5分でわかる「三十年戦争」経緯や勝敗など概要を解説!おすすめ本も紹介

更新:2019.3.11 作成:2019.3.11

小規模な反乱からヨーロッパ全土を覆う国際戦争へ発展し、最後にして最大の宗教戦争といわれる「三十年戦争」。この記事では戦争の経緯や勝敗などの概要をわかりやすく解説します。あわせておすすめの関連本も紹介するので、ぜひご覧ください。

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「三十年戦争」とは?戦地や死者数、勝敗など概要を簡単に解説

 

時は1618年、現在のチェコ西部であるボヘミアを支配していたカトリック勢力に対し、プロテスタントが企図した反乱によって「三十年戦争」が勃発しました。当初は局所的な反乱だったものの、勢力拡大や覇権抗争が絡みあって、ヨーロッパ諸国が参戦する国際戦争へと発展していきます。

1648年に、神聖ローマ帝国などカトリック勢力を抑え、スウェーデン・フランスが勝利。ウェストファリア条約の締結で戦争が終息するまでの30年間、長期にわたって現在のドイツが主戦場となりました。宗教改革によるプロテスタントとカトリックとの争いがきっかけとなっているため、「最後にして最大の宗教戦争」とも呼ばれています。

プロテスタント側に加わったのは、スウェーデン・バルト帝国、フランス王国、イングランド王国、ネーデルラント連邦共和国、そして新教を信仰していたドイツ選帝侯たちです。そのほかトランシルヴァニア公国やオスマン帝国なども参戦しました。

一方のカトリック側には、神聖ローマ帝国、カトリック連盟、オーストリア大公国、スペイン帝国、クロアチア王国などが加わっています。

戦争後期には、カトリックの国であるはずのフランスがプロテスタント側につくなど、宗教とは関係ない権力争いへと発展していきました。ヨーロッパでの覇権を巡って、フランスのブルボン家、スペイン・オーストリア両ハプスブルグ家が激しく火花を散らしたため、「三十年戦争がその後のヨーロッパを変えた」といわれているほどです。

いずれの陣営でも、主力を担っていたのは金銭で雇われた傭兵。国民軍は編制されませんでした。そのためか略奪行為が頻発するなど規律は緩慢だったようで、「三十年戦争」の期間を通じて主な戦場となったドイツの人口は1600万人から600万人ほどにまで減少したといわれています。死者数に関しては諸説あるものの、おおむね400万人程度が亡くなったそうです。

「三十年戦争」の経緯を解説。宗教対立から国際戦争へ

 

16世紀に始まった宗教改革が「三十年戦争」のきっかけです。伝統的な権威主義を貫くカトリックに対し、教皇の権威から解放され信仰を重要視する福音主義のプロテスタントが勃興。両者はヨーロッパ全土で激しい対立を重ねていました。

最初の反乱が起こったボヘミアは、プロテスタントの勢力が強い地域です。そのため熱心なカトリック教徒だったボヘミア王フェルディナントは、プロテスタントの弾圧に積極的でした。そんななか、事件が発生します。

1618年5月23日、弾圧に反発するプロテスタントの貴族が、皇帝代官のマルティニツやスラヴァタなど5名をプラハの王宮の窓から突き落とす「プラハ窓外投擲事件」が発生したのです。これによって両派は決裂し、「三十年戦争」が始まりました。

この宗教対立に加え、「三十年戦争」には「神聖ローマ帝国と各領邦の君主間の対立」や「ハプスブルク家とブルボン家によるヨーロッパの覇権を巡る対立」などが複雑に絡んでいます。そのため争いは神聖ローマ帝国のうちに収まらなくなり、長期化する結果となりました。

「三十年戦争」は大きく4つの段階に分類することができるとされています。

第1段階にあたるのは「ボヘミア・プファルツ戦争」。ボヘミア国王から神聖ローマ皇帝に即位したフェルディナント2世は、プロテスタントの反乱鎮圧のために軍を派遣します。その時の指揮官が「甲冑を纏った修道士」との異名をもつティリー伯ヨハン・セルクラエスです。

