核兵器の開発疑惑や中東戦争の介入など、やや物騒なイメージがあるイラン。この記事では、現在のイランが生まれるきっかけとなった「イラン革命」の原因やその後の影響、アメリカとの関係の変化などをわかりやすく解説していきます。
1978年1月から始まった「イラン革命」。これによってパフラヴィー国王の独裁体制下にあったイランの「王政」が廃止され、「イスラム共和制」が樹立されました。単なる独裁政権の打倒ではなく、イスラムの教えに基づいた国づくりが目指されたことから、「イスラム革命」とも呼ばれています。
革命の指導者となったのは、イスラム教十二イマーム派の最高指導者ルーホッラー・ホメイニと、彼を中心とするイスラム法学者たちです。
日本の報道では「パーレビ国王」と呼ばれていた、国王のモハンマド・レザー・シャーは国外追放され、フランスのパリに亡命しました。
「イラン革命」には3つの大きな特徴があります。まず1つ目が、「民衆革命」であること。2つ目が米ソ冷戦の最中にありながら、アメリカとソ連のいずれにも依存しない「中立」を堅持したこと。そして3つ目が、イランの伝統宗教である「イスラム教」への回帰を目指したことです。革命後は法学者が政治を統治し、イスラム法が絶対的なものとされました。
議会は選挙で選ばれるものの、最高指導者は行政・司法・立法の上に立つ存在とされ、軍の最高司令官を兼任します。任期はなく、終身制。2019年現在は、アリー・ハメネイが第2代最高指導者を務めています。
18世紀以降、現在のイランの地を治めてきたガーシャール朝ペルシャが、ロシアやイギリスによる干渉を受け弱体化していくなかで、1921年に軍人だったレザー・ハーンがクーデターを起こし、1925年に皇帝に即位。パフラヴィー朝が成立しました。
1941年には、レザー・ハーンの息子のモハンマド・レザー・シャーが第2代国王に即位。アメリカからの援助を受けつつ、イランの近代化や西欧化を目指す「白色革命」を推進します。
その内容は、農地改革や森林の国有化、工業化、国営企業の民営化、労働者の待遇改善、女性参政権、教育の向上、識字率の向上など多岐にわたり、西欧列強にも負けない近代国家を築こうという野心的なものでした。ちなみに彼が模範としたのは、明治維新以降の日本だったともいわれています。
これらの政策を実現するために、1973年に起きた石油危機にともなう原油価格の上昇で得た資金があてられましたが、数年で原油価格が安定すると、財政的に破綻してしまいました。
さらに、急速な改革によって国民の間に貧富の差が拡大したことや、旧来の伝統やイスラム教を否定するような世俗化政策など、強引な国王の独裁に対して国民の間に不満が高まっていきます。
国王は、改革に反対する人々を秘密警察を用いて弾圧しました。その強権的な姿勢に反発する宗教勢力や保守勢力は、国王を「アメリカの傀儡」とみなし、打倒することを決断。こうして「イラン革命」が勃発することとなったのです。
パフラヴィー朝は、「アメリカの傀儡」といわれるほどアメリカと親密な関係を構築していました。これが「イラン革命」によって倒されたことで、イランとアメリカの関係は急速に悪化することになります。
そんななか起こったのが、「アメリカ大使館人質事件」です。
革命によって国外追放されたモハンマド・レザー・シャー元国王は、エジプトに渡った後、「癌の治療」という名目でアメリカへ事実上の亡命を求めました。
アメリカのジミー・カーター大統領は、この要請を受けるとイランとの関係がさらに悪化することを危惧し、断ろうとします。しかし、ヘンリー・キッシンジャー元国務長官らの働きかけにより、元国王の入国は認められ、1979年10月22日に、家族とともにアメリカに入国しました。
しかし、カーター大統領の懸念は現実のものとなります。イラン国民は激怒し、首都テヘランのアメリカ大使館の前では、連日イスラム法学校の学生らによる反米デモがおこなわれるようになりました。
11月4日、一部の学生が塀を乗り越えて大使館に侵入。アメリカの外交官や警備の海兵隊員、家族ら計52人を人質にとり、元国王の身柄をイラン政府へ引き渡すよう要求したのです。
この「アメリカ大使館人質事件」を受けて、アメリカは1980年4月にイランとの国交を断絶。経済制裁を課します。その後、人質救出作戦や仲介国による解放交渉を経て、最終的に人質が解放されたのは1981年1月20日、事件発生から実に444日後のことでした。
