名言で読む森博嗣おすすめ作品5選!

更新:2016.11.30

理系ミステリー作家と呼ばれ、独特の世界観を持つ森博嗣。その理系知識もさることながら、作中に散りばめられた奥深い台詞の数々に魅せられた読者も多いのではないでしょうか。今回は、そんな思索の深さを感じられる哲人・森博嗣の5作品を紹介します。

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作家、工学博士として活動する森博嗣

1996年に『すべてがFになる』でデビューしたのち、ミステリー小説を中心に小説、エッセイなど幅広いジャンルの作品をハイペースで世に送り出してきた森博嗣。元国立N大助教授という経歴から、そのハイレベルな理系知識を活かした作風が特徴です。2005年に大学の職からは退き、その後は作家、工学博士として活動をしています。2016年現在は「仕事は1日1時間」と決め、それ以外の時間は趣味を謳歌し暮らしているようです。

純粋すぎる子供たち「キルドレ」

永遠の子供“キルドレ”であり戦闘機のパイロットであるクサナギ・スイト(草薙水素)を巡る物語です。クサナギがエースパイロットとして実力を表していく一方で、所属組織からは広告塔、管理職としての役割を求められます。ただ純粋に「空を飛びたい」という彼女の思いとのジレンマや“キルドレ”である彼女の持つ特異性が周囲を巻き込みある出来事へと発展していく様を描いています。

国家間ではなく戦争法人(民間軍事会社)間で戦争が行われているという設定で、クサナギを初め本作のパイロットは皆その戦争法人に所属している戦闘機のパイロットなのです。本編『スカイ・クロラ』『ナ・バ・テア』『ダウン・ツ・ヘブン』『フラッタ・リンツ・ライフ』『クレイドゥ・ザ・スカイ』の5作品と番外編の短編集『スカイ・イクリプス』の計6作品から成るシリーズとなっています。

この“キルドレ”という存在がシリーズを通しての鍵であり、物語にメッセージ性を持たせる重要な役割を果たしています。キルドレは遺伝子制御剤の開発の途中で生まれた、歳をとらない、大人にならない存在です。怪我をしなければ死なない、永遠の命を持っています。

彼らは大人から忌み嫌われる存在です。特異な体質であることに加え、パイロットにはキルドレが多いからです。なぜ彼らは人を殺すのか、という一般人からの問いが、彼らには理解できません。彼らは空を飛びたいから飛ぶのです。そのために最適なのがパイロットという仕事であるから飛んでいるのです。

そして実際に戦争を引き起こしているのは彼ら「子供」ではなく「大人」であり、戦争法人という組織の経営戦略上、ときに大きい戦闘を仕組み、ショーとしての戦争を街中で企画します。「子供」が人を殺す仕組みを作っているのは「大人」自身なのです。そんな大人の欺瞞を冷めた眼で見ながら、彼らはただ美しい空に上がりたくて、そして死ぬならば同じように空を愛するパイロットの手で死にたいと思っています。

戦争を含め思惑・事情が複雑に絡んで出来ている現実とそこから離れた美しく純粋な世界である空を背景に「大人と子供」「生と死」の境目を絶妙に描く作品となっています。

作品により語り手はカンナミ・クサナギ・クリタと代わるのですが、彼らはいずれもキルドレです。

読者は彼らの眼を通して永遠の命を疑似体験しながら「死なない事は本当に幸福だろうか」「死ななければ今と価値観が変わるだろうか」と考え続けることになります。読む事がそのまま哲学する事に繋がるという何とも酔狂な小説です。

 

著者
森 博嗣
出版日


大人ってなんでしょうか。大人になると様々な関係性の中で生きていかなければいけません。白黒はっきりつけられない場面で妥協案を探ったり、親・上司・部下といった立場に合わせ役割行動で動かなければいけなかったりするときもあります。この作品ではそんな大人と対比する存在として、「大人になることをやめた子供」“キルドレ”を描いています。