皇帝軍は1620年11月8日、プラハ近郊でおこなわれた「白山の戦い」で反乱軍を撃破。皇帝軍側にはスペイン軍やカトリック連盟軍も加わり、反乱軍はびこるボヘミア王国を1622年までに鎮圧します。反乱勢力は処刑され、ボヘミアはハプスブルク家の属領とされました。

第2段階の「デンマーク戦争」では参戦勢力が増えます。デンマーク王クリスチャン4世は北ドイツへの勢力拡大、バルト海および北海における覇権確立を狙っていました。荒れるボヘミア情勢に目をつけたデンマークは、プロテスタントの擁護を名目に戦争への介入を決めます。

これに対し、皇帝フェルディナント2世はティリー伯率いるカトリック連盟軍に加え、アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインを皇帝軍総司令官に任命し脇を固めます。「デッサウの戦い」や「ルッターの戦い」ではデンマーク軍に勝利し、1629年のリューベックの和約の締結で第2段階は終息しました。

第3段階の「スウェーデン戦争」では、さらに参戦国が増えます。スウェーデン王グスタフ=アドルフがフランスと同盟を結んで参戦。1631年9月には、「ブライテンフェルトの戦い」で皇帝軍に圧勝します。1632年の「レヒ川の戦い」でも勝利。しかしこの戦いで、皇帝軍の総司令官だったティリー伯は戦死してしまいました。

これに対抗して皇帝軍は引退していたヴァレンシュタインを復帰させ、11月にはリュッツェンで両軍が激突。戦闘自体はスウェーデン軍の勝利に終わったものの、この戦いで国王グスタフ=アドルフが戦死してしまいます。グスタフ=アドルフ亡き後、スウェーデン女王となったのは当時6歳の王女クリスティーナでした。

第4段階「フランス・スウェーデン戦争」は、幼い女王のもと、国の実権を掌握した宰相オクセンシェルナの手腕によって迎えられました。オクセンシェルナが主導して南ドイツ諸侯との間で結んだハイルブロン同盟では、カトリックの国であるにもかかわらず、プロテスタント諸侯への影響力維持を狙うフランスが加わっています。

スウェーデンは皇帝軍に対し、フランスはスペインに対して勝利を重ね、「三十年戦争」の勝利者となりました。そして、1648年10月24日にウェストファリア条約が締結され、宗教対立から国際戦争へと発展した「三十年戦争」は終息したのです。

「三十年戦争」で活躍したスウェーデン王「グスタフ=アドルフ」とは?

 

ヴァーサ朝の第6代国王であるスウェーデン王、グスタフ=アドルフは、「三十年戦争」における主要人物のひとりです。「バルト帝国時代」といわれるスウェーデン王国の最盛期を築いた王とされ、「北方の獅子」とも呼ばれていました。

グスタフ=アドルフは幼い時からプロテスタントの高い教育を受けていました。特に語学に秀でており、ラテン語・ドイツ語・オランダ語・フランス語・イタリア語を自在に話せたうえ、スペイン語・英語・スコットランド語・ポーランド語・ロシア語を理解することができたそうです。

17歳で即位し、対外戦争を続ける一方で、司法や行政制度の整備、商工業の発展、教育の振興に努め、近代的な武器工場を設けました。

スウェーデン軍の強さの源となったのが、従来の軍装備や編成、戦術を一新した点です。銃火器の登場によってオ、ランダで起こった軍事革命をいち早く取り入れて改革をしたことで、「三十年戦争」では旧態依然とした戦法を使い続ける皇帝軍を打ち破ることができました。

またグスタフ=アドルフが「リュッツェンの戦い」で戦死した後、スウェーデンの勢いは陰り、「三十年戦争」における主導権も失っていきます。

後世、ナポレオン・ボナパルトはグスタフ=アドルフを、アレクサンドロス大王やユリウス・カエサルと並ぶ歴史上の7人の英雄の1人として称えています。スウェーデンの盛衰は、彼の存在がヨーロッパに与えた衝撃の大きさを物語っているといえるでしょう。

「三十年戦争」の影響は?「ウェストファリア条約」で主権国家体制が確立

 

