70万部越えのベストセラー、『悼む人』。2012年に舞台化され、2015年には映画化もされた本作。「死」と、それに対して生きる人々の心がテーマの長編小説です。「悼む」という言葉は、死にともなう心の痛みや、亡くなった悔しさを表すもの。 この記事では、作品が持つ魅力を、「悼む」という言葉を軸に紹介していきます。
ある日、事件現場を取材していた記者・蒔野は、奇妙な行動をする青年・静人と出会います。蒔野が何をしているのか尋ねると、静人は、死者を悼んでいるのだと答えるのでした。
全国を回って、死者を悼む旅をしているという静人。社内でも性悪説の持ち主で、猜疑心に取りつかれたと噂される蒔野は、静人の化けの皮を剥ごうと彼の調査を始めました。
一方静人は、とある殺害現場に立ち寄った際に、倖世(ゆきよ)という女性に出会います。殺人事件の加害者であった倖世は、ある理由から、静人とともに旅をすることに。
そんな旅を続ける静人の家族は、彼の行動を理解できないけれども、静人の帰りを待っています。
様々な背景を持ち、形は違えど死と関わる登場人物たち。死者を悼む静人を起点に、彼らは死に対して向き合い始めます。
- 著者
- 天童 荒太
- 出版日
- 2008-11-30
本作は、作家・天童荒太の直木賞受賞の長編小説です。文春文庫からも、文庫本が発売されています。
本の表紙には印象的な彫刻の写真が用いられており、本自体が作品内容と同様、神秘的な雰囲気をまとっています。表紙は舟越桂の彫刻で、作者である天童荒太が撮影したものを使っているとのこと。インパクトのある装丁となっています。
映画作品は、主演に高良健吾、ヒロイン役に石田ゆり子を迎え、井浦新や大竹しのぶなど、そうそうたるキャストが揃っています。撮影は、山形県や福島県、新潟県と関東近郊で行われたそうです。
舞台版では、主演を向井理、ヒロインを小西真奈美などが演じており、どちらも「二十世紀少年」や「SPEC〜警視庁公安部公安第五課 未詳事件特別対策係事件簿〜」で有名な堤幸彦監督が手掛けています。
向井理のその他の実写化作品が知りたい方は、こちらの記事もおすすめです。
<向井理のおすすめ実写化映画10選、テレビドラマ20選!異色の経歴を活かした役柄に注目>
『悼む人』の特徴は、『悼む人』そのものでもある主人公・静人の視点ではなく、その周囲にいる登場人物の視点から描かれます。
坂築静人(さかつき しずと)
本作の主人公。ある理由により、死を悼む旅へ出ることとなります。父、母、妹の4人家族。
奈儀倖世(なぎ ゆきよ)
かつて愛する夫に殺してくれと頼まれ、言われるままに命を奪った過去があります。そんな倖世と静人の出会いは、彼女が夫を殺した現場でした。夫のことを事細かに尋ねる静人。最初は不審に思った彼女ですが、ある理由から静人に同行することになります。
蒔野抗太郎(まきの こうたろう)
エグノとあだ名されるほど、残忍な殺人や男女の愛憎などの、スキャンダラスな記事を追い求める記者。
幼い頃、両親に捨てられた経験から、人のやさしさを信じません。そのため、偶然出会った「悼む人」である静人の行為を受け入れられませんでした。静人のことを調べ上げ、実家にも訪れるなど、徹底して真意を探ろうとします。
坂築巡子(さかつき じゅんこ)
静人の母親である巡子は、静人の理解者。末期のガンに蝕まれている彼女は、家族とともに実家で療養しながら、静人の帰りを待ち続けます。作中では息子を信頼し、静人に悪意を持って訪ねてくる蒔野に対しても、毅然とした態度で接します。
坂築美汐(さかつき みしお)
静人の妹。兄である静人の悼む行ためが原因で恋人と別れた彼女は、その後妊娠していたことが発覚します。一人暮らしをしていた彼女は実家に戻り、1人で産む決意をしました。彼女が抱くもう1つの命こそが、この物語の最後を劇的にする要素となります。
坂築静人は、死者を悼むために全国を放浪する男。幼い頃、事故で祖父をなくした彼は、大学時代にも親友を失っています。
2つの死に強いショックを受けた彼ですが、彼がもっとも衝撃を受けたのは、親友の死を、その1年後には忘れてしまっていたという事実でした。人の死に対する苦悩を抱き続けた彼はある日、死と真っ直ぐに向き合うため、死者を悼む旅をすることを決意します。
この行動こそ、本作最大の見どころ。作品の登場人物たちは、彼の異常ともいえる行動に影響されていくのです。この行動が、神聖さを感じる表現もされていることにも、注目です。
本作のタイトル『悼む人』は、様々な解釈ができますが、彼のことを指すものでもあるのかもしれません。静人は、死者の死因や事件の真相を追おうとはしません。ただ、死者だけを真っ直ぐに見つめます。
死んだ人が、誰を愛したのか。誰に愛されたのか。そして、確かにそこにいたことを決して忘れないと、「悼む」こと。それが、彼が見つけた死との向き合い方であり、人生の意味となります。
彼の思いが生み出す、さまざまな人間ドラマは必見です。
本作『悼む人』では、主要人物たちが、さまざまな形で死と関係しています。
