幕末の日本が混乱している時期に起こった「蛤御門の変」。京都では、戦争というと太平洋戦争ではなく、この戦いをあげる人もいるというほどの大規模なものだったそうです。この記事では、背景となった「八月十八日の政変」や「池田屋事件」、参戦した有名人、戦いの結果などをわかりやすく解説していきます。あわせてもっと理解の深まるおすすめの本も紹介するので、ぜひご覧ください。
1864年7月19日に京都御所の周辺で、薩摩藩と会津藩を中心とする幕府軍と、長州藩が衝突した事件を「蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)」といいます。
蛤御門は京都御苑に実在する門のひとつ。普段は閉じられているものでしたが、1788年に発生した「天明の大火」の際に解放されたため、火に炙られて開く蛤になぞらえてこう呼ばれるようになりました。現存していて、「蛤御門の変」でついた銃痕も残っています。
またこの変は別名「禁門の変」、もしくは当時の元号になぞらえて「元治の変」ともいいます。
畿内における大規模な戦いは、1615年に起きた「大坂夏の陣」以来約250年ぶりのこと。「蛤御門の変」で、京都では約3万戸が焼失し、負傷者700人以上、死者340人以上と大きな被害を出しました。
町が次々と焼けていく様子は「どんどん焼け」と呼ばれ、京都で「戦争」といえば「蛤御門の変」を指すといわれる規模だったそう。
後に薩長同盟を結んで幕府を倒すことになる薩摩藩と長州藩が敵と味方に分かれ、また後に死闘をくり広げる会津藩と薩摩藩がともに戦うなど、幕末期の混沌とした情勢を如実に表している事件だともいえるでしょう。
蛤御門の変が起きた背景には、「八月十八日の政変」と「池田屋事件」があります。
まず「八月十八日の政変」です。
1858年、江戸幕府がアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスらの欧米列強と相次いで不平等条約を締結したことで、日本国内は、「破約攘夷派」「開国派」「公武合体派」「勤皇派」「幕政改革派」「佐幕派」「尊王攘夷派」など、さまざまな意見が錯綜する混乱した状態でした。
そんななか、1863年に朝廷の実権を握る三条実美(さんじょうさねとみ)ら破約攘夷派の公家と長州藩が、詔という形で攘夷を天下に宣言する「大和行幸」を計画します。しかし佐幕派だった中川宮朝彦親王、会津藩、幕政改革派の薩摩藩が武力で阻止し、京都から追放しました。これを「八月十八日の政変」といいます。
その後長州藩や破約攘夷派が失脚し、朝廷では公武合体派が主流となります。しかし勢力の挽回を目指す尊王攘夷派が暗躍し、暗殺やテロが横行。京都の治安は悪化していきました。
そこで、京都守護職を務める会津藩が、市中の治安維持のために用いたのが新撰組です。
1864年7月8日。長州藩や土佐藩などの尊王攘夷派志士たちは、京都三条木屋町の旅館「池田屋」に潜伏し、祇園祭の前に御所に火を放って混乱させ、隙をみて一橋慶喜や松平容保を暗殺、孝明天皇を誘拐しようと企んでいました。その情報を仕入れた新撰組が彼らを逮捕するために突入したのが「池田屋事件」です。
この事件によって、長州藩内部の真木和泉や来島又兵衛ら強硬派が激高。慎重派が沈静に努めたものの、強硬派に引っ張られる形で挙兵。会津や薩摩から京都の実権を取り戻そうと御所に兵を進めたのが「蛤御門の変」の背景です。
幕末期を代表する有名人が多数参加した「蛤御門の変」。長州藩には、後に維新三傑に数えられる桂小五郎、遊撃隊隊長の来島又兵衛(きじままたべえ)、吉田松陰の弟子として知られる久坂玄瑞(くさかげんずい)と入江九一(いりえくいち)らが参戦しました。
結果的に桂小五郎は九死に一生を得たものの、来島又兵衛は狙撃されて負傷した後に自決、久坂玄瑞は鷹司邸で自害、入江九一は槍で顔面を突かれて死亡しています。
「蛤御門の変」で長州藩は多くの逸材を失いましたが、特に「長州一の俊才」「松下村塾の双璧」といわれた久坂玄瑞を失ったことは大きな損失でした。久坂は、吉田松陰の妹である文を妻にめとり、長州藩における尊王攘夷派の中心的人物のひとりとされていたからです。
一方で幕府側の薩摩藩では、後に維新三傑に数えられる西郷隆盛が、薩摩藩の軍司令官として初陣を果たしています。西郷率いる薩摩藩は乾御門で長州勢を撃退し、各地に救援の部隊を派遣するなど、幕府側の勝利に大きく貢献しました。
また会津藩の指揮下にあった新撰組も近藤勇以下約200人が出動し、伏見街道の警備にあたっています。長州藩側の主戦派として参戦していた真木和泉が天王山に立てこもると、新撰組はこれを追撃。追い詰められた真木は仲間とともに爆死しています。
長州藩が撃ち込んだ砲弾が御所内に着弾し、当時まだ幼かった明治天皇が驚いて失神したという逸話も残っている「蛤御門の変」。
このように御所に向けて発砲したことや、長州藩の藩主である毛利敬親・元徳父子が指揮官に与えた軍令状が発見されたこともあり、事件が起きた4日後の7月23日に毛利敬親に対する追討令が出され、長州藩は「朝敵」となりました。
幕府は、「長州征伐」を宣言。さらに長州藩は、前年の1863年に起こった「下関戦争」の報復として、アメリカ・フランス・イギリス・オランダの連合艦隊からの攻撃も受け、滅亡の危機に陥るのです。
長州藩士はこのような状況を薩摩藩や会津藩によるものだと考え、履き物の裏に「薩賊会奸」と書いて踏みながら歩いたほど、薩摩や会津を憎みました。
しかし「第一次長州征伐」の後、坂本龍馬仲介のもと、長州藩はそれまで憎んでいた薩摩藩と手を結んで幕府と会津藩との戦いに勝利し、明治維新を果たしていくこととなるのです。
- 著者
- 三木 敏正
- 出版日
- 2015-11-20
幕末は、敵と味方が途中で入れ替わったり、志士と呼ばれる人たちの主義主張が一夜にして変わったり、テロを起こす側が正義、取り締まる側が悪と伝えられたりと、複雑な様相を呈する時代です。
そんななか、大きなターニングポイントとなる「蛤御門の変」。本書は、各部隊の編制や指揮官、メンバーなどを含め、戦いの経過を時系列で追うことができる作品です。
前哨戦となる「伏見深草一本松の戦い」についても解説しているので、当時の状況を広い視点で理解することができるでしょう。
- 著者
- 古川 薫
- 出版日
- 2014-09-02
幕末は、何事もなければ歴史に名を残さなかったであろう多くの若者が志に燃え、命をかけ、己の血で歴史に名を刻んだ時代だともいえます。
先述した久坂玄瑞もそのひとり。藩医の息子として生まれ、松下村塾で学び、吉田松陰の妹を妻とし、高杉晋作をライバルとしながらも、激動の時代のなかであまりにも若くして散っていきました。「蛤御門の変」にて命を落としますが、彼自身は最後まで挙兵について反対していたそうです。
本書では、そんな久坂玄瑞を主役に据え、激烈な生涯を鮮やかに描いた小説です。多くの資料や参考文献を元に書かれているので、読みごたえは十分。おすすめの一冊です。