5分でわかる中東戦争!第一次から第四次まで、流れや特徴をわかりやすく解説

更新:2021.11.17

イスラエルと、周辺のアラブ諸国の間で大規模な戦いが4回起こった「中東戦争」。一体何が原因で、何のために争っていたのでしょうか。アメリカやソ連、イギリス、フランスなど大国の思惑も入り乱れる複雑な戦争の、流れと特徴をわかりやすく解説していきます。

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中東戦争とは。年号など概要を簡単に説明

 

ユダヤ人国家のイスラエルと、周辺のアラブ国家間の戦いを「中東戦争」といいます。1948年から1949年の「第一次」、1956年から1957年の「第二次」、1967年6月の「第三次」、1973年10月の「第四次」と合計4回おこなわれました。

当時は東西冷戦の最中で、西側陣営であるアメリカ・イギリス・フランスなどがイスラエルを、東側陣営のソ連がアラブ諸国を支援していたことから、代理戦争のひとつともいわれています。

ただイギリスとフランスは石油政策の観点から、第三次よりアラブ側にまわり、また中国やイランなどの大国も介入して、年月を経るごとに複雑な様相を呈しているのが特徴です。

さらに、イスラエルのユダヤ教、アラブ諸国のイスラム教双方の聖地であるエルサレムの帰属問題も絡んだ、宗教戦争の側面ももっています。

では第一次から第四次まで、それぞれの流れと特徴を解説していきましょう。

 

第一次中東戦争の流れと特徴:背景にはパレスチナ問題が

 

第一次中東戦争は、1948年から1949年におこなわれました。別名「パレスチナ戦争」ともいい、イスラエル側は「独立戦争」、アラブ側は「アン・ナクバ(大災害)」と呼んでいます。

1914年から1918年に起こった第一次世界大戦中、イギリスはトルコへの攻撃を狙ってアラブ人に武装蜂起を呼びかけ、その対価として「フサイン=マクマホン協定」を結んでパレスチナの独立を約束します。

またイギリスは莫大な戦費を必要としていたため、ユダヤ人の豪商たちに資金援助を求めていました。その見返りとして、ユダヤ人による国家の建設を承認する「バルフォア宣言」を出しています。

さらにフランスとロシアとともに中東地域の分割を協議し、「サイクス・ピコ協定」を締結していました。

イギリスによるこの「三枚舌外交」が、中東地域の対立の大きな原因となっています。

1947年、アラブ人とユダヤ人がパレスチナを分割統治するという内容の「パレスチナ分割決議」が国連で決議されました。ここでは、パレスチナをアラブ人地域とユダヤ人地域に分割し、エルサレム周辺は国連統治地域にすることが決められました。

しかしユダヤ人に3分の1以上の土地が与えられることになったため、アラブ人が反発し、決議翌日からパレスチナは内戦状態となってしまうのです。アラブ側は義勇兵を、ユダヤ側は民兵を相次いで動員し、一触即発状態となります。

治安維持能力を失っていたイギリス軍は、この内戦を鎮圧することができず、1948年5月までに撤退することを決定するのです。

撤退当日にユダヤ国民評議会は独立を宣言。これに対して、レバノン、シリア、トランスヨルダン、イラク、エジプトのアラブ連盟5ヶ国が宣戦布告し、第一次中東戦争が勃発します。

兵力差があったことから当初はアラブ側の優勢で進みました。しかし国連が停戦を呼び掛けている間にイスラエル側は乱立していた武装組織を一本化し、国防軍を編成します。休戦が明けると一気に反撃に出て、指揮系統が統一されていないアラブ側を撃破していきました。

1949年7月に停戦協定が結ばれ、戦いは終了。イスラエルはパレスチナ地域の大部分を手に入れ、独立を確固たるものとしました。

 

第二次中東戦争の流れと特徴:別名はスエズ戦争

 

第二次中東戦争は、1956年から1957年までおこなわれました。主にシナイ半島を舞台にし、エジプトと、イスラエル・イギリス・フランスがスエズ運河をめぐって戦っています。「スエズ戦争」「スエズ動乱」「スエズ危機」「シナイ作戦」とも呼ばれています。

きっかけは、1956年にエジプトのナセル大統領が、スエズ運河の国有化を宣言したこと。イギリスは運河の国際管理を回復させようと交渉を続けていましたが、難航したため、イスラエルとフランスに呼び掛けて軍事行動を模索するのです。

