選考委員の評が大幅に分かれたことでも話題となった、第175回芥川賞受賞作。東日本大震災のことや、世間で意識の高まっているLGBTについても触れており注目を集めました。 2020年には、映画が公開される本作。その3つの魅力を解説いたしましょう。ネタバレ注意です。
2017年、芥川賞受賞作。作者は沼田真佑。同年に、文藝春秋が発行する文芸誌「文學界」が開催する新人文学賞「文學界新人賞」を受賞しており、デビュー作での芥川賞受賞となりました。
本作は30代前半の男性「わたし」こと今野の日常を描いた、とても短い物語です。岩手に2年前に赴任してきた彼は、友達も出来ず孤独な日々を過ごしていました。
そんななか、会社の同僚である日浅とだけは趣味の釣りを通じて仲間となり、一緒に日本酒を酌み交わすような仲になります。日浅は携帯電話も持たない、アウトローな男でした。
そんなある日、突然日浅が会社を辞めてしまい、連絡が取れなくなってしまいます。しばらくしてから連絡があり、久しぶりに会った彼は、冠婚葬祭に関する会社の互助会勧誘をする営業マンとなっていました。成績優秀だという彼は、前の会社の頃とはずいぶんと様子が変わってしまっていたのでした。
何回か釣りに行ったりするなど、再び交流を持った2人。今月のノルマが達成できないという日浅のため、今野が互助会加入を快諾した後、彼らはちょっとしたことがきっかけで仲違いをしてしまいます。
そして、東日本大震災が発生するのです。
- 著者
- 沼田 真佑
- 出版日
- 2017-07-28
日浅は死んだかもしれない、と今野は同僚から聞かされます。よく飲み歩きをした居酒屋などを訪ねて彼を探そうとしますが、見つかりません。今野は日浅を探し、彼の父親を尋ねました。そこで、日浅の裏の顔を知ることになるのでした。
タイトルになっている「影裏」とは、禅語の「電光影裏春風斬(でんこうえいりにしゅんぷうをきる)」のこと。無学祖元禅師が兵に囲まれた際に唱えた経文の一句で、雷光は稲妻、影は光を意味します。
「自分を斬っても稲妻が春風を斬るようなもので、魂までも滅ぼしつくすことはできない」。人生は束の間ですが、悟った者は永久に滅びることなく存在する、という意味を持っています。
この意味を持つ言葉をタイトルにした理由は、ストーリー上に登場するわけではありません。作者がどのような思いでこのタイトルをつけたのかは、本作を読んだ読者それぞれが思わず考えてしまうポイントかもしれません。
本作は、2020年に映画の公開が決定。監督を務めるのは、映画『るろうに剣心』シリーズなどを手掛けた大友啓史です。キャストは、今野役を綾野剛、日浅役を松田龍平が演じることが発表されています。
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1978年10月30日、北海道小樽市生まれ。後に福岡県福岡市に引っ越し、同県にある西南学院大学商学部を卒業します。現在は岩手県盛岡市在住で、塾講師としても勤めている人物です。
小説を書き始めたきっかけは、実は音楽。小学4年生のとき父親の部屋にあったビートルズの曲を聞き、曲だけではなく歌詞にも魅了されました。詩が好きになり、自由度を求めて散文詩を書き、やがて時の流れを作品に持ち込めるところに魅力を感じて、小説へと移っていったそうです。
20代前半から小説を書き始め、38歳となった2017年に文藝春秋の公募新人賞「文學界新人賞」を受賞し、作家デビューを果たしました。
自身はSNSはやっていないそうですが、知人から聞いた情報で芥川賞受賞の確率は低く、さらにデビュー作であること、作品が短すぎること、あまり芥川賞向きではないことなどを考え、受賞できるとは思っていなかったのだとか。
そのため、発表に際して岩手から家族とともに上京してはいたのですが、発表の翌日は東京観光をするため予定をめいっぱい組んでいたという、微笑ましいエピソードもあります。
今野と日浅という2人の男性を中心とした日常を、淡々と描く本作。LGBTを扱った作品ということでも注目を集めました。近頃耳にする機会も多くなったLGBTとは、セクシャル・マイノリティー(性的少数者)の一部の人々を総称した言葉です。
男性、女性の同性愛者、両性愛者、出生時の性の診断と自認する性の不一致。それぞれの英語の頭文字が取られています。主人公・今野はゲイ(男性同性愛者)であると思われている人物。恋人とは2年前に別れています。
彼は作中で、自身がゲイであることを特別口にしたりはしていません。しかし、過去の恋人として登場する副島和哉の存在が、読者に今野がゲイであることをほのめかします。
副島は今野と別れた後、性別適合手術を受け、女性として生きていました。自認する性が女性である副島と、男性として副島を愛していた今野では、互いの認知に違いがあります。だから対話を重ねた末に、別れることになったのでしょう。