彼らには自分の気持ちに正直に、好きなものを素直に好きと、臆面もなく言える強さがあるのです。空を飛べなければ生きていたって仕方がない、とでも言うように潔癖なまでの純粋性を貫きます。なぜ子供のままではいけないのか?そんな問いを作者は投げかけているのかもしれません。

4作目、『フラッタ・リンツ・ライフ』の中にクリタのこんな発言があります。

「たぶん、僕は相良よりも、フーコよりも、草薙を愛しているだろう。(中略)何だろう?わからないけれど、それはもう直感のようなものだ。」(『フラッタ・リンツ・ライフ』、中央公論新社、187ページ)
「それは、僕が子供だから。美しいものを知っている。愛するものを知っている。触らなくてもわかる。抱き締めなくてもわかる。愛されなくてもわかる。子供は、母親を知っている。それと同じことなのだ。」(『フラッタ・リンツ・ライフ』、中央公論新社、196ページ)

非常に抽象的ですね。クリタが愛しているのが、空を美しく飛ぶ象徴としてのクサナギなのか、クサナギ自身を指しているのか、そのあたりはわかりません。ただ、彼にとっては一緒にいる時間が長いとか同じ仕事だからといった相対的な理由からではなく、彼にとって本能的に絶対的に美しいものとしてクサナギが眼に映っているのです。このようなプラトニックな愛情をキルドレに持たせ、どこまでも純粋さ・美しさを追求した存在としてキルドレを作り上げた森博嗣の創造力が素晴らしい作品です。

また、もう一つの見どころとして戦闘機のバトルシーンがあります。森博嗣自身がレシプロ機の愛好家であることもあり、戦闘シーンやその機体についての説明などはコアなファンには堪らない作品です。また、作品中それらについて無心に語るパイロットからは飛行機への愛情がひしひしと伝わり、それがキルドレの子供らしさを引き立てています。

戦闘シーンは詩のように短い言葉を繋ぎ合せて表現する独特のスタイルで、それが臨場感と映像美を読み手に伝えてきます。その文字による映像美は、攻殻機動隊シリーズで有名な押井守監督により映画化もされていますので、そちらも合わせてぜひどうぞ。

物質世界を超越した天才の思考

天才科学者・真賀田四季の半生を描いた作品です。4章からなっており、四季の名前と呼応するように、それぞれが『春』『夏』『秋』『冬』とタイトルをつけられています。

『春』では徐々に天才として周囲に影響を及ぼしていく5~8歳頃の四季の様子と少年・其志雄との関係性が、『夏』では13歳~14歳の四季と父・母・叔父との関係性が描かれます。『秋』では2つの事件を起こした後の四季について犀川・西之園など他シリーズの主要キャラクターである人物の視点を中心に物語が進み、『冬』ではまた四季の視点からその先の物語が語られます。

この作品の見どころはずばり、四季のカリスマ性でしょう。四季は圧倒的な天才です。生まれたときから高い知能を有するに留まらず、彼女の精神はこの世の物質的なあらゆる制限を超越し、自由に思考しています。文字を書かず絵を描かなくても、頭の中に無限に広がるノートを自在に操り、知識を吸収しては計算するという事を複数同時にできる、という夢のような頭脳を持っています。

そんな四季の難しすぎる名言です。

「現代の医学は病気を治し過ぎる。元どおりに戻ることが善だと皆が信じている。したがって、その程度の結果しか得られない。生きることが最善だという概念があるために、人は最良の方法を見失っているのです。」(『夏』、講談社、176ページ)

少し危ない台詞ですが、死ぬ事が善だと言っているわけではありません。ただ、既成概念が本当に最善なのか、また、それが最善だとしても最良ではないのではないか、既成概念に縛られる事で他の真理が見えていないのではないか、と問うているのではないでしょうか。時に(いや、しょっちゅう)こんな抽象的な一言を発し、「よくわかりません」と周囲から言われる四季。彼女の全身(特に眼)から発せられる知性と美しさは常人からあまりにかけ離れたものであるため、ときに周囲は圧倒され彼女を崇め賞賛し、家族や親戚ですら憧れと畏怖を覚える、そんな存在として描かれています。