計画は、まずイスラエルがシナイ半島に侵攻し、その後にイギリスとフランスが介入するというもの。そしてイスラエルとエジプトの両軍にシナイ半島からの撤退を勧告します。エジプトは自国の領土であるシナイ半島から撤退することはないと予測し、それに対する制裁を大義名分にスエズ運河を占領しようとしました。

このような回りくどい計画が必要だった理由として、第二次大戦以降、侵略目的の戦争が国際世論に認められなくなったことが挙げられます。

計画にもとづき、1956年10月に、イスラエル国防軍がシナイ半島への侵攻を開始しました。10月30日、イギリス政府によって両軍に対し撤退するよう勧告が出されます。目論見どおりエジプトがこの勧告を拒否したため、10月31日にイギリス・フランスの両軍が参戦。11月6日にシナイ半島への上陸作戦を始めました。

しかしここで、予想外の出来事が起こります。アメリカのアイゼンハワー大統領が、ソ連のブルガーニン首相とともに、イギリス・フランス・イスラエル軍の即時全面撤退と停戦を通告してきたのです。

さらに国連でも、アメリカとソ連によって即時停戦を求める決議が採択されました。

イギリス・フランス・イスラエルの3ヶ国は決議を受け入れざるをえず、停戦が実現。エジプトはスエズ運河を国有化することに成功します。

この結果から第二次中東戦争は、軍事的にはイスラエル側、政治的にはエジプト側の勝利とされ、さらに国際社会におけるアメリカの発言権の大きさを印象付けることとなりました。

 

第三次中東戦争の流れと特徴:イスラエルを支援した国は?

 

第三次中東戦争は、1967年6月におこなわれました。イスラエルとエジプト・シリア・ヨルダンを中心としたアラブ諸国の間で起こった戦争です。6日間で終了したことから、イスラエル側は「六日戦争」、アラブ側は「大敗北」と呼んでいます。

第二次中東戦争以降、比較的安定していたイスラエルとアラブ諸国家の関係ですが、1964年に「パレスチナ解放機構(PLO)」が結成されると、ゲリラ的な戦いが増加します。

1966年に、シリアでクーデターが発生して親PLO政権が樹立すると、ゴラン高原からイスラエル領内に砲撃を開始。イスラエルもこれに報復をするなど、小競り合いが生じていました。

この状況に目を付けたのが、中東において自身に有利な体制を構築しようとしていたソ連です。

イスラエルもシリアも、武力衝突を本格的な戦争に発展させるつもりはありませんでしたが、ソ連は情報機関「KGB」を使って、イスラエルがシリアへの侵攻準備をしていえるという嘘の情報を流します。またエジプトに対しては、両国の開戦が間近であると伝えました。

KGBから情報を受けたシリアとエジプト、そしてエジプトと共同防衛条約を結ぶヨルダンの3ヶ国は、国境沿いに軍を集結。

一方のイスラエルも、情報機関を使って彼らの動きを掴み、アメリカに仲裁を依頼します。しかしアメリカは1955年から続いていた「ベトナム戦争」に手一杯だったこともあり、動きません。イスラエルは孤立することになってしまいました。

イスラエルは周囲をすべて敵に囲まれている状態のため、侵攻される前に先制攻撃を加えることを決意。1967年6月5日、エジプト、シリア、ヨルダン、イラクの領空を侵犯し、各国の基地に奇襲攻撃を加えるのです。これが第三次中東戦争の始まりです。

制空権を手にしたイスラエルは、その後すぐに地上軍を侵攻。ヨルダン領ヨルダン川西岸地区、エジプト領ガザ地区およびシナイ半島、シリア領ゴラン高原を占領することに成功しました。

6月10日には各国との間で停戦が実現し、わずか6日間でイスラエルの占領地域は戦前の4倍以上に拡大しました。

 

第四次中東戦争の流れと特徴:参加国や電子戦などを解説

 

第四次中東戦争は、1973年10月におこなわれました。イスラエルと、エジプトやシリアをはじめとするアラブ諸国間の戦いです。エジプトが前戦争で失った領地をめぐり、争われました。

イスラエルでは、ユダヤ暦でもっとも神聖な日とされる「ヨム・キプール」に始まったことから「ヨム・キプール戦争」、アラブ諸国では10月に始まったことから「10月戦争」「ラマダン戦争」とも呼ばれています。

