秘密結社による排外運動が、日本を含む欧米列強との国家間戦争に発展した「義和団事件」。この記事ではその概要や背景、事件が与えた影響などをわかりやすく解説します。あわせてもっと理解が深まるおすすめの関連本も紹介するので、ぜひチェックしてみてください。
1900年、清時代末期の中国、秘密結社の「義和団」は、排外運動をおこなっていました。6月21日、西太后が彼らの反乱を支持して、日本やロシア、欧米諸国に宣戦布告したことで、国家間の戦争へと発展していきます。この一連の動乱を「義和団事件」、もしくは「義和団の乱」「北清事変」などと呼びます。
8ヶ国連合軍(日本、ロシア、イギリス、フランス、アメリカ、ドイツ、イタリア、オーストリア=ハンガリー)の戦力約7万に対し、清国は20万人以上の兵士を有していましたが、開戦からわずか2ヶ月で北京を制圧されてしまいました。
「義和団事件」による犠牲者数は、日本軍の計算によると死者757人、負傷者2600人以上とされ、連合国のなかでもっとも多くの死傷者が出たのは日本でした。また清朝や義和団によって殺害された人々は、教会関係者が241人、中国人キリスト教信者23000人にのぼるといわれています。
事件の結果、清朝は、莫大な賠償金の支払いを余儀なくされました。また西太后は排外姿勢をあらため、当時70歳近い高齢であったにもかかわらず英語を学び始めるなど、西洋文化を取り入れる方向に舵を切ります。
この方針は「光緒新政(こうしょしんせい)」と呼ばれ、立憲君主制への移行、軍の近代化、経済振興、科挙廃止を含む教育改革を目標とするもの。かつて西太后が反対したために実現しなかった「戊戌変法(ぼじゅつへんぽう)」とほとんど同じ内容だそうです。
「義和団事件」が起きた背景のひとつに、清朝におけるキリスト教の信者数の増大が挙げられます。もともとキリスト教は古くから中国に伝来していたものの、信者の数は問題になるほど多くありませんでした。
この状況を大きく変えたのが、1856年から1860年に起こった「アロー号戦争」の結果締結された、「天津条約」です。それまで条約港にのみ認められていたキリスト教の布教活動が、内陸部でも許されることになりました。
以降、多くの宣教師たちが内陸へと進出し、布教活動に従事します。飢饉などによって行き場を無くした民衆に慈善事業をするなどし、キリスト教を広めていきました。
その一方で彼らは、戦勝国としての傲慢さをもった態度もとったため、地域の官僚などとたびたび衝突を起こすようになります。信者と一般民衆の土地境界線争いなどに介入する事案なども発生し、キリスト教徒と一般民衆の確執による事件が多発するようになりました。これらを「仇教事件」といいます。
条約によって守られている宣教師やキリスト教信者たちの立場は強く、「仇教事件」の裁定はキリスト教側に有利なものになることがほとんど。やがて一般民衆の間にキリスト教や西欧に対する反感が高まっていき、その反動として官僚たちへの失望感を増大させることとなりました。
そんななか義和団は、仇教事件が頻発していた山東省で発生します。起源をはっきりと特定することはできませんが、地方官公認の自警団や民間の自警団、もしくは白蓮教の拳法に由来するという説があります。
彼らは孫悟空や諸葛亮、趙雲などを神として崇拝し、呪術によって神が乗り移った者は、刀や銃弾をも跳ね返す不死身になれると考えていました。
やがて山東省から直隷省へと進出し、難民を吸収して勢力を拡大。外国人や中国人キリスト教信者、貿易品を扱う商店、鉄道や電線など西欧文明の利器にいたるまで、さまざまなものを攻撃対象として暴れまわります。
その際に義和団が掲げていたスローガンが、「清をたすけて洋を滅ぼす」という意味の「扶清滅洋(ふしんめつよう)」や、「清を興して洋を滅ぼす」という意味の「興清滅洋」です。このように、清朝側に立ったスローガンを用いていたことが、鎮圧が徹底したものにならなかった要因だといわれています。
事件の結果、中国国内では西太后による「光緒新政」が始まったことに加え、「総理衙門の廃止・外務部の創設」、「袁世凱の台頭」、事件の事後処理である北京議定書による「半植民地化」、「清朝への不信増大」などさまざまな影響を受けることとなります。順番に見ていきましょう。