時に、四季は冷酷なまでに合理的すぎる一面を見せます。

「人は子孫を生んでも、まだ生きようとする。何のために?(中略)不思議なメカニズムだ。このシステムは何を目指そうとしているのだろう?そもそもが、自分たちの模倣を繰り返し、自分たちの外側に類似を見出だそうとしている。それはつまり、破滅への確かな道。人は、自分たちに代わる者を見つけて、死にたがっている。そう、生きようとする幻想は、つまりは、死への憧れなのだ。」(『夏』、講談社、153~154ページ)

彼女は人間の生をこのように定義づけています。

 

著者
森 博嗣
出版日
2006-11-16


四季は作中、2つの事件の当事者となります。彼女の行動が人道的に考えてどうか、という範疇に彼女はいません。それらのルールの枠を遥かに超えた次元にいるのです。これについては読者それぞれ感想が異なると思いますが、ただ一つ言えるのは、彼女の行動は彼女の真理と照らし合わせて常に正しいという事です。他作品の答え合わせとも言える場面、皆さんはどう思われるでしょうか。

また、彼女が天才である所以の一つに、他人格のトレースがあります。今まで会った事のある人間の人格ほとんどが彼女の中に取り込まれているのです。そして、彼女は事ある毎に内部に取りこんだ数多の人格と対話をするのですが、この対話がまた深く引き込まれるのです。

「どれだけの人が、本当の孤独を見られるでしょう?貴方は幸運。それを見ることができたのです。」(『冬』、講談社、197ページ)

四季の中の西之園萌絵の人格に、四季が語りかけた言葉です。

四季は天才ですが、それ故にとても孤独な存在です。彼女は一人拡大していく宇宙のように様々な人格を飲み込み、知を追求しどんどんと広がり続けるけれど、その才能に他の人間は遠く及びません。物語が進むにつれ、家族との関わりや別れなども経験し、彼女は孤独を噛みしめます。

完璧な天才としての四季が、プラトンの対話篇さながら日々自分の中の人格と対話を重ね真理を追究し、大人として成熟していく様子を描いた、時に切なく美しい小説です。

他作品とのクロスオーバーも森博嗣ファンにはたまらないもう一つの見どころです。「S&M」シリーズの犀川・西之園ペアや「V」シリーズの瀬在丸・保呂草など、他人気シリーズの主要キャラクターが登場し、他作品に隠された謎が解けるような仕掛け満載の作品となっています。

モリヒロシナイズされたオスカーとユーリ

文学的少女漫画の巨匠・萩尾望都の同名漫画を森博嗣が小説化した作品です。原作では舞台がドイツのギムナジウム(中学・高等学校)で主人公がユーリだったものが、本作では舞台が日本の理系専攻の大学、主人公がオスカーとなるなど、独自の設定でリメイクした作品となっています。原作者・萩尾望都によりこの小説のために描き下ろされた美しすぎる挿絵は、ファンであれば一度は見ておいた方がいいと言えるでしょう。

下級生のトーマという少年が、オスカーの親友ユーリに恋文を残し自殺します。トーマの死がユーリに関係があり、それがユーリを追い詰めているだろうと憂慮していたオスカーですが、事件から間もなくトーマにそっくりの転校生エーリクが現れます。エーリクが現れた事で否応なくトーマの死と向き合う事になっていくユーリの心の傷を親友オスカーの視点から描いた物語になっています。

原作も名作中の名作でファンも多い作品ですが、その魅力を損なうことなく、パラレルワールドを覗き込んでいるかのような新しい世界を作り出す森博嗣の筆力を感じる作品です。大学生を想定している事もあり、ユーリもオスカーも原作より大人びている印象です。またオスカーとエーリク、オスカーとワーグナ教授とのやりとりなど、原作とは異なるエピソードが盛り込まれ、小説の大きな見どころとなっています。

 

