戦国時代のまっただ中だった16世紀、日本に初めてヨーロッパ人がやってきます。そして「南蛮貿易」が始まりました。この記事では、概要や輸出入品、ポルトガルとスペインそれぞれの交易の歴史をわかりやすく解説していきます。あわせてもっと理解の深まるおすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。
「南蛮」とは、もともと中国に由来する言葉です。中国が世界の中心でその文化が神聖なものである、という中華思想にもとづいていて、周囲の異民族を「東夷・北狄・西戎・南蛮」と呼んでいました。
やがて中華思想は日本にとり入れられるようになり、朝鮮半島南部、薩摩七島、琉球などを指す言葉として『日本書記』にも登場しました。
その後16世紀になると、日本に初めて西洋人がやって来ます。1543年にはポルトガルから鉄砲が伝来し、1549年にはフランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えました。ポルトガルの船がアフリカ・インド・東南アジア・中国と東まわりの航路で日本にやって来て、後にスペインの船が太平洋を横断してマニラに拠点を作り、西まわりの航路でやって来たそうです。
日本人は、南方からやってきた異民族である彼らのことを「南蛮人」と呼び、彼らとの交易を「南蛮貿易」、彼らによってもたらされたものを「南蛮渡来」と呼ぶようになります。
薩摩半島に到着したザビエルは、平戸や豊後にも赴き、キリスト教を布教しました。薩摩の島津貴久や平戸の松浦隆信、豊後の大友宗麟らが布教を受け入れた理由は、南蛮人がキリスト教の布教と貿易をひとまとめに考えていたからでした。
日本は布教を受け入れる見返りとして貿易をおこなうことができ、当時の大名たちは大きな利益をあげることができたのです。
1561年にポルトガル商人と日本人が衝突する「宮ノ前事件」が起こり、ポルトガル商人が平戸を追放されると、近隣を治めていた大村純忠が横瀬浦を開放。ポルトガル商人を受け入れ、彼は後に洗礼を受けて日本初のキリシタン大名となります。その後、横瀬浦が戦火で焼けると、南蛮貿易の中心地は長崎へと移っていきました。
一方で京の都周辺では、堺にポルトガル商館が建てられ、南蛮貿易がおこなわれます。織田信長や豊臣秀吉による天下取りを財政的に支えることになりました。
南蛮貿易というと、ポルトガルやスペインと日本の間で直接貿易がおこなわれていたように聞こえますが、実際に両国間を船が行き来していたわけではありません。
日本にやってくるポルトガル船は、アジアにおけるポルトガルの拠点であったマカオから来る船がほとんどでした。つまり日本に輸入されていた物品の多くは、中国や東南アジアの商品だったのです。同様に日本からの輸出品も、大半は中国や東南アジアに運ばれました。
日本が主に輸入していた品物は、生糸や絹織物、金、陶磁器、生薬など。なかでも重要なのが、硝石(しょうせき)です。これは火薬の原料となるもの。鉄砲はもともと鍛冶技術をもっていたため国内で量産することができましたが、硝石は南蛮貿易によって輸入するしかなかったのです。
このほか、カボチャやスイカ、トウモロコシ、タバコ、メガネ、パンやカステラも持ち込まれています。
一方の日本から輸出していた品物は、日本刀や漆器、海産物、硫黄、銀など。銀は、南蛮貿易によって持ち込まれた「灰吹き法」という手法を用いて大量に産出できるようになりました。また数十万人におよぶ奴隷も出されたそうです。
日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエル。1534年に「イエズス会」を立ち上げ、ポルトガル王の依頼により東洋へ布教の旅に出ます。
彼にとってキリスト教の布教と貿易は表裏一体。1549年に初めて日本にやって来た後は、ポルトガルの商館を建てることにも尽力し、日本で需要がある商品のリストを作成するなど、南蛮貿易の礎を築きました。そして貿易によってもたらされた利益の一部を、キリスト教布教のための財源としたのです。