事件後、アメリカとソ連は、「イラン革命」の周辺諸国への波及を恐れるようになります。1979年には、ソ連がアフガニスタンに侵攻。1980年にはアメリカが援助するサダム・フセイン大統領が治めるイラクがイランに侵攻し、「イラン・イラク戦争」が勃発しました。
革命が起こった当初、欧米諸国はイスラム共和制という政治体制が長期的に持続するとは考えていなかったでしょう。しかし、欧米からの経済制裁や干渉を受けながらも、2019年には革命40周年を迎えることとなったのです。
革命が世界に与えた影響として、「第二次石油危機」が挙げられます。
「イラン革命」が起こる前、モハンマド・レザー・パフラヴィーのもとで近代化を推進していたイランには、欧米の石油メジャーが進出し、大量の原油を産出していました。しかし革命後は、新政権が原油生産の国有化を図り、欧米メジャーは撤退を余儀なくされます。イランの石油生産は中断されることになりました。
この影響を大きく受けたのが、イランから大量の原油を輸入していた日本です。1978年、OPEC(石油輸出国機構)は「翌1979年から原油価格を4段階に分けて計14.5%値上げする」ことを決定。1973年に起きた「第一次石油危機」並みの上昇でした。
ただ「第一次石油危機」の反省から、日本では省エネ政策を推進していたため、大きな混乱は起こらなかったといいます。
イランの女性というと、他人に肌を見せないよう、全身を布で覆う格好をしているイメージがあるのではないでしょうか。これは、「イラン革命」によって、イスラムの戒律を遵守することが厳しく求められるようになったことが影響しています。革命前のイランでは、街中でミニスカートを履いている女性を見かけることもあったそうです。
このことから、「イラン革命」後の女性は、権利を制限され、自由を奪われているのではないかと考えられがち。しかし実際は、女性の地位は大幅に上昇しています。
革命の指導者だったルーホッラー・ホメイニも、「もしこの運動に女性の協力がなかったら、革命は勝利していなかっただろう」と述べ、「イラン革命」の成就には女性の大きな貢献があったことを語っています。
革命後の新政権が特に力を入れたのが、教育です。たとえば生徒の女子比率は、小学校で31%から48%へ、中学校で37%から48%へ、高校で36%から48%へ、それぞれ上昇しています。大学への進学者も増加していて、公立大学の合格者に占める女子の比率は62%と、男子を上回っているのです。
またイスラム教の戒律による男女分離政策の結果、女性へのサービスは女性スタッフが担うべきという考えも浸透していて、女性の社会進出を促す要因となりました。さらに、女性向けの年金制度や育児休暇制度など、女性の社会進出を支える施策も拡充されつつあります。
もちろん制約も多くありますが、「イラン革命」によって女性の地位が大幅に向上したことも事実なのです。
- 著者
- 富田 健次
- 出版日
- 2014-12-01
2001年9月11日に起こった「アメリカ同時多発テロ事件」以降、世界各地でイスラム過激派によるテロが相次ぎ、イスラム教自体を悪とみなす風潮があります。2002年にアメリカのブッシュ大統領がイランを「悪の枢軸」と名指しで非難したことも記憶にあるでしょう。
しかしイランの視点に立ってみると、まったく異なる風景が見えてきます。本書はルーホッラー・ホメイニという人物を通じて、イスラム世界の歴史に触れることができる作品です。
ホメイニはなぜ「イラン革命」を起こしたのか。現代の世界情勢にも大きな影響を与えている革命を学ぶうえで、手に取る価値のある一冊です。
- 著者
- ["クリスチャン・カリル", "Christian Caryl"]
- 出版日
- 2015-01-21
「市場経済」と「宗教」が大きな意味をもつ現代。さまざまな事件や出来事がありますが、それらを紐解くと、転換点はいずれも1979年にあるそう。
「イラン革命」は、革命の波及を恐れるソ連のアフガニスタン侵攻を引き起こし、結果的にソ連の弱体化に繋がりました。イギリスでは「鉄の女」ことマーガレット・サッチャーが首相となり、中国では鄧小平が飛躍的な躍進の端緒となる経済改革を開始します。
「社会主義」の幕引きとなった出来事が1979年に起きていたことを考えると、世界を包んだ歴史の大きなうねりを感じずにはいられません。 壮大な読み物としても楽しめる一冊です。