【第19回】自撮りに悶々とする話

【第19回】自撮りに悶々とする話

更新:2021.11.28

インスタグラムで「映える」場所の写真や、可愛らしく飾り付けられた季節のパフェの写真、丁寧に整えられた誰かの暮らしを切り取った写真、そして素敵な女の子の写真をしょっちゅう眺めている。 それは日々の楽しみになっていて、いまのところ飽きそうにもない。けれども「写真映えさせた私」にシャッターを切ってSNSを更新することがいまだに苦手だ。 オンラインのアカウントに紐付けられているオフラインの(ダサい)自分に自信がない。SNSの上だけでもおしゃれな人間になりたいのに、自意識がそれをつっぱねる。

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SNSにアップされた写真はハレの瞬間が多い。

そして、その写真たちはアカウントによってオフラインの、ケを生きる自分に紐付いている。

わたしはSNSにアップした自画像を見返すとき、撮った写真に写るハレの瞬間より、それを撮るわたし自身のうしろ姿を見てしまう。

自分を出来るだけ「かわいく」撮るため、いそいそと光のよく当たる場所に移動して、スマートフォンの角度を調整し、丸い顔がしゅっと見えるよう小首をかしげてシャッターを押す。そんな自分を思い出すとけなげではあるが、つい言い訳をしたくなる。

「みんな撮っているでしょう」「いまどき普通だもの」「自分を好きでどうして悪いの?」「芸能人だから仕事のうちだよ」

そんなことを心の中で唱えながら仕事の合間に誰もいない部屋で、地道に自撮りをしていたある日、打ち合わせにやってきたスタッフと共演者にその様子を見られてしまった。

わたしは慌てて、スマートフォンをただ操作していた振りをしてごまかした。

けれどもあまりにいたたまれない気分になり、スタッフの人に自分から「いやー、自撮りしてたんですけど、見られちゃいましたか」と言ったら「あ、はあ……」というような、非常に濁った肯定が返ってきた。共演者の人にはなにも言えなかった。こんな思いまでして撮影された「かわいいわたし」は、浮かれているときや酔っているときなど、大胆なことをしやすい気分のときにSNSにアップされる。

けれどけれどやっぱり拠んどころのない気分になって、タイムラインからはやく見えないところへ流れてしまえるよう急に投稿を増やしてみたり、こっそり投稿を削除したりする。

そもそもわたしはより多くの人に見てもらうことが仕事だ。

こうしてクダを巻くよりも自分の写真をもっとたくさんアップして、自分の撮った自分の写真や誰かが撮った自分にも慣れていくほうがいいだろう。

また生活の中でも外でも一瞬のハレを逃さずばんばん人に見せることは、表に出る人の仕事のうちでもある。

だけどやっぱり、まだしっくりこないのだ。

実際は、デジタルで撮った自分の顔を画面越しにしょっちゅう見ている。

右に並んだひとと左に並んだひと、それが何歳であっても性別がどんなふうであってもつい顔の造作を見比べてしまい、ああ、自分の顔ってこんな微妙なんだよな。とがっかりする。

他の誰かの写真を見てもこんなことは感じない。

友達が写っていれば会ってないのに会えたような気になってちょっと嬉しいし、会ったことのない女の子のかわいい写真を見れば「かわいい〜!」と言ってひとしきりうっとりした後、友達に見せて一緒にはしゃぐこともあるし、保存をしてたまに見返すことさえある。

シャッターを切るまでに悶々とするのは自分の顔写真だけではない。

どこかへ出掛けたときの「映える」写真もだ。

脚本と出演を担当した短編映画(こうやって書くと自分がまるで立派な人のように思える)が京都の劇団「ヨーロッパ企画」さんのカウントダウンイベントで上映されるので、年末年始に京都へ行った。

連載の第一回にも書いたけれど、わたしにとって京都は永遠のあこがれの地だ。

SNSで写真映りのいい喫茶店を調べて、日に何軒も巡った。

どこもとても素敵な雰囲気で、すこし古びた壁の色や自分がまだ生まれる前からある建築が持つ独特のかわいらしさにわくわくして、手元のスマートフォンで写真を撮ってSNSに載せたくなった。