静人は、死を悼むために全国を放浪しています。彼はすでに死んだ人間のために「悼む人」であり、死に対して向き合う人物です。
蒔野は、殺人事件を追う記者ということ、彼の父が病の床にあるという点で、死に関係しています。ある意味では、死というものに最も近いものの、死というものをはっきりと意識できずにいる人物です。
倖世は、夫を殺したことで死に関係します。最も愛した人を殺したという事実が、彼女の心を傷つけ続けます。
3人が抱く、すぐそばにある死という現実への思い。だからこそ彼らの行動は、力強く見えてきます。それぞれの苦悩が深く心に沁みる描写、そして意志を持って生きていくさまが各登場人物の視点から描かれていく様子に注目です。
作中に登場する・奈儀倖世は、夫殺しの罪を背負っています。
彼女が夫である甲水を殺したのは、彼に頼まれたからでした。
かつて元夫のDVを受けていた倖世は、DV被害者を保護する施設に身を寄せ、そこで甲水と出会います。彼と関わることで、初めて人を愛することを知った倖世。結婚生活はとても幸せなものでした。しかし、甲水には別の目的があったのです。
ある日、倖世は甲水に、
「愛しているなら殺してくれ」(『悼む人』より引用)
と、言われるのです。
拒否する倖世に、甲水は殺してくれないなら他の女に頼むということを告げました。他の女を引き合いに出され、彼を渡したくないと強く思った倖世は、その独占欲から甲水を殺してしまいます。
その日から倖世には、甲水の亡霊が憑いてまわるようになりました。甲水は倖世の肩の上で、様々なことをつぶやきます。彼女が甲水の殺害現場へと赴いたのも、甲水の声によるものだったのです。
殺害現場で静人と出会った倖世は、甲水に「こいつに殺してもらえ」と囁かれたことから、旅に同行。しかしその過程で、倖世は静人に惹かれていきます。また静人も、倖世に関心を抱いていくのです。
しかし、倖世には甲水への罪悪感があります。自分の手で愛した人を殺したという事実を、甲水の亡霊が、囁き続けるのです。
亡霊である甲水と、死者に目を向け続ける静人。その狭間にあった倖世は、驚くべき行動に出ます。
一種のファンタジーのようで、しかしあまりに現実的な甲水と倖世との関係性は、初めて読んだ時に鳥肌が立つ方も多いのではないでしょうか。そんな背景を抱えた彼女は、一体どんな行動に出たのでしょうか。
本作の終盤で特筆すべき見どころは2つ。蒔野の心情の変化と、静人の母・巡子の最期です。
蒔野は、自分を捨てた父が危篤であるという知らせを受けます。しかし、長年積もった恨みが彼を父のもとへと向かわせません。彼は苛立ちから売春をしている中学生を罵倒し、立ち去りました。
その後蒔野は、ひょんなことから父の気持ちを知ることになります。それをきっかけに父に対する思いが変わり始めるのですが、彼は不良グループに襲われてしまいます。実は売春相手の少女は、不良グループのメンバーの彼女だったのです。
大怪我を負わされ、生き埋め寸前の蒔野。絶体絶命の状態で、彼は、近くに少女がいるのを見つけ、驚くべき発言をします。
その時、蒔野は、少女にあることを叫びます。人を信じない男が、自身の死の危険に伝えたのは、ある意外な言葉でした。
蒔野のこの心情の変化は、父への思いと合わせて、ぜひ文章で味わっていただきたいもの。完全に埋められてしまった蒔野の、その後の出来事にも注目です。
- 著者
- 天童 荒太
- 出版日
- 2008-11-30
もう一つの見どころである巡子の死は、蒔野とは対照的に、静かで、荘厳に描かれます。
巡子は末期のがんであり、いつ死んでもおかしくない状態でした。夫や娘とともに自宅療養をしていた彼女ですが、すっかりベッドから動くことができず、最期の時を待つばかりでした。
そんな折、娘の美汐が産気づいてしまいます。自宅で出産することを決心する美汐の産むときの苦しみが、巡子の耳にも聞こえてきます。やがてそれは産声に変わるころ、ある人が訪ねてきて……。
死にゆく巡子と、生まれてくる命。目に浮かぶ夢のような情景に、涙を流す読者も多いのではないでしょうか。孫の産声を聞きながら薄れゆく巡子の意識、その心情を想像しただけで、目頭が熱くなります。作品のすべての要素が集約されたシーンといってもいいでしょう。
そして、最期に巡子が見た景色は、素晴らしいカタルシスを読者に与えてくれるものです。
結末が近づくにつれ、登場人物たちは、死を通して生きることと向き合い始めます。
蒔野は誰かが生きることを願い、巡子は自身の孫の誕生と引き換えかのように、死に近づいていき、静人は他者の死を悼みましたが、この2人は他者の生を願い、喜びます。
『悼む人』で問われているのは、死と生の対立ではなく、生から死へ、そして死から生へと変わっていく事実、その美しさなのではないでしょうか。あなたは本作を読んで、どんなことを感じるでしょうか。
死というテーマを描いた名作。生きることと死ぬこと、何より死んだ後のことを考えてしまう作品です。ぜひ、読んでみてください。