1970年、エジプトの大統領を務めていたナサルが急死し、副大統領だったサダトが新たに大統領に就任します。サダトは、それまでの親ソ連だった外交方針を親米に転換。アメリカ仲介のもとでイスラエルと交渉をしようとしますが、当時国務長官を務めていたキッシンジャーから断られてしまいます。

この時キッシンジャーは「勝者の分け前を要求してはならない」、つまり「アラブが負けたままでは交渉の仲介はできない」と述べたそうです。これを受けサダト大統領は、戦争の準備を進めました。

この動きは、情報機関を通じてイスラエル側も把握していましたが、第三次中東戦争で勝利をしたイスラエルでは「不敗神話」が蔓延。その油断が、アラブ側の奇襲攻撃を許すことになってしまうのです。

10月6日、エジプトは、第三次中東戦争でイスラエルに占領された領土の奪還を目指してシナイ半島を、シリアはゴラン高原のイスラエル国防軍に対して攻撃を開始します。2ヶ所を同時に攻められたイスラエルは、追い詰められるあまり、一時は核兵器の使用も検討したそうです。

その後イスラエル側にはアメリカが、アラブ側にはソ連が援助をし、さらにイラクやヨルダン、モロッコ、サウジアラビア、スーダン、アルジェリア、リビア、クウェート、チュニジア、パキスタン、レバノン、キューバ、北朝鮮、パレスチナ解放機構なども部隊を送るなどして参戦しています。

10月11日、イスラエルが部隊を再編成して反撃に出ると、戦況は徐々にイスラエル優位に。 エジプトが再び敗北することを危惧したアメリカとソ連が主導し、10月22日に国連安全保障理事会によって停戦を求める決議が提出されました。

一時は「第三次世界大戦」の勃発も懸念されたものの、10月25日にイスラエルが作戦を中止したことで鎮静化しています。

また第四次中東戦争は、対戦車ミサイルや対艦ミサイルなどの各種ミサイル、対空レーダーを用いた電子戦など、地域紛争のなかでも最新兵器が多数投入されたとして注目されました。

さらに、「アラブ石油輸出国機構(OAPEC)」が親イスラエル国に対して石油の輸出を禁止する措置をとったため、「石油輸出国機構(OPEC)」が石油価格を引き上げ、第一次オイルショックを引き起こして世界各国に大きな影響を与えています。

戦争が終結した後の世界情勢は?

 

1978年、エジプトのサダト大統領は「キャンプ・デービッド合意」を締結し、単独でイスラエルとの和平を結びます。アラブの盟主として中東戦争を主導してきたエジプトが離脱したことにより、アラブ諸国の連携は崩壊することとなりました。

一方で1978年、イランでは「イスラム革命」が起こります。国王が追放され、イスラム原理主義者が政権を掌握。さらに1980年からは「イラン・イラク戦争」が勃発します。

アラブ諸国は革命が自国に飛び火することを恐れ、米ソと連携して同戦争においてイラクを支援することとなるのです。

かつてイスラエルと敵対していたアラブ諸国は連携をとれなくなり、その代わりにイスラエルは「パレスチナ解放機構」や「ヒズボラ」などの武装組織と敵対するようになりました。そのため中東戦争は、終結したのではなく、変容しただけだとも指摘されています。

実際に、1982年にイスラエルがレバノンへ侵攻したことは、アラブ側からは「第五次中東戦争」と認識されているのです。

その後現在にいたるまで、中東地域では、パレスチナ紛争や湾岸戦争、イラク戦争、シリア内戦、ISとの戦いなど混乱した状態が続いています。

中東戦争をはじめ、中東地域の歴史を理解できる一冊

著者
山崎雅弘
出版日
2016-08-05

 

なぜ中東地域では戦いがくり返されるのでしょうか。

本書では、中東戦争はもちろん、パレスチナやイスラエルの歴史を振り返りながらその理由を解説していきます。またナセルやサダトなど特筆すべきリーダーについても紹介。中立的な立場ながらもストーリーのある読ませる文章で、壮大な歴史を理解することができるでしょう。

日々のニュースを見るうえでも、その背景を知っているのといないのとでは、感じ方が変わるはず。一読の価値がある一冊です。

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