5分でわかる「大正デモクラシー」背景や民本主義、問題点などを解説!

更新:2021.11.18

戦後の民主主義に大きな影響を与えたとされる「大正デモクラシー」。この記事では、概要や当時の社会的背景、思想の基盤となった「民本主義」、問題点などをわかりやすく解説していきます。あわせて、学習の助けになるおすすめの関連本も紹介するので、ぜひチェックしてみてください。

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大正デモクラシーとは。意味やいつ起こったのかなど、概要を解説

大正時代の1910年代から1920年代にかけて、日本で流行した政治や社会、文化的な風潮を指す言葉を「大正デモクラシー」といいます。

「デモクラシー」は古代ギリシャ語で「民衆」を意味する「デーモス」と、「権力」を意味する「クラトス」を掛けあわせた言葉。現在では「民主主義」や「国民主権」などと訳されます。ジャーナリストの茅原崋山が「民本主義」と訳し、この概念を日本で初めて紹介しました。

また当時「デモクラシー」という言葉が流行していて、政治学者かつ歴史学者だった信夫清三郎が1954年に著した『大正デモクラシー史』で言及したことにより、定着しました。

さらに、政治学者であり思想家でもあった吉野作造が、1914年から1916年にかけて雑誌上に発表した論文によって、さまざまな社会運動に影響を及ぼしていくこととなります。

普通選挙制度を求める運動や、言論・結社・集会などの自由を求める運動、海外派兵の停止を求める運動、男女平等を求める運動、部落差別解放を求める運動、自由な教育を求める運動などが挙げられます。

期間をいつからいつまでとするか、あるいは何をもって「大正デモクラシー」とするのかなどの定義は諸説あり、定まってはいません。広義には、1905年の「日比谷焼き討ち事件」に代表される第2次桂太郎内閣倒閣運動から、1931年の「満州事変勃発」頃までとされています。

大正デモクラシーが起きた背景は?当時の社会情勢

1904年から1905年にかけておこなわれた「日露戦争」。多くの戦死者が出たうえ、莫大な戦費を賄うための重税に人々は苦しみました。しかも、日本は戦争には勝利したものの、「ポーツマス講和会議」の結果、賠償金を受け取ることができなかったのです。これが国民の不満に火をつけることとなります。

激高した人々は日比谷に集まり、内務大臣の官邸や、講和賛成を唱えていた国民新聞社を焼き討ちするという暴挙に出たのです。さらに、彼らを阻止しようとした警察や軍隊と衝突しました。これを「日比谷焼き討ち事件」といいます。

この事件をきっかけに、民本主義、自由主義的な運動が広がっていくこととなり、大正デモクラシーの流れが生まれるのです。

その後1917年に、米の価格の急騰によって富山県を中心に始まった「米騒動」が全国に広がると寺内内閣は総辞職し、「平民宰相」と呼ばれた原敬が首相になります。従来の明治維新の立役者である薩長を中心とする藩閥政治に代わる、日本初の政党内閣の登場となりました。

大正デモクラシーを支えた「民本主義」とは

「デモクラシー」の訳として、茅原崋山や吉野作造が唱えた「民本主義」。大正デモクラシーを支えた思想です。

現代は「民主主義」や「国民主権」という言葉が用いられますが、茅原も吉野も「主」という言葉を避けています。その理由としては、大日本帝国憲法において、日本の主権は天皇にあるとされてされていたことが挙げられるでしょう。

吉野は自身の論文「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」で、民本主義とは「国家の主権の活動の基本的目標は政治上人民にあるべし」と説いています。つまり、主権が天皇にあるのか、それとも人民にあるのかを問うことなく、主権者は一般人民の幸福を目的とするべきだと主張しているのです。

この考え方であれば、天皇に主権があることと矛盾しません。同時代に起こった「辛亥革命」や「ロシア革命」「ドイツ革命」のように君主を打倒することなく、人民を中心とする政治を実現することが可能になります。

そのため民本主義は、大正デモクラシーの思想的支柱となっていったのです。

大正デモクラシーは失敗した?問題点は

1925年、「普通選挙法」が成立しました。満25歳以上のすべての成人男子に選挙権が与えられ、日本は国民国家としての基盤を整えることに成功したのです。これによって、国政を動かすには国民の同意が必要になる体制が構築されました。

これは、大正デモクラシーの成功例であると同時に、問題点でもあったのです。

たとえば「日比谷焼き討ち事件」が起こり、国民が政府に反対をしたとしても、政府は日露戦争の講和を結ぶことができました。しかし大正デモクラシーの結果、政府が国民の意思に反する行動をとりづらくなったため、国民が排外主義、または海外拡張論に傾く動きを抑えることができなくなったのです。

結果的に、1931年に「満州事変」が起こり、日本は対外戦争の泥沼へと向かっていくこととなりました。「大正デモクラシーは戦争を止められなかった」とする研究家がいる一方で、「むしろ大正デモクラシーこそが国を戦争へと駆り立てた」とする主張もあります。体制への抵抗運動として始まった動きが、国家総動員体制へ繋がったと考えることもできるでしょう。

大正時代の日本をわかりやすくまとめた一冊

著者
成田 龍一
出版日
2007-04-20

日本の近現代史をわかりやすくまとている「日本近現代史」シリーズの第4巻。日露戦争後の1905年から、満州事変が起こる1931年までを扱っています。 まさに大正デモクラシーの時代で、それまでの薩長による藩閥政治を打破し、政党政治が実現し、多彩な社会運動が展開されていきました。

また国際的に見ても、「辛亥革命」や「ロシア革命」「ドイツ革命」、そして「第一次世界大戦」と、それまでの世界の枠組みが大きく変わる激動の時代に当たります。

そんななか、アジアの辺境にある一小国に過ぎなかった日本は、国際連盟の常任理事国となり、世界を動かす大国の仲間入りをしていきました。

普通選挙を実現した一方で、高まる大国意識のなか国民を戦争へと駆り立てていった大正デモクラシー。本書を読むと、その功罪がよくわかるでしょう。

大正デモクラシーを漫画で読む

著者
出版日
2015-06-30

歴史を学ぶ際は、ただ単語や年号を暗記するのではなく、時代の大きな流れを掴むことも重要です。本書は漫画で大正時代が描かれていて、物語として当時の動きを読むことができます。

主な登場人物の相関関係が図としてまとめられていたり、重要な言葉にはその都度注釈がついていたりするので、事前知識はまったく必要ありません。すべての漢字にふりがながふってあるのもポイント。

大正デモクラシーとはいったいどんな時代だったのか、まずは気軽に本書を読んで把握してみましょう。歴史の勉強に苦手意識がある方にこそ、手にとっていただきたい一冊です。

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