小説家・岡嶋二人(井上夢人と徳山諄一の共同ペンネーム)が1989年に発表したSFミステリー小説。当時、まだ技術として珍しかったバーチャルリアリティを題材とし、現実感あふれる設定でリアルと仮想世界を描ききった名作です。VRなどが普及しつつある現代、本作の結末は、決して他人事ではないかもしれません。 1996年にはTVドラマ化された本作。その魅力をご紹介しましょう。
2016年は「VR元年」と呼ばれています。これは、いくつかのVRヘッドマウントディスプレイが同時多発的に発売され、一般人でも手軽にバーチャルリアリティを体験出来るようになったことに由来しています。
また、2018年にはVRを駆使したバーチャルYouTuberが大流行したことから、市場認知度が急激に上がっていきました。
- 著者
- 岡嶋 二人
- 出版日
- 1993-01-28
これと前後する時期にサブカルチャーにおいてもVR、とりわけVRMMORPG(アバターを介して五感を感じることができるという架空のゲーム)をモチーフとした作品が非常に人気となっています。
ライトノベルでいえば川原礫『ソードアート・オンライン』、橙乃ままれ『ログ・ホライズン』、あるいは押井守の映画『アヴァロン』がそれに分類されるでしょう。
それらの作品を簡単に一言で説明すると、主人公がリアルな仮想世界に入り込み、ゲーム内を探索して目的を果たすというもの。
実はこれとよく似た構成のSF小説が、なんと30年も前に出ていたのでした。それが今回ご紹介する、1989年に発売された『クラインの壺』です。
上杉彰彦(うえすぎ あきひこ)は、普通の大学4年生。シナリオ大賞に応募した『ブレインシンドローム』が、「イプシロン・プロジェクト」なる研究所の目に留まり、そこの監修兼テスターに採用されます。
イプシロン・プロジェクトはVRシステム「K2」を開発しており、体感ゲームとして売り出す際の原作として、彼の作品に注目したのです。
彰彦はもう1人のテスター・高石梨紗(たかいし りさ)とともに、K2のテストプレイをくり返していき、順調にK2の見せるスパイ・アクションをこなしていきました。が、やがてゲーム内で不穏な展開が起き始め、なぜか梨沙が失踪してしまうのです。
彰彦は彼女の友人・真壁七美(まかべ ななみ)と協力し、イプシロン・プロジェクトを調査していくことになるのでした。
主人公の上杉彰彦は就職の決まらない時期に、自身のシナリオがイプシロン・プロジェクトに採用されたことで、ゲーム原作の道に賭けている青年。理知的で、かなり頭が回る男です。
高石梨沙は、デザイン専攻の専門学生。偶然テスターのバイトに選ばれ、ゲームに参加することになりました。美女ということもあり、彰彦が入れ込んでいくことになります。前半のヒロイン。
真壁七美は梨沙の友人で、失踪した梨沙を探しており、彰彦に接触してきました。勝ち気で梨沙よりアクティブな美女です。後半のヒロイン。
イプシロン・プロジェクトは規模の割りに、なぜか少数しか登場しません。送迎も兼任する企画部長の梶谷孝行、技術者のケネス・バトラーと百瀬伸夫、そして社長の笹森貴美子だけです。
物語は彰彦の一人称によって、彼らの動向が語られてきます。
ここで、K2について解説していきましょう。
K2とは「クライン2」の略です。映像は網膜に投射されて、本物同然。筒状の装置にはスポンジ・ラバーが敷き詰められており、それが感覚シミュレートによって皮膚感覚に「仮想世界」を体感させます。また起動すると装置が特殊な液体に入れられるので、ゲーム中のどんな体勢もフィードバックすることが出来るのです。
K2は人間の五感を完全に制御し、仮想世界に没入させられるのでした。
ちなみにクラインとは、位相幾何学で想定される架空の物体「クラインの壺」のこと。裏も表もない「メビウスの帯」というものがありますが、クラインの壺はその立体版です。4次元方向に屈折したクラインの壺には、裏も表もありません。
この表裏がないというのが、後々本編で重要な意味を帯びていきます。
彰彦と梨沙は、当初『ブレイン・シンドローム』をベースとしたK2のスパイ・アクションゲームを、仕事抜きに楽しんでいました。それは『007』か『ミッション:インポッシブル』に登場するようなエージェントとなって、架空の国モキマフに潜入するという内容でした。
その途中で、彰彦は奇妙な体験をします。リアルな仮想世界から弾き出され、「戻れ」という謎の声を聞くのです。その後しばらくして、彼の義兄が事故に遭ったという内容の悪戯電話や、梨沙の失踪など、不可解な出来事が起こり始めました。
彰彦はテスターの傍らで七美とともに梨沙の捜索を始めるのですが、イプシロン・プロジェクトについて次々と不審な点が浮かび上がっていきます。そして明らかになる、プロジェクトの母体があるアメリカのクライン記念病院で5年前に起こった数々の不可解な事件……。
その後2人はついにイプシロンに的を絞り始めるのですが、その段階で奇妙なすれ違いが発生し始めるのです。待ち合わせで同じ場所にいるのに会えなかったり、持っていたはずのものがなくなったり……。
彰彦はK2の仮想世界で、ゲームだけではなく偽の現実を見せられて、思い込みを植えつけられている可能性を考え始めるのです。
本作は1996年に、全10話でドラマ化されたことがあります。
本筋はほぼ同じですが、主人公は高校生ゲーマーで、腕前を見込まれたという設定に改変されています。梨沙は彰彦の家庭教師で、七美の活躍が原作より強調されて、ヒロインらしくされていました。
脚本は、事実上の原作者である井上夢人が書いているので、設定が整理されてわかりやすく、もう1つの本編として楽しむことが出来ます。特にラストの悲痛な感覚が、原作よりも濃密に表現されているのが特徴です。
こちらもおすすめしたいのですが、残念なことにDVD、BD化されておらず視聴が困難。もし機会があれば、ぜひご覧ください。
「はじめのところから始めて、終わりにきたらやめればいいのよ」
(『クラインの壺』より引用)
- 著者
- 岡嶋 二人
- 出版日
- 1993-01-28
彰彦は、七美のつてで入手したアメリカの情報からイプシロンが元凶であると断定し、研究所へ極秘で侵入を試みます。
遠隔地にあると思われた研究所。しかし、実際は寂れた事務所の地下に存在しました。スパイ映画さながらに忍び込んだ彼は、極秘のファイルの中から、ついに梨沙の記録を発見します。
そこにあったのは、彼女の死体を写した写真でした。悲しい現実が突きつけられます。そして真相を掴んだのも束の間、なんと七美がイプシロン側に拘束されてしまうのです。そして、彰彦は……。
VRなどが普及しつつある現代。この結末は、もしかしたら他人事ではないかもしれません。そう思いながら読むと、なんともいえないおそろしさを感じることでしょう。
意表を突く仕掛けと、予想外の結末。何が本当か考察すればするほど、思考の迷路に迷い込んでしまうラストです。それこそ、出口のないクラインの壺に入ったように。
いかがでしたか?『クラインの壺』は流行りのVR小説とはいささか毛色が異なりますし、日常描写に古めかしさはあるものの、ストーリーは30年前の作品とは思えないほどの完成度です。この機会にぜひ1度ご覧ください。