奈良時代を代表する歌人のひとり大伴旅人。元号「令和」の典拠となった『万葉集』の歌は、彼の邸宅で読まれていたものだったことから、話題になりました。この記事では「梅の花」の歌や、酒好きのエピソード、息子の家持などをわかりやすく解説していきます。あわせておすすめの関連本も紹介するので、ご覧ください。
「大化改新」から20年後の665年に生まれ、飛鳥時代から奈良時代にかけて活躍した大伴旅人(おおとものたびと)。太政官における臣下最高位の大納言まで昇進し、731年に亡くなりました。
そもそも大伴氏は、天皇家の祖とされている瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、中つ国を収めるために天照大神(あまてれらすおおみかみ)の神勅を受けて高千穂峰に降り立った「天孫降臨」の際の、先導をした天忍日命(あめのおしひのみこと)の末裔とされています。
代々、天皇家直属の軍事氏族として仕え、同じく神別氏族の物部氏と権力を二分する存在でした。
その後、蘇我氏や藤原氏が台頭すると徐々に勢いは衰えていきますが、大伴旅人が生きた飛鳥時代から奈良時代にかけてはまだまだ力をもっていて、太政官の最高幹部である公卿を多数輩出しています。
旅人は、672年に起きた「壬申の乱」にも参戦した大伴安麻呂の子として生まれました。武人として朝廷に仕え、720年に九州南部に住む隼人が反乱を起こすと、征隼人持節大将軍に任じられて鎮圧の指揮をとります。
728年には大宰帥(だざいのそち)として九州の大宰府に赴任。この人事は藤原氏による一種の左遷人事だったとも、軍事的能力に期待されていまだ反乱の余波が残る九州を抑えるためだったともいわれています。
大宰府では、山上憶良(やまのうえのおくら)ら歌人とも交流を深め、「筑紫歌壇」というサロンを形成しました。旅人の歌は『万葉集』に78首選出され、その多くが大宰帥任官後に読まれたものになっています。
平成の次の元号「令和」。「大化」から数えて248番目にあたり、およそ200年ぶりの譲位(生前退位)による改元なこと、初めて日本の古典が典拠となったことでも話題になりました。
「令和」の典拠となったのは、日本最古の和歌集『万葉集』の巻五に収められた「梅花の宴」序文です。「梅花の宴」とは、大宰府の大伴旅人邸にて開かれた宴のこと。
原文は
「于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。」
書き下し文は
「時に、初春の令月にして、気淑く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す。」
現代語訳は
「時は初春のよい月であり、空気は美しく、風は和やかで、梅は鏡の前で美人が白粉で装うように花咲き、蘭は身を飾る衣に纏わせる香のように薫らせる。」
となり、春の訪れを喜ぶ気持ちが込められています。 月、空気、風、梅、蘭などを用いることで、日本らしい四季の彩りも感じられるでしょう。
「梅花の宴」が開かれたのは、旅人の晩年にあたる730年のこと。60歳を過ぎた高齢での大宰府着任、着任早々に妻を亡くす悲哀も味わった大伴旅人が、都から遠く離れた九州の地で、友人たちに囲まれて春の喜びを歌う様子に心動かされます。
一部報道では「令」という漢字を、「律令」や「法令」に例に「命令」という意味が込められていると解説するものもありましたが、実際には「美しい」「めでたい」などの意味が込められているのです。そのため「令和」という元号を英訳すると、「Beautiful Harmony(美しい調和)」となります。
教科書などを見てみてもそれほど重要な人物として扱われていない大伴旅人。その一方で、熱心なファンもいるのです。
その理由は、旅人がかなりのお酒好きとして知られているから。『万葉集』には、大伴旅人が読んだお酒にまつわる歌が13首収められていて、現代の呑兵衛が思わず頷いてしまうような機知に富んでいます。いくつかご紹介しましょう。
「験なきものを思はずは一杯の濁れる酒を飲むべくあるらし」
この歌は大伴旅人が残したお酒にまつわる歌のなかでもっとも有名なもの。「くよくよと思い悩むくらいなら、酒を飲んだ方がいい」という意味です。
「なかなかに人とあらずは酒壺になりにてしかも酒に染みなむ」
「鯨海酔侯」を自称した山内容堂や上杉謙信など、歴史上お酒が好きな偉人は数多くいますが、大伴旅人を日本史を代表する「酒好き」の地位に押し上げたのがこの歌です。「なまじ人間でいるよりも、いっそ酒壺になって、身体にお酒が沁み込んだらいいのに」という意味。酒好きの人はいても、「酒壺になりたい」とまで言ったのは旅人くらいでしょう。
「世の中の遊びの道にすすしくは酔泣するにあるべくあるらし」
「遊び」は「みやび」と読み、官人としての教養や嗜みなど風流な遊びのこと。臣下最高位の大納言にまでのぼりつめた大伴旅人でしたが、「風流な遊びをするよりも、酔って泣いている方がまし」と考えていたようです。
旅人の息子、大伴家持(おおとものやかもち)の方が馴染みのある人も多いのではないでしょうか。718年に生まれ、祖父や父と同様に、高級官吏として活躍。藤原氏の勢いが日に日に増すなか、中納言まで昇進して785年に亡くなりました。
平安時代に藤原公任が選んだ秀歌『三十六人撰』に載っている「三十六歌仙」に名を連ね、藤原定家が選んだ『小倉百人一首』にも「鵲の渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」という歌が選出されるなど、和歌の名手として有名です。
また『万葉集』は成立に関して詳しいことが明らかになっていませんが、大伴家持自身の歌が473首、父の大伴旅人、祖父の大伴安麻呂など一族の歌が700首以上収められていることから、家持が編纂に関わっていたとする説が有力です。
- 著者
- 出版日
- 2001-11-22
日本の古典をわかりやすく解説してくれる「ビギナーズ・クラシックス」シリーズ。本書では、「令和」の典拠になったことで注目されている『万葉集』をとりあげています。
『万葉集』は、奈良時代末期に成立した、日本に現存する最古の和歌集。天皇や貴族だけでなく、防人や大道芸人にいたるまでさまざまな身分の人が読んだ歌が、4500首以上も収められています。
本書では、そのなかから選りすぐりの秀歌140首を紹介。1200年以上前の日本人が、身分の上下に関わらず、いかに四季を愛し、友や家族を思い、日々を過ごしていたのか感じることができるでしょう。もちろん「令和」の典拠になった「梅花の宴」の序文も掲載されています。
- 著者
- 村山 出
- 出版日
- 1983-11-10
「筑紫歌壇」の中心的存在だった大伴旅人と山上憶良。旅人は、大宰帥として九州に赴任。一方の憶良は筑前守として九州に赴任し、大宰府で交流を深めました。
山上憶良といえば
「憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も吾を待つらむそ」
(家で子供が泣いており、その母も自分の帰りを待っているので、お先に失礼します)
「銀も金も玉も何せむにまされる宝子に如かめやも」
(どんな金銀財宝も、子どもには及ばない)
など家族を想う歌が有名です。本書ではそんな2人に焦点を当て、出会いから別れまでの半生を追うことで、人となりや、九州で花開いた文学を紐解いていきます。古代日本で、彼らは何を感じ、考えていたのでしょうか。豊かな文化に触れてみてください。