今野は、日浅と友人として付き合っていました。特別、日浅の性的趣向についての描写はありません。しかし、2人きりになった夜の微妙な緊張感や、今野の感覚をけなすようなシーンがあるためか、彼が異性愛者であることは想像できるでしょう。
2人はあくまでも友人同士。少なくとも日浅は、今野と友人付き合いをしているようでした。今野もはっきりと彼に恋をしていると自覚し、行動しているようではないように見受けられます。
しかし、今野が自然にとる言動や目線の動きから、隠された感情が見られるでしょう。それに今野自身が戸惑い、苛立っていた部分もあるのでは、と考えさせられます。
舞台となっているのは、作者の沼田が住む岩手県。今野と日浅が糸を垂らす川は、生出川という実在する川です。2人が釣り好きになったのは、沼田自身も釣りが好きだから。小学生の頃に父親に仕込まれ、岩手に来てからは渓流釣りをするようになったのだそう。
小説を書くにあたり、少しでも詳しいものは総動員させてネタに使用するらしく、せめて知っているものを書こうと、地元の川をモデルとした釣りのシーンが生まれたのでした。 また、作中には居酒屋で飲むというシーンが度々見られますが、これも作者のお酒好きが影響しているようです。
インタビューでは日本酒やワイン、醸造酒が好きだと答えている沼田。知っているもの、知識としてあるからこそ描写が緻密になり、作者が見せたいものが鮮明に読者の目にも映るのでしょう。
本作は今野の視点で描かれた、短い作品です。淡々と描かれたそれを、彼の日記のようだと感じる読者も多いのではないでしょうか。
小説にはさまざまなジャンルがありますが、起承転結、序破急といった、盛り上がりや流れが存在します。そういった物語には当然何かしらの生き物が登場し、彼らがさまざまな事を考えたり、感じたりする姿が物語になり、ドラマティックに演出されることが多いものではないでしょうか。
しかし現実は意外と淡々と過ぎるもの。確かに何かに対して怒ることも、嬉しくて喜ぶことも、悲しくて泣くこともあるでしょう。しかし、毎日感情を大きくゆさぶる大きな事件があるわけではありません。
同じように、本作ではなんとなく日々が過ぎていきます。そして特別な魅力はないかもしれませんが、多くの人がそんな日々のなかを生きているでしょう。だからこそ、本作のリアルさは誰にでも響くものなのです。
仕事をし、釣りに行き、酒を飲む。少しだけ浮き沈みする感情とともに、フラットに流れる時間。それが読者の生きる現実と地続きになっているような気がして、より物語に入り込むことができます。
日浅が仕事を辞めて音信不通になったものの、やがて2人は再会を果たします。しかし、以前のような関係に戻れたわけではありませんでした。そして2人でどこか気まずい夜を過ごした後、日本は未曽有の大災害に襲われます。
本作は淡々とした描写がなされていますが、震災についても大げさな描写はありません。あれだけ風景も何もかも大きく変わってしまっていても、日々は淡々と過ぎていくのです。リアルに感じられた描写ですが、だからこそ喪失感が際立ちます。
- 著者
- 沼田 真佑
- 出版日
- 2017-07-28
日浅は波に飲まれて死んだ。
同僚にそう聞かされた今野は、釣り好きの日浅が、あの場所にいてもおかしくないだろうと考えます。しかし、遺体が発見されたとも聞かされないため、納得がいっていなかったのかもしれません。居酒屋を捜し歩き、そして彼の父親を訪ねることになるのです。
今野は、日浅が家族とうまくいっていない様子であったことを知っています。父親が語るのは、今野とはまったく違う印象の日浅の姿でした。変わった友達との付き合い方、都会の大学で過ごしたはずの空白の4年間。
元々持っていたイメージが危うくなり、どこか彼がぼんやりとしてしまったような印象を受けるのです。
本作はミステリーではないため、日浅がどんな過去を過ごしてきたのか、どうなってしまったのかを結論付ける物語ではありません。彼本人が過去を語るわけでもないため、他者から形作られた日浅の姿が、読者の心にも残ることになります。
とはいえ、どこか利用されたような形でもある今野や、互助会に入会したうえにお金を貸していたという同僚の存在を考えるに、日浅は他者の好意を利用することを日常としていたのではないか、と邪推してしまうでしょう。
それがわかってもなお彼を心に残す今野の姿に、人の心は自分でも思い通りにならず、ままならないさまを見せつけられるのです。
純文学ということもあり、読者によって感じることは違うでしょう。他の人と違った感想を抱いても、芥川賞の選評が割れたと聞けば納得できる部分もあるはずです。
川をはじめとした自然だけでなく、酒や煙草、汗の描写までリアルな本作。映画化で美しい景色とともに、どんな映像で再現されるのかにも気になり、期待が高まる作品です。