦隊と戦い、壊滅しました。

これを受けて志摩はレイテ湾への突入を断念し、戦場からの離脱を計りますが、連合国軍の追撃を受けてこちらも壊滅的被害を受けることとなります。

10月25日、エンガノ岬沖では、航空兵力によって敵の機動部隊を牽制するという役目を担った小沢治三郎中将率いる機動部隊を、連合国が襲撃。かつて世界最強を誇った日本海軍機動部隊は壊滅してしまいます。

しかし小沢らが囮となって時間を稼いでいる間に、栗田の艦隊がレイテ湾への突入に成功。サマール沖の海戦で、戦艦「大和」をはじめとする主力艦隊を用いて攻撃し、連合国軍の護衛空母群を蹴散らすことに成功しました。

栗田の艦隊は前日の戦闘で撃退したと考えられていたため、連合国軍は突然の事態にパニックとなり、多数の損害を被ることになったのです。

この戦いにおいて、日本軍は初めて「神風特別攻撃隊」、通称「特攻隊」を投入しています。栗田の艦隊を攻撃しようとしていた連合国軍の護衛空母群に向かっていき、文字どおり身を挺して栗田艦隊を守りました。

しかしサマール沖の海戦後、栗田は「捷一号作戦」の目的である連合国軍の上陸部隊への攻撃をおこなわず、「北方の敵機動部隊を攻撃する」と反転してしまうのです。結局目標としていた機動部隊を発見することはできず、そのまま撤退。こうして日本海軍の最後の組織的戦闘となった「レイテ沖海戦」は終焉を迎えました。

栗田の判断は「謎の反転」「栗田ターン」と呼ばれ、その理由や結果が議論を巻き起こしています。

「レイテ沖海戦」の敗因は?

 

日本の「レイテ沖海戦」の敗因として、小沢の率いる艦隊の誘引が1日遅れたため、突入部隊が10月24日に発見され、襲撃を受けて甚大な損害を受けたことや、栗田と西村、志摩の連携がとれておらず、突入がバラバラになってしまったことなどが挙げられます。

そして最大の敗因とされているのが、先述した栗田健男の「謎の反転」です。

味方の機動部隊を囮にし、多くの損害を出しながらも連合国軍の護衛空母群を突破。あとはほぼ丸裸状態の上陸部隊を攻撃すれば作戦成功という段階で、なぜ栗田は艦隊を反転させてしまったのでしょうか。

彼の判断をめぐっては、現在までさまざまな議論がされ、なかには「栗田中将が臆病風に吹かれた」など批判の声もありました。

彼が反転を決断した理由のひとつが、とある電文です。栗田艦隊の北方100kmの地点に敵の機動部隊がいると伝えられ、栗田は反転してこの機動部隊を叩くことにしたのです。

ちなみに栗田は終戦後、取材に対して自分自身で判断をして決定したと述べていますが、実際には参謀たちによる会議がおこなわれ、全員一致で決められたことがわかっています。

「レイテ沖海戦」に対する海外の反応

 

栗田の判断について、イギリスの首相ウィンストン・チャーチルは著書のなかで、「この戦場と同様の経験をした者だけが、栗田を審判することができる」と擁護しています。

また、艦隊から海上に投げ出された連合国側の乗組員に日本軍が食糧や水を差し入れした、沈みゆく連合国軍の駆逐艦を日本の艦長が敬礼をしながら見送ったなど、武士道をもった戦い方がアメリカからも評価されました。

なかでも各国に強烈な印象を与えたのが「特攻隊」です。レイテ島への上陸作戦を実行したレイ・ターバック大佐は「この戦闘で見られた新奇なもの」と表現し、「敵が100機の航空機を保有している場合、自殺的急降下攻撃に用いて艦船100隻を炎上させるかもしれない」と考えたそうです。

連合国軍第3艦隊の司令官を務めていたウィリアム・ハルゼー・ジュニアは、「切腹の文化があるというものの、誠に効果的なこの様な部隊を編成するために十分な隊員を集め得るとは、我々には信じられなかった」と証言しています。

物語として読める史上最大の艦隊決戦

著者
半藤 一利
出版日
2001-09-01

 

「レイテ沖海戦」において、最大の謎とされる栗田の反転。戦後本人は、「とにかく疲れ切っていたから」と漏らしています。その真意はいまだ明らかになっていませんが、あの時あの場所で何が起こっていたのかを考える一助になる一冊です。

作者の半藤一利は、昭和史に精通している作家。栗田、小沢、西村、志摩それぞれの艦隊と、特攻隊たちがどのように戦ったのかをわかりやすく描いています。ノンフィクションながら情感をあわせもった文学的要素もあり、臨場感たっぷりに読むことができるでしょう。

「レイテ沖海戦」の当事者が語る真実とは

著者
深井 俊之助
出版日
2016-04-06

 

作者の深井俊之助は、戦艦「大和」の副砲長を務めていた人物。102歳になり、自身の生涯を振り返って本書を記しました。

「レイテ沖海戦」にて「謎の反転」の決断が下された時、その場に居合わせた人物の証言であるだけに、艦内でのやり取りは生々しいものがあります。

深井は本書のなかで、当時示された電文について、衝撃的な仮説を唱えています。70年間沈黙を守ってきた当事者の並々ならぬ思いを、ぜひ感じてみてください。

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