けれども「おしゃれなところへ行っておしゃれな写真を撮る自分」というものがなんだか気恥ずかしくなってしまってどこへ行ってもなにも撮れなかった。

またしても、自意識が待ったをかける。

写真に映るのはまなざしだ。

アカウント名が写真より先に表示されるSNSで強いのは、実は写真を通じた撮影者「本人」のほうなのではないか。つまるところ、わたしは「かわいいが好きな自分大好き」と言ってしまうのに照れているだけかもしれない。

けれど、電線の写真を撮るときには悶々としない。

全然しないし、より「映える」電線を撮ることで頭が一杯になって楽しい。

数年前から電線の写真だけをアップするインスタグラムアカウントを更新している。来月に出す電線のDVDにはわたしが電線を見上げたり、にやにやしながら道っぱたに腹ばいになってシャッターを切ったりする映像が延々と収録されている。

恐れ多いことにこのDVDの企画者でもあり出演者なので、製品になる前の映像を確認させてもらった。

まず、「こんな、一日中、ずっと上むいてたのか」ということにびっくりした。

人に説明するときに「電線を見るのでよく上を向いています」と言ったことはあったけれど、ここまでずっと上ばっかり見上げている女の映像なんか初めて見た。

若い女性芸能人には、まなざす人にとっての「かわいい」あるいは「きれいな」もしくは「元気で明るい」ことなどが求められる。そしてわたしも幾度となく「かわいい」に応えようとして、その度少しずつ悶々としてきた。

せっかくの、初めてのDVDだから、もっと「かわいい」感じに写るよう努力すればよかったのかもしれない。

けれど、逃げない電線を必死に追ったり、いい電線を見つけてはしゃいでいる自分を見るのはなんだか面白かった。電線愛好家のわたしは「かわいい」を忘れて電線に夢中だった。

この仕事をしていてよかったし、DVDを出してもらえてよかった。

ここまで自分のことを延々書けるのはそもそも「自分大好き」だからに違いないんだけれど、てらいなく言うにはまだ自信がない。

好きなものを追うときの姿はときにみっともないし「かわいい」とは違うかもしれない。でもいいなと思う。電線があってよかった。

ホンマタカシの換骨奪胎

著者
ホンマ タカシ
出版日
2018-06-29
ヒトツの表現は突然、天才のもとに空からふってくるのではありません。
脈々と続く人間の営為の大きな流れの中にあるのです。
しっかりと先人の作品を受け取って、自分なりに前進させて、
また次の世代にパスしなければならないのです。
換骨奪胎。あえて真剣勝負をするために、この強い言葉を選びました。

写真家のホンマタカシさんが国内外のさまざまな視覚芸術の歴史や作家について解説した本です。

たとえば「十二章 マグリットと視覚」ではポートレイト写真における撮影者と被写体の関係性のについて、「七章 赤瀬川原平と路上との出会い」では路上観察的なものの見方について、「十六章 仮説 毎回初めて世界に出会う」では記憶に障碍を持ちながら活動していた写真家・中平卓馬を紹介し、同じテーマの被写体を繰り返し撮影し続けた中平氏への“仮説”が写真家である著者ならではの感動をもって紹介されています。

映像・写真をはじめとする視覚芸術についてのんびりぼんやり眺めるところから、もう一歩歴史を理解した上で鑑賞し、考えるための扉となる一冊です。

撮影:石山蓮華

この記事が含まれる特集

  • 電線読書

    趣味は電線、配線の写真を撮ること。そんな女優・石山蓮華が、徒然と考えることを綴るコラムです。石山蓮華は、日本テレビ「ZIP!」にレポーターとして出演中。主な出演作は、映画「思い出のマーニー」、舞台「遠野物語-奇ッ怪 其ノ参-」「転校生」、ラジオ「能町みね子のTOO MUCH LOVER」テレビ「ナカイの窓」など。

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