著者
森 博嗣
出版日
2012-04-23


「人間というのは、複雑なものだ。物理現象のように単純に分析し、計算で予測ができるものではない」(『トーマの心臓』、メディアファクトリー、119ページ)とワーグナ教授が言う通り、この物語では登場人物それぞれが複雑な気持ちを抱えています。ユーリは過去の心の傷とそれに関わるトーマの死、エーリクは母への想いと別れ、オスカーは両親について、それぞれが傷つきながらも友人に支えられ自分なりの答えを出していく瑞々しい若者の交流が描かれています。

「僕がこのとき感じたものは、何だっただろう。よくわからないものを感じたのだ。たぶん、一番近い表現でいえば、それは、美だった。」(『トーマの心臓』、メディアファクトリー、153~154ページ)

オスカーの両親にまつわるつらい出来事を受け入れた経験について、オスカーの話を聞きエーリクが涙を流す場面です。エーリクの持つ純真さにオスカーは美しさを感じます。

一方で、ユーリ・オスカーは自分の過去の傷と向き合う中で、苦悩します。

「生きていくためには、排除しなければならないものがある。それがどんなに価値のあるもの、美しいもの、掛け替えのないものであっても、取り除かなければならない。でなければ、自分が破滅してしまう。そうだろう?自殺する事は許されない。だったら障害を取り除いて進む以外にないじゃないか」(『トーマの心臓』、メディアファクトリー、211ページ)

「これは、もしかしたら、誰でもが、いつかどこかで、経験するようなことなのだろうか。(中略)じわじわと時間をかけて、氷が解けるように崩れ去るものなのではないか。子供、少年、童心、無邪気、甘え、素直、消えていくそんなものたちの影。それらを持ったままでは生きられないのだから、いつかは脱皮するように、払い落とさなければならないものなのか。」(『トーマの心臓』、メディアファクトリー、274ページ)

上がユーリの台詞、下がオスカーの心情です。傷を負う前のように子供らしい純真さを持ち続ける事はもう出来ない、とユーリとオスカーは切ない決意をするのです。森博嗣は、より冷静に大人になる事をユーリやオスカーに迫ってきます。

「ユーリを救いたい」というオスカーの純粋な友情は尊いけれどもエゴなのだ、と語るマリア先生は作者の言葉を代弁しているのかもしれません。世の中の悲惨さ、卑劣さから目を背けず大人の世界との折り合いをつけていく、という原作より少し大人びたユーリとオスカーに出会うことが出来ます。

美しく善良な「彼女」の物語

主人公の「彼女」は、親子程も歳の離れた主人と結婚し、裕福に暮らしています。そんな「彼女」と英語の家庭教師ハセガワさんや親戚の子ススムさんとの出会いと別れ、主人の仕事の関係で知り合ったタカヤナギ先生、そして主人との日々を描いた儚く幻想的な物語です。

初めて読んだとき、ポール・デルヴォーの絵を見ているようだと思いました。主人公の「彼女」の事です。ポール・デルヴォーはベルギー・シュールレアリズムの画家ですが、夢のような美しい夜の静かな世界に、美しい女性がしめやかに笑顔と肢体を零して闊歩する、そんな絵をよく描いていました。描かれる女性達は若く魅力的で、その体を惜しげもなく晒しているのですが、その表情にはいやらしさや恥じらいなど一切なく、むしろ無邪気にただ朗らかに笑みを浮かべているのです。

「彼女」は美しく善良な女性です。感じやすくとても繊細で、よく幻想的な夢を見ます。父親の躾の影響もあり主人に逆らう事はなく、つらくあたられても憤る事もありません。ただ、主人には思っている事をそのまま口にできず、いつも抑圧されています。代わりに、夢の中では生き生きと自分自身をさらけ出し、ハセガワさんとダンスをしたりススムさんの頬に口づけをしたりします。そんな夢の中の「彼女」はまさにデルヴォーの描く女性のようなのです。

 

