2019年4月、約200年ぶりに天皇位の譲位がおこなわれます。かつての日本では生前退位は当たり前で、退位した後の天皇は上皇となり、政治の実権を担っていました。この「院政」という政治体制について、今回は荘園や摂関政治と絡めながらわかりやすく解説していきます。
2016年、天皇陛下が皇太子さまに天皇位を譲る「生前退位」の意向を示されていることがわかり、大きな話題となりました。2019年4月30日に皇太子さまに譲位をして「上皇」となられ、退位にともない元号も「令和」とあらためられます。
生前退位がおこなわれるのは200年ぶり、と報道されましたが、実は平安時代から鎌倉時代にかけては生前退位をされる天皇の方が多かったのです。位を退いた天皇は上皇、出家をした場合は法皇と呼ばれていました。
「院政」とは、上皇や法皇が、天皇に代わって政務を司る政治体制のこと。江戸時代の歴史家・頼山陽(らいさんよう)が著書『日本外史』のなかで用いたのが始まりです。上皇は「院」と呼ばれることもあったため、「院政」と表現されました。ちなみに時代によっては複数の上皇が存在し、そのなかで政治を担っていた上皇は「治天の君」と呼ばれていたそうです。
1086年に第72代白河天皇が譲位して上皇になってから、1185年頃の平家が滅亡して鎌倉時代が始まるころまでを「院政期」といいます。
平安時代の藤原北家は、代々の天皇に女子を入内させ、2人の間に生まれた皇子を天皇に即位させることで、天皇家の外祖父としての地位を占めていました。これを権力の源泉として、「摂関政治」と呼ばれる政治体制を構築していったのです。
この状況に大きな変化をもたらしたのが、1068年に即位した第71代後三条天皇です。第59代宇多天皇以来、実に170年ぶりとなる藤原北家を外戚にもたない天皇でした。
後三条天皇は、この強みをいかして「延久の荘園整理令」を発令。「記録荘園券契所」を設置して、違法荘園の整理をおこないました。当時は、全国各地に「摂関家領」や「大寺社領」という違法な荘園が多数存在していて、藤原氏や大寺社の収入源となる一方で、国の財政に深刻な打撃を与えていたのです。
これまでも荘園の整理令が発令されたことはありましたが、後三条天皇が画期的だったのは、摂関家領も審査の対象とし、違法と認定された荘園を実際に没収した点でしょう。摂関家や大寺社は経済的に大きな打撃を受け、相対的に天皇家の権威が高まっていきました。
1072年に白河天皇へ譲位。跡を継いだ白河天皇も摂関家を外戚に持たない天皇で、父親同様に天皇中心の政治を執り、1086年に当時8歳の堀河天皇へ譲位。白河院と称して引き続き政務にあたります。この時を「院政」の開始時期とするのが一般的です。
「摂関政治」は外戚関係を媒介とし形だけでも合議制であるのに対して、当時の「院政」はより専制的な統治をできるのが特徴。上皇は自身の政務機関として「院庁」を設置して「院宣」や「院庁下文」などの命令文書を発したり、太政官内に上皇の近臣を送り込んだりと、陰に陽に朝廷に圧力をかけ、政治を主導していきました。
また「北面の武士」と呼ばれる独自の軍事組織も作り、源氏や平家などの武士が台頭するきっかけとなっています。
「院政」の経済基盤を担っていたのが、全国各地に点在する「荘園」です。
奈良時代の743年、第45代聖武天皇が定めた「墾田永年私財法」により、新しく開墾した土地の私有を認めたことから全国に拡大していった「私有地」を指します。私有地が大規模なものとなっていくにつれ、これを管理するための事務所や倉庫が必要となります。これを「荘」といい、「荘」が管理する区域を「荘園」と呼んだのです。
大化の改新以降の日本では、すべての土地と人民は天皇に帰属するとする「公地公民制」がとられていましたが、私有地の増加によってこの制度は形骸化し、1000年代後半にはすべての土地が私有地となりました。公地公民制を基盤とした税体制は崩壊し、新たな課税対象として私有地に税が課されることになります。
これに反発した私有地の持ち主らは、有力貴族や寺社に接近し、私領を寄進することで税の軽減を図りました。これを「寄進地系荘園」といいます。
本来、国に入るはずだった財源が寄進を受けた有力貴族や寺社に流れ、私有地とそこに居住する住人たちの支配権も、国から有力貴族や寺社のものへと変わっていきます。
荘園を多く有することは、経済的にも軍事的にも大きな影響力をもつことと同義であり、「摂関政治」や「院政」を支える政治力のもととなったのです。
白河上皇から鳥羽上皇へと受け継がれた「院政」。鳥羽上皇が崩じた後は、「保元の乱」で勝利した後白河天皇が、1158年に二条天皇へ譲位して院政を開始しました。
しかし二条天皇は天皇による親政を目指したため、朝廷は院政派と天皇親政派に割れ、1160年には「平治の乱」が起こります。1165年に二条天皇が発病し、当時1歳だった六条天皇に譲位。その後崩御すると、後白河上皇は実権を掌握し、「院政」の最盛期を迎えることになります。
しかしそれも長くは続きません。「保元の乱」「平治の乱」で台頭してきた平清盛との関係が悪化し、1179年に起きた「治承三年の政変」によって幽閉されてしまいました。
1180年、高倉天皇が安徳天皇に譲位をして「院政」を始めますが、間もなく崩じてしまいます。その直後に平清盛も亡くなり、跡を継いだ平宗盛によって後白河院政は復活を遂げるものの、1180年の「治承・寿永の乱」に敗北。この戦いに勝利した源頼朝が鎌倉に幕府を開き、政治の実権は武家へと移ることになります。
1192年に後白河法皇が崩じると、孫の後鳥羽上皇が「院政」をおこない、1121年には鎌倉幕府を打倒しようと「承久の乱」を起こします。しかし結果は敗北、後鳥羽上皇は流罪となり、「院政」も実質的に終わりを遂げました。
制度自体はその後も江戸時代まで続きます。1817年に、第119代光格天皇が第120代仁孝天皇に譲位した後におこなったものが、最後の「院政」です。それから約200年。2019年に、今上天皇が生前退位をして上皇となります。現在は上皇の国事行為および政治に関する権限は定められておらず、「院政」が復活する予定はありません。
- 著者
- 倉山 満
- 出版日
- 2018-08-01
200年ぶりに生前退位がおこなわれることになり話題となりましたが、実は歴史を紐解いていけば、歴代125人の天皇の内、ほぼ半数の64人が上皇となっているのです。
本書では、古代から江戸時代の光格上皇までの長い歴史を振り返り、上皇の存在意義を解き明かしていきます。
専制的な政治をおこなっていた印象が強いため、上皇や院政に悪いイメージを抱いていた人も多いかもしれませんが、若くして天皇となった皇子を導く重要な役割を担っていたこともわかるでしょう。日本の歴史を知るうえでも、読んでおきたい一冊です。
- 著者
- 岡野 友彦
- 出版日
- 2013-02-17
「荘園」をヒントに「院政」を紐解いていく作品です。天皇は人ならざる至高の存在であるがゆえに土地を所有することができない一方で、その座を降りた上皇は人として土地を所有することができたなど、天皇とは別の存在として上皇が必要だった理由がわかります。
また上皇のなかにも「院政」をしくことができる者とできない者がいたそう。その権力のバロメーターが、まさに荘園だったのです。
「院政」だけでなく、日本の荘園制度について学びたい方にもおすすめの一冊です。