別々の天皇を擁する2つの朝廷が並立していた南北朝時代。日本史上においても、非常に稀有な時代だといえるでしょう。この記事では、そんな当時の後嵯峨天皇の皇位継承問題や、後醍醐天皇の建武の新政、足利義満の南北朝合一など、流れをわかりやすく解説していきます。あわせて、もっと理解を深めることができるおすすめの関連本も紹介するので、ぜひチェックしてみてください。
1336年から1392年までのおよそ56年間を、南北朝時代といいます。
ことの発端は、後醍醐天皇が自ら政治の実権を握っていた「建武の新政」が、たった3年で崩壊してしまったこと。
武士の地位が下がっていくことを危惧した足利尊氏は、次の天皇として光明天皇を擁立し室町幕府を樹立しました。これに対抗した後醍醐天皇は、京都を抜け出して奈良の吉野へ行き、「南朝」を開くのです。京都の「北朝」と吉野の「南朝」が並立することになり、それぞれが正当性を主張して衝突。全国の武士たちも「北朝」と「南朝」のいずれかについて、激しい戦乱が巻き起こりました。
ちなみに「南北朝時代」と呼ばれるようになったのは後世になってからのこと。奈良の興福寺に伝わる『大乗院日記目録』のなかに「一天両帝南北京也(南北の京にそれぞれ帝がいる)」という記述があったことから、中国の魏晋南北朝時代になぞらえて「南北朝時代」と呼ばれるようになりました。
朝廷が2つ、天皇が2人並立していた南北朝時代。原因のひとつは、天皇家における「持明院統(じみょういんとう)」と「大覚寺統(だいかくじとう)」という2つの系統の分裂です。
両者が争うようになったのは、鎌倉時代中期のこと。1242年に即位をした後嵯峨天皇は、1246年に当時4歳だった皇太子の久仁親王(後の後深草天皇)に譲位。上皇となり、政治の実権を握りました。
1258年になると、後深草天皇に皇子が生まれるのを待たず、後深草天皇の弟で当時10歳だった恒仁親王を皇太子に。翌年には即位させて、亀山天皇としてしまうのです。
後深草天皇には後に子どもができましたが、1268年、後嵯峨天皇は亀山天皇の皇子である世仁親王を皇太子とします。
この一連の流れを受けて、後嵯峨天皇は亀山天皇の子孫に皇統を伝える意図があったと推測されるものの、意志を明確にしないまま1272年に死去。遺言書にも後継者を指名する文言はなく、ただ鎌倉幕府の意向に従うようにと記されていました。
その後、後深草上皇と亀山天皇は対立を深め、その裁定は鎌倉幕府に持ち込まれることとなります。
そして幕府の執権である北条時宗により、後深草上皇の子孫である「持明院統」と、亀山天皇の子孫である「大覚寺統」が交互に天皇を輩出する「両統送立(りょうとうてつりつ)」という方法がとられることとなり、天皇家は事実上分裂することになりました。
1318年、大覚寺統の傍流にあたる後醍醐天皇が即位します。しかし、父親である後宇多法皇の遺言によって、兄の後二条天皇の遺児、邦良親王が成人するまでの「中継ぎ」という立場でした。
自分の子孫に皇位継承することを望んだ後醍醐天皇は、父親の計画の後ろ盾となっている鎌倉幕府への反感を募らせていきました。持明院統だけでなく、大覚寺統の嫡流とも対立を深め、自らの子孫に皇位を継承させるために倒幕を計画するのです。2度の失敗を経て、1333年に鎌倉幕府を滅ぼします。
その後、天皇自らが政治をおこなう親政を開始。これが「建武の新政」です。朱子学にもとづいて天応に権限を集中させる体制を目指し、矢継ぎ早に改革をおこないます。しかし性急すぎる改革は、有力武将たちの不満を招くことになりました。
1336年、足利尊氏が離反して挙兵。一時は新田義貞、楠木正成、北畠顕家らの活躍によって足利尊氏を九州に追い払うことに成功しましたが、再び上京した尊氏軍に敗れ、建武の新政は瓦解することになるのです。
足利尊氏は、持明院統の光明天皇を擁立して室町幕府を開きます。一方の後醍醐天皇は、京都から奈良の吉野に逃れ、自身の正当性を主張。ここに京都の「北朝」と、吉野の「南朝」が対立する南北朝時代が始まることとなるのです。
鎌倉幕府の倒幕から南北朝時代にかけて活躍した、有名な武将たちの動きを紹介していきます。
・新田義貞