ウェストファリア条約は、2つの条約から構成されています。ひとつはカトリックを率いた神聖ローマ帝国と、プロテスタントの主力を担ったスウェーデンとの間で結ばれた「オスナブリュック講和条約」。もうひとつは神聖ローマ帝国とフランスとの間で結ばれた「ミュンスター講和条約」です。

講和会議には「三十年戦争」に参戦しなかった国も含め、ヨーロッパのほとんどの国が参加しました。使節の総数は帝国外37、帝国内112と150近くにおよびましたが、その大半は帝国内部の領主、有力な聖職者、都市からなる帝国等族です。会議に参加しなかったのは、清教徒革命の内戦下にあったイングランドと、宗派・宗教を異にするロシア、オスマン帝国だけでした。

ウェストファリア条約によって、帝国議会や裁判所におけるカトリックとプロテスタントの同権が定められます。またフランスはアルザス=ロレーヌへと勢力を拡大し、スウェーデンは帝国議会への参加権の獲得に成功。さらにスイスやオランダは独立が承認され、ドイツでは領邦主権の確立によって、領邦君主のもとでの連合体という体制が固まりました。

ウェストファリア条約は「帝国の死亡証明書」と呼ばれ、元々「帝国」としての立ち位置が不安定だった神聖ローマ帝国が明確に統一性を失う契機になったといわれています。

ウェストファリア条約の締結以降、教皇や皇帝といった超国家的な権力がヨーロッパを統治するという試みは断念され、いくつもの主権国家が合従連衡をくり返し、勢力均衡を図ろうとする国際秩序の形成につながりました。

これを「ウェストファーレン体制」といい、1803年のナポレオン戦争にいたるまで、ヨーロッパの国際秩序を担うこととなります。

詳細な人物描写!「不朽の名著」といわれる一冊

 

本書の原著出版年は1930年代ですが、いまだにその記述の鮮明さは色褪せず、多くの研究者からも「三十年戦争」に関する不朽の名著とされている作品です。

宗教戦争に端を発し、ヨーロッパ全土を巻き込む国際戦争となった「三十年戦争」。その戦場となったドイツは、人口が3分の1にまで減少してしまうほど荒廃していました。

一方の日本では、「悲惨な戦争」程度の認識しかされておらず、その実態については不明な点が多くありました。

著者
C.ヴェロニカ ウェッジウッド
出版日
2003-11-01

 

本書では、そんな「三十年戦争」に登場する多くの人物について、性格や人間性が滲み出てくるほど詳細に記しています。

600ページを超える大書ですが、流麗な文章のおかげですらすらと読むことができるのも特徴のひとつ。似た名前が多く出てきて混乱した際には、巻末にある人名録が重宝します。

読破する価値が十分にある一冊、おすすめです。

「三十年戦争」の全体像を知る!ウェストファリア条約の決定版

 

世界史の授業で必ず習う「三十年戦争」とウェストファリア条約ですが、その全体像や、近世・近代のヨーロッパに与えた影響などは複雑すぎて、授業だけでは理解できなかったという方も多いのではないでしょうか?

本書では、ウェストファリア条約の条文ひとつひとつを細かく読み解き、それらが現実社会にどのように適応されていったのかをわかりやすく記しています。その後のヨーロッパ社会に与えた影響について、まるでパズルを解くかのように理解することができるでしょう。

著者
伊藤 宏二
出版日
2006-01-01

 

巻末では、「三十年戦争」に関わった主要国のひとつであるスウェーデンに関する条項を中心に、条約内容が丁寧に整理されています。同じプロテスタント側で戦ったフランスとの関連性なども手に取るようにわかるよう工夫が施されており、「三十年戦争」を俯瞰して知りたい方も満足できる内容です。

ウェストファリア条約の全体像を理解したいという方には、ぜひ読んでいただきたい一冊です。

銃火器の登場がもたらした軍事革命により、それ以前とは大きく戦争の様相が変わったといわれる「三十年戦争」。単なる宗教戦争にとどまらず、小さな火種がさまざまな人の思惑という燃料によって大きく燃えあがり、目を覆いたくなるような惨事を招く様子が伺えます。現代を生きる我々にとっても学ぶべきことが多い戦争ではないでしょうか。この記事を通じて、少しでも「三十年戦争」に興味をもっていただけたら幸いです。