イエズス会の協力のもと、数人の商人たちがポルトガル人を組織として管理するようになり、やがてマカオと日本の間に定期航路が開通。「カピタン・モール」と呼ばれる司令官が指揮をとる、商船による貿易が主流になっていきました。
一神教、一夫一婦制などのヨーロッパの考え方や、油絵や銅版画、西洋楽器などの芸術や文化は「南蛮文化」と呼ばれ、日本人が古来から抱いていた価値観を打ち崩します。そしてこれらは、意外なほどすんなりと日本人の生活に浸透していきました。
南蛮文化そのものは、江戸幕府による鎖国政策によって衰退していきましたが、その後もカステラやタバコ、パン、コンペイトウ、シャボン、カルタなど多くのポルトガル語が定着しています。
スペインは航路の開拓に手間取り、ポルトガルよりも遅れて日本にやって来ました。中心となったのは貿易商ではなく、宣教師です。ちなみにポルトガル王によって布教の旅に出たフランシスコ・ザビエルも、出身はスペイン。彼に同行していたイエズス会士たちもスペイン人でした。
1551年にザビエルが1度日本を離れた際、同行した薩摩出身の日本人がローマに向かう道中でスペインに立ち寄っています。また1582年にローマに派遣された天正遣欧少年使節も、マドリードで国王のフェリペ2世に謁見しました。
実際に南蛮貿易がおこなわれたのは、1584年から。平戸に商館が建てられました。しかし日本国内ではキリスト教徒による反乱が起きたり、寺社仏閣を破壊したりする事件が頻発。1587年に「バテレン追放令」が発せられ、スペインとの関係が悪化していきました。
1609年、フィリピンで臨時総督を務めていたドン・ロドリゴが、日本近海で海難事故に遭遇。現在の千葉に漂着して救出されるという出来事がありました。徳川家康は船を提供するなど帰国の便宜を図るとともに、当時日本の貿易を独占していたポルトガルの勢いを削ぐために、スペインとの貿易を交渉します。しかし、スペイン側がキリスト教の布教を望んだために合意にいたりませんでした。
ポルトガルやスペインにとって、貿易とキリスト教の布教は軍事力と並ぶ侵略の道具で、切っても切り離せないものだったのです。日本としても、南蛮貿易によって得られる利益や、生糸などの輸入を捨てきることはできません。不安定な状況が続き、結果的には1637年に、キリシタンの天草四郎時貞が「島原の乱」を起こすことになるのです。
- 著者
- ["ルシオ・デ・ソウザ", "岡 美穂子"]
- 出版日
- 2017-04-19
大航海時代の歴史を振り返る際に、キリスト教を善、これを弾圧する幕府などを悪とみなす文献がほとんどです。もちろん残酷な手段で棄教を迫る行為を正当化するのは難しいものですが、その背景で起こっていた出来事についても目を向ける必要があるでしょう。
当時の日本では、人身売買が横行していました。南蛮貿易を通じて、日本人が奴隷として海外に売られていたのです。酷使され、使い物にならなくなるとそのまま捨てられることもあったそう。
本書は多数の史料を用いてわかりやすく解説しているのが特徴です。奴隷の是非を問う内容ではなく、ポルトガルやスペインとの南蛮貿易、大航海時代という大きな時代の流れに埋もれてしまっている事実に光を当てることを目的としています。日本の歴史のひとつとして、知っておくべき内容でしょう。
- 著者
- 岡 美穂子
- 出版日
フランシスコ・ザビエル、司教カルネイロ、貿易商の末次平蔵、長崎奉行の竹中重義……本書は、南蛮貿易の初期から終焉までを彩った人々に焦点を置き、約80年間の歴史を紐解く作品です。
学術書ながら、まるで壮大な物語を読んでいるかのような迫力。時代が移り変わっていく激動の様子を体感することができるでしょう。
日本と、中国や東南アジアを結ぶ役割を果たしていた南蛮貿易。ポルトガルやスペインの思惑と、日中の思惑は異なるもので、彼らは利害関係を計算しながら交易を続けました。商人と宣教師、各国の関係を整理して学びたい人におすすめの一冊です。