1301年生まれ。源氏の血族で、新田氏の棟梁です。倒幕においては、稲村ヶ崎を突破して鎌倉を攻略する功績を挙げ、後醍醐天皇による建武の新政の、立役者のひとりとなりました。
足利尊氏が離反した後は、後醍醐天皇により官軍の総大将に任じられますが、箱根や湊川などで敗北。後醍醐天皇の皇子である恒良親王や尊良親王を擁して北陸地方で活動しますが、1338年に越前藤島で戦死しました。
1294年生まれ。「大楠公(だいなんこう)」とも呼ばれ、人気の高い武将です。後醍醐天皇を援助して挙兵し、「赤坂城の戦い」や「千早城の戦い」で活躍しました。
建武の新政が始まると、記録所寄人、雑訴決断所奉行人、検非違使、河内・和泉の守護などに抜擢され、結城親光(ゆうきちかみつ)、名和長年(なわながとし)、千種忠顕(ちぐさただあき)とあわせて「三木一草」と呼ばれる後醍醐天皇の側近となりました。
足利尊氏が挙兵すると、新田義貞、北畠顕家らとともに「豊島河原合戦」で尊氏軍を破り、一時は九州に駆逐することに成功します。しかし九州で体勢を立て直した尊氏軍が進撃してきた際、朝廷に対してさまざまな進言をしたものの受けれられず、不利な状態での戦いを余儀なくされて「湊川の戦い」で戦死しました。
1305年生まれ。元々は足利高氏という名前でしたが、六波羅探題を滅ぼすなど鎌倉幕府倒幕の功績を称えられ、後醍醐天皇の実名である尊治から1文字をもらい、尊氏にあらためています。
しかし建武の新政が始まり、性急な改革で後醍醐天皇が人々からの支持を失うと、徐々に対立を深め、独自の武家政権の樹立を目論むようになりました。
離反をした後、1度は官軍に敗れて九州に落ち延びるものの、1336年「多々良浜の戦い」で勝利して九州を制圧。武士たちを糾合して上京し、「湊川の戦い」で新田義貞や楠木正成を破りました。光明天皇を擁立して「建武式目十七条」を定め、室町幕府を樹立。武家政権を開くのです。
南朝と北朝の対立は半世紀以上にわたって続き、全国各地で一進一退の攻防をくり広げました。
しかし北朝である室町幕府が、1391年に起こった「明徳の乱」で有力守護大名の山名氏を弱体化させるなどし、しだいに全国の武士を掌握していきます。1392年には千早城を陥落させるなど、北朝側の優位は覆しがたい状況になっていきました。
そんななか、室町幕府の3代将軍足利義満は、南朝と領地を接する大内義弘の仲介で、南朝側と本格的な交渉を開始。「明徳の和約」を結び、およそ56年間続いた朝廷の分裂を終わらせるのです。
和約に従って、南朝の後亀山天皇は吉野から京都に戻り、北朝の後小松天皇に「三種の神器」を譲って退位。南北朝が合一します。
- 著者
- 倉山満
- 出版日
- 2016-05-16
日本史で人気の時代といえば、ドラマなどでも頻繁にとり上げられる戦国や幕末でしょう。しかし、登場人物のキャラクターの濃さでいえば、南北朝時代も負けていません。
後醍醐天皇や足利尊氏、新田義貞、楠木正成……歴史上のスターともいえる彼らの活躍は、知れば知るほど「面白い」と思わせてくれるでしょう。そもそも、朝廷が2つ、天皇が2人、という時点で普通ではありません。
『太平記』は、後醍醐天皇の即位からおよそ50年間の出来事を記した軍記物語で、ちょうど南北朝時代を舞台にしています。本書はそんな「太平記」の時代を、憲政史研究者の倉山満がわかりやすく解説しながらまとめたもの。最新の研究にのっとり、当時を再評価しようとする作者の熱意が込められています。
文章はくだけていて、イラストも親しみやすいものなので、歴史の初心者でも気負わずに読み進めることができるでしょう。
- 著者
- 阿部 暁子
- 出版日
- 2018-01-19
主人公は、世間知らずで素直な南朝の帝の妹宮、透子。北朝に寝返った武士の楠木正儀を取り返すため京の都に向かいます。そこで若き足利義満や、猿楽師の世阿弥との出会い、これまで知らなかった新しい世界へと足を踏み入れていくのです。
物語そのものはフィクションですが、時代考証はしっかりとされています。軸となる透子、義満、世阿弥の3人はいずれも十代で、そのみずみずしい眼差しをとおして南北朝時代をより身近に感じることができるでしょう。
歴史に触れたいけど勉強はしたくない、という方におすすめの一冊です。