まず「総理衙門の廃止・外務部の創設」は、特に列強の強い意向によって実現したものです。
彼らは「アロー号戦争」以降、清朝の外交を担ってきた総理衙門の政府内における地位が低くなっていることを問題視していました。そのため、清朝がより外交を重視するよう、外務部を創設することを求めたのです。
次に「袁世凱の台頭」です。「義和団事件」によって直隷総督の指揮下にあった軍隊は敗れましたが、戦いに加わらなかった袁世凱が率いる軍隊は無傷でした。清朝内部において強大な軍事力を有したこと、そして同時期に李鴻章や栄禄などライバルである実力者たちが相次いで亡くなったこともあり、袁世凱の政治的影響力が高まることになったのです。後に彼は直隷総督となり、辛亥革命後は中華民国大総統、中華帝国皇帝と出世をしていきます。
次に「半植民地化」です。「義和団事件」後の1901年9月、清朝と列強国の間で「北京議定書」が調印されます。北京や天津に外国軍の駐留を認めることになり、巨額の賠償金の支払いを課され、担保として海関税や常関税、塩税が差し押さえられました。もはや独立国としての体裁を失ってしまったのです。
最後に「義和団事件」の影響としてもっとも大きなものと考えられている 「清朝への不信増大」です。
列強国に宣戦布告をしながら北京が陥落するとあっさりと義和団を切り捨てた西太后の姿勢や、賠償金を支払うために重い負担を強いたことなどから、民衆の不平不満は列強国ではなく清朝に向けられるようになりました。
「義和団事件」は後の清朝滅亡への大きな伏線になった事件だったのです。
中国国内だけでなく、海外にも大きな影響をおよぼした「義和団事件」。
義和団を鎮圧するために各国が出兵するなか、日本とロシアが対立をしていきます。ロシアが満州を占領したことは、朝鮮半島における日本の権益が脅かされるという懸念を抱かせるのに十分なものでした。1904年から始まる「日露戦争」へと繋がっていくことになります。
一方で日本が抱いた懸念は、中国における自国の権益を守りたいイギリスにも共有されていきます。「義和団事件」を通じて秩序ある行動が称賛されていた日本に対し、期待をするようになっていくのです。それまでの「光栄ある孤立」という外交方針を撤廃し、1902年に「日英同盟」を締結しました。
また「義和団事件」の原因ともいえる宣教師たちは、この事件を通じて従来の態度をあらため、これまで積極的に介入してきた裁判についても関与を自粛するようになります。その結果、「仇教事件」は減少していきました。
- 著者
- 松岡 圭祐
- 出版日
- 2017-04-14
砂塵が舞う北京に迫りくる暴徒、義和団。清国は反乱を鎮圧するどころか、尻馬に乗って列強に対し宣戦布告してしまいます。緊迫した状況が続くなか、北京に公使館を置いていた列強11ヶ国の駐在武官たちは、戦いを余儀なくされるのです。足並みが揃わない彼らを指揮することになったのは、着任して間もない柴五郎中佐でした。
本書はそんな柴五郎中佐と、彼のもとで60日間におよぶ籠城戦を戦い抜いた桜井伍長の緊迫の日々を描いた歴史小説です。
柴五郎中佐は、その勇敢さと礼儀正しさが称賛され、欧米各国から勲章を授けられた実在する人物。「日英同盟」締結の影の立役者ともいわれています。
上下巻とボリュームはありますが、読みやすい文体でどんどんページをめくることができます。列強のなかで認められた日本人の活躍を知れる一冊です。
- 著者
- 石光 真清
- 出版日
- 2017-12-22
明治時代の日本では、多くのスパイが活躍していたそう。本書は、そのうちのひとり石光真清が残した手記をまとめたシリーズの2作目です。
「義和団事件」の際に、一挙に満州を占領したロシア。石光は身分を偽ってハルビンで写真館を経営しながら、ロシアの軍事状況を調べていたそうです。「義和団事件」と同年に起こった、ロシアが中国人を虐殺した「黒竜江事件」も現地で目撃しています。
異国の地で石光がどのような生活を送り、何を思っていたのか、多数の写真とともに振り返る一冊です。