日本が近代国家として認められ、国際的地位を向上させるきっかけとなった「日清戦争」。その講和条約として締結されたのが「下関条約」です。この記事では、不平等条約といわれる内容や、賠償金の使い道、その後の影響などを解説していきます。あわせておすすめの関連本も紹介するので、ぜひご覧ください。
1894年から1895年まで続いた「日清戦争」の講和条約として、1895年4月17日に締結された「下関条約」。山口県下関の割烹旅館「春帆楼(しゅんぱんろう)」にて調印されました。
もともと下関には「馬関」という通称があったため、長らく「馬関条約」と呼ばれていましたが、太平洋戦争後に「下関条約」と定着しています。
この地が選ばれたのは、山口県下関市と福岡県北九州市を隔てる「関門海峡」を通過する軍船が見えるから。清の使節団を威圧する目的があったともいわれています。春帆楼は赤間神宮と安徳天皇御陵に隣接し、関門海峡を眼前に見渡すことができました。
講和会議に臨んだのは、日本側が内閣総理大臣の伊藤博文と、外務大臣の陸奥宗光(むつむねみつ)。清側は北洋大臣直隷総督の李鴻章(りこうしょう)と、欽差大臣の李経方(りけいほう)です。
では条約の主な内容を紹介していきましょう。
・朝鮮の独立
朝鮮は清の冊封体制下から独立し、大韓帝国と名をあらためます。第26代国王の高宗は、皇帝となりました。
・遼東半島の日本への割譲
遼東半島は中国と朝鮮の間にある半島で、旅順、大連といった良港を有し、地政学的に重要な意味をもっていました。後にフランス、ドイツ、ロシアによる「三国干渉」がおこなわれ、日本は3000万両と引き換えに、遼東半島を清に返還することになります。
・台湾および澎湖諸島の日本への割譲
日本にとって初めての植民地。台湾と周辺の島々を得ました。
・日本へ2億両の賠償金支払い
当時の日本の国家予算の、3倍以上の金額です。
・「日清通商航海条約」の締結
日清戦争によって「日清修好条規」が破棄されたため、新たに結ばれたものです。もともとは日本、清の双方にとってほぼ平等な内容でしたが、戦勝国である日本に有利な内容に書き換えられました。欧米列強と同等の最恵国待遇や、領事裁判権が認められるようになります。
賠償金の2億両と、遼東半島を清に返還する代償の3000万両で、あわせて2億3000万両を得た日本。現代の日本円に換算すると3億6500万円になります。当時の国家予算が8000万円ほどだったので、約4年分にもなるのです。
ただ、三国干渉によって遼東半島を返還しなければならなくなったことからもわかるように、欧米列強、特にロシアは、日本にとって大きな脅威でした。そのため2億3000万両のうち、教育基金と災害準備金に2000万円を使ったほかは、陸海軍の拡張や八幡製鉄所の建設などの軍事費用にあてられています。
また明治政府は「臥薪嘗胆」というスローガンを掲げて、三国干渉、特にロシアに対する反発心を煽りました。増税も頻繁におこない、国民の生活は苦しくなっていきます。
そして「日清戦争」から10年後の1904年、日本は「日露戦争」でロシアに勝利し、近代国家として列強と肩を並べる存在になるのです。
日清戦争が終わり「下関条約」が締結された後、清の勢力は大きく衰え、東アジアの情勢は激変しました。
日本にとっては初めての大規模な対外戦争で、これをきっかけに「国民国家」へと成長し、経済力や工業力が飛躍的に向上します。辺境にある未開の国に過ぎませんでしたが、後に「日露戦争」に勝利するまでになるのです。
一方で「眠れる獅子」と呼ばれ、列強からも一目置かれていた清は、敗戦したことで大きく威信が傷つくことになりました。日本への領土割譲や多額の賠償金の支払いに加え、戦費のために欧米から借りた資金を返すことができず、イギリスに威海衛を、ドイツに膠州湾を、フランスに広州湾を租借地とされ、領地を失っていきます。
その後、日本の明治維新にならって改革を目指す運動が起こるものの挫折。1900年の「義和団の乱」を経て、1912年に「辛亥革命」によって滅亡しました。
また、「日清戦争」によって清から独立した朝鮮は、一時は親ロシア派の政権が誕生して近代化を推進しようとしますが、統治能力の不足により失敗。「日露戦争」後には日本の保護国になり、1910年に日本に併合されることになります。
- 著者
- 古結 諒子
- 出版日
- 2016-12-20
古来、東アジアは中国王朝を頂点とする冊封体制のもとで秩序が保たれていました。その秩序を崩壊させたのが、「日清戦争」の後に締結された「下関条約」です。この条約によって、長年にわたって冊封体制下にあった朝鮮は、中国王朝からの独立を果たすことになりました。
本書では、「日清戦争」の宣戦布告までの過程や、「下関条約」を締結するまでの交渉、その後の三国干渉を含め、日本外交が果たした役割を浮き彫りにしていきます。戦前から戦後の流れが、実は現代にも繋がっていることがわかるでしょう。
- 著者
- 吉本 貞昭
- 出版日
- 2015-04-11
「日清戦争」と「日露戦争」は、日本にとって欧米列強と肩を並べるきっかけになる、大きな意味をもつものでした。しかし、そもそもなぜ当時「眠れる獅子」とまで呼ばれていた清と戦わなければならなかったのでしょうか。なぜ「北方の熊」と恐れられたロシアと戦わなければならなかったのでしょうか。
また、戦争を終わらせることは、始めることよりも難しいといわれています。「下関条約」や「ポーツマス条約」を紐解いていくことで、引き際の見極め方や交渉のまとめ方などを学ぶことができるでしょう。
本書では、「日清戦争」や「日露戦争」と同時代を生きた新聞記者や政府要人、著名人らの言葉を引用しながら、新しい視点で両戦争の意義を解説していきます。