著者
森 博嗣
出版日
2015-11-21


物語の初めから不穏な空気が漂っていますが、その読者の予感は的中します。度々悲しみに遭遇するうちに精神を病み、「彼女」がどんどん幻想の世界に入り込んでいく様子が描かれていきます。しかし、その切ない「彼女」の変化を美しく書き上げるのが森博嗣の手腕です。

「彼女は、主人を愛しているし、信頼もしている。それが強すぎて、自分を嫌わないでほしい、悪く感じないでほしいという気持ちになる。(中略)傷つけること、傷つくことが恐くて、話せないのだ。」(『イデアの影』、中央公論新社、187ページ)

「主人のことが好きなのだ、と彼女は強く感じた。」(『イデアの影』、中央公論新社、192ページ)

ハセガワさん・ススムさん・タカヤナギ先生・主人が去っていった後、彼らの影に彼女はたびたび会います。彼らと会話し、笑い、楽しく過ごすのです。彼らはタイトルで示唆されている「イデアの影」だったのでしょうか。彼らひとりひとりについて、100%善良な人だったか、というとそうでもなく、正直普通の人たちです。タカヤナギ先生は大分彼女に対し失礼な人でしたし、主人は彼女に手を上げた事もあります。そんな人達の影に彼女がイデアを見出せたのは何故なのでしょうか。

「いろいろなことが、彼女の中で変化していた。恐いものが、恐くなくなり、理解することで、愛らしくさえ思えてくるのだった。」(『イデアの影』、中央公論新社、223ページ)

「彼女は、しかし、その美しさに胸が躍った。こんな素晴らしいものが見られるなんて、なんて幸せなことだろう。それに比べて、あの愛情や恐怖といった営みのちっぽけなことはどうだ。」(『イデアの影』、中央公論新社、225ページ)

彼女は数々の悲しい経験を経て、このように語ります。ものすごい多幸感です。

彼女はこのとき何が善で何が美なのか、見分ける審美眼を持っていたのではないでしょうか。彼ら4人の全てが善良だったわけではないと思います。ただ、彼らの持つあらゆる面に善と美を見出す目を彼女が持っていたのではないかと思うのです。

森博嗣の創作の底に潜むもの

沈鬱に生と死を響かせる作風はどことなく萩原朔太郎、それでいて情緒的になりすぎず軽やかで無駄のない言葉選びがやはり森博嗣らしい、作者唯一の詩集です。

その中から2篇ご紹介します。

『四季の箱』
繰り返すアルカロイド
上る雲と落ちる霧
生きている透明に包まれて
緑、赤、白、黒の順に
斜面を塗り替える

組み立てられた春
取り替えられる夏
もう一度出せる秋
まだ見たことのない冬
(『魔的』、中央公論新社、115ページ)

「これは、あの作品の事を指しているのでは」と思わずにはいられない他作品とのシンクロ率です。創作活動の過程でぎゅっと凝縮して残ったエッセンスのようなものなのか、それともあの作品へのヒントとして作られたものなのか。思い巡らせてみるのも楽しいかもしれません。

 

著者
森 博嗣
出版日


『愛情は英雄か』
これこそ少数にして残された墓地
認識は死を拒む物質に刻まれた墓標
それらを目指して機知と礼節の死装束を纏い
傷みはしない
傷みはしない
と繰り返しながら
愛情たちが行進する
(『魔的』、中央公論新社、79ページ)

他にも、「これはあの小説のワンシーンでは?」という既視感のある作品など、森博嗣ファンなら心ときめく詩が時折顔を出す面白さがあります。1篇の詩として読んでも、他作品之と照らし合わせても楽しめる、読みごたえのある一冊です。

森博嗣作品は彼自身が哲学者なのだろうと思わせる、奥深さがありますね。最後にもう一つ、賢者のような格言を。

「真理は、塵のように、見えなかった。しかし、それはどこにでもある。それを見ようとする者は、いつでもそれを捉えるだろう。いつでもそれを手に摑むだろう。」(『冬』、講談社、216ページ)

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