5分でわかるパリ・コミューン!背景や「血の一週間」をわかりやすく解説!

更新:2021.11.17

約2ヶ月という短命に終わったものの、後の社会主義や共産主義に多大な影響を及ぼした「パリ・コミューン」。この記事では成立した背景や政策の問題点、セーヌ川が赤く染まったとされる「血の一週間」などをわかりやすく解説していきます。あわせてもっと理解が深まるおすすめの関連本も紹介するので、ぜひチェックしてみてください。

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パリ・コミューンとは。概要を簡単に解説

 

1871年3月、フランスとプロイセンが戦った「普仏戦争」の講和に反対したパリ市民が樹立した革命自治体を、パリ・コミューンといいます。世界最初の、プロレタリア独裁政府でした。プロレタリアとはプロレタリアートともいい、資本主義における労働者階級のことです。

この革命が起こったことにより、講和を進めていた行政長官のアドルフ・ティエールらは、軍と政府関係者とともにパリからヴェルサイユへ逃走せざるをえませんでした。

パリ・コミューンは評議会の選挙で選ばれた84人の議員で構成され、執行部、財務、軍事、司法、保安、食料供給、労働・工業・交換、外務、公共事業、教育という10の実務機関が組織されています。「代議体ではなく、執行権であって同時に立法権を兼ねた行動体」として、パリ市を統治しました。

同様のコミューンはパリだけでなく、マルセイユやリヨン、サン・テティエンヌ、トゥールーズ、ナルボンヌ、グルノーブル、リモージュなどの地方都市でも結成されましたが、いずれも短期間で鎮圧されています。

パリ・コミューンが成立した背景は?

 

フランスでは、1848年に起きた「二月革命」によってオルレアン朝が倒れ、「第二共和政」が成立。不安定な政情のなかで台頭したのが、ナポレオン・ボナパルトの甥であるルイ・ナポレオンです。

ルイは産業革命を推進し、積極的な社会政策を実施してフランスを近代化へ導きました。国民的な人気を得て、1851年にナポレオン3世として即位。「第二帝政」が成立します。

1860年には「英仏通商協定」を締結するなど貿易の自由化政策を進め、同時代にアメリカで勃発したゴールドラッシュによって農作物価格が上昇したことも相まって、フランス農民の生活はおおいに向上したのです。

好景気を背景にナポレオン3世はパリの改造計画を進め、近代都市を形成します。一方で、パリの中心部から立ち退きを余儀なくされた人々は、中心部を取り巻くように「赤いベルト」と呼ばれる貧民街を形成し、コミューン革命の素地を育むこととなったのです。

好景気のうちはよかったものの、1866年、イギリスで金融危機が発生。翌年にはフランスに飛び火し、多くの企業が倒産しました。街は失業者であふれるようになります。

各地で労働組合が結成され、当時は違法とされていたストライキが頻発。革命的ジャコバン派、プルードン派、ブランキ派など、後にパリ・コミューンの中枢を担う反政府派が形成されていきました。

経済面だけでなく外交面においても、ナポレオン3世は失策を重ねてしまいます。1861年から1867年におこなわれた「メキシコ出兵」が失敗したことでフランスの国威は地に堕ち、「イタリア統一戦争」で同盟国だったイタリアを失い、外交的に孤立する状況になるのです。

そんななかで、スペインの継承問題をきっかけに、ドイツ統一を目論むプロイセンと全面対決をする「普仏戦争」に突入。「セダンの戦い」で敗れ、皇帝自身が捕虜になろうとする時、民衆たちは政府を見限って革命へと走り出したのです。

パリ・コミューンの政策と問題点

 

1871年3月28日に赤旗が翻るパリ市庁舎前で結成が宣言されてから、ヴェルサイユの政府軍による攻撃で5月28日に鎮圧されるまでのわずか72日間で、パリ・コミューンは新しい政策を次々と打ち出します。

その内容は、教育改革や行政の民主化、集会の自由、結社の自由、婦人参政権、言論の自由、信教の自由、政教分離、常備軍の廃止、生活保護など多岐にわたりました。

このうち政教分離や無償の義務教育などは、コミューンが崩壊した後の「第三共和政」にも引き継がれ、その他の政策も後世に大きな影響を与えています。

しかしパリ・コミューンは、さまざまな思想や背景をもつ人々の集まりでもありました。ヴェルサイユの政府軍との戦いが続くなかで、徐々に意見が対立するようになり、コミューン内部で独裁を求める機運が生じます。

敵の攻撃を抑制するためにブルジョアを人質にする「人質法」の成立や、反コミューンの新聞の禁止、公安委員会を組織して市民を半強制的に動員・統制するなど、強権的な政策をおこなうようになっていくのです。

また中央と現場の方針の不一致、感情的な対立なども目立ち、ヴェルサイユの政府軍に団結して立ち向かうことは難しい状況になってしまいました。

血の一週間とは

 

1871年5月21日の夜、ヴェルサイユ政府軍はサン・クルー門からパリ市内に突入。23日にはパリ中心部にあるモンマルトルの丘を奪取して制圧します。これに対しコミューン側は、老人や女性、子どもまでもが加わって抵抗。大司教や銀行家などを銃殺していきます。

しかしヴェルサイユ政府軍は捕虜を次々と処刑し、老若男女を問わず大量の市民を虐殺。双方が殺し合いを重ねていきました。

この凄惨な無差別殺人が発生した市街戦は「血の一週間」と呼ばれ、セーヌ川が血で赤く染まったと語り継がれているのです。

最終的には、ヴェルサイユ政府軍のパリ侵入からわずか1週間で3万人以上の人々が死亡し、パリ・コミューンは成立から約2ヶ月で瓦解、鎮圧されました。

戦いが終わった後も政府軍によるコミューン狩りは熾烈を極め、捕えられた兵士は銃殺され、埋められるなどしたそう。裁判によって370人が死刑、410人が強制労働、4000人が禁固、3500人がニューカレドニアなどに流刑されています。

パリ・コミューンが理解できるおすすめの本

著者
H.ルフェーヴル
出版日
2011-08-19

 

作者のアンリ・ルフェーブルは、異端のマルクス主義者と呼ばれた人物。本書は1965年に初版が出版され、3年後の1968年に起きた「五月革命」を予言していたかのような内容で注目されました。

「19世紀最大の反乱」とも「20世紀型民衆革命の原型」ともいわれるパリ・コミューン。彼はこの現象を一種の「祭」と考え、革命の倫理と美学、歴史性を理論的に解き明かそうと試みています。

当時の新聞やビラなども引用されていて、臨場感もたっぷり。固有名詞が登場するので、ある程度の予備知識を入れてから読むと理解がさらに深まるでしょう。

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