室町時代の初期に起こった足利政権内部の内紛を「観応の擾乱」といいます。史上最大の兄弟喧嘩ともいわれるこの争い、いったいどんなものだったのでしょうか。この記事では、背景と原因、戦いの流れ、重要人物である高師直などをわかりやすく解説していきます。あわせて、話題になっているおすすめの本も紹介するので、チェックしてみてください。
南北朝時代の1349年から1352年にかけて続いた、室町幕府の内紛を「観応の擾乱」といいます。
室町幕府の権力構造は、足利尊氏を頂点にして、軍事的な面を足利家の執事である高師直(こうのもろなお)が、政務や司法的な面を足利尊氏の実弟である足利直義(ただよし)が担う二元的な体制でした。
観応の擾乱は、この高師直派と足利直義派の争いに端を発しています。ここに足利尊氏と嫡男の義詮(よしあきら)、尊氏の実子で直義の養子になっていた直冬(ただふゆ)、さらには南朝をも巻き込む大規模な争いへと発展していったのです。
歴史上、兄弟間で争った例は枚挙にいとまがありませんが、観応の擾乱の場合、その余波が全国に波及したことから「史上最大の兄弟喧嘩」とも呼ばれています。
1336年に室町幕府が成立した後、足利尊氏は仏教にのめりこみ、実質的には隠居の状態でした。政務にはほとんど関わっておらず、そんな兄に代わって直義は政務を司ります。鎌倉時代の執権政治を理想とし、裁判制度を充実させ、旧来秩序を維持することを目指しました。
その一方でこれまで南朝との戦いで軍功を挙げていた、足利家の執事である高師直と弟の師泰(もろやす)は、1339年に後醍醐天皇が没した後、世情が落ち着くにつれて活躍の場が減少していきます。
秩序を守ろうとする直義派と、秩序だった世の中では活躍することができない師直派の関係は険悪になっていきました。このまま平穏な世が続けば、直義派の勝利は間違いないと考えられていましたが、そうはいきません。
1347年、南朝の楠木正行が京都奪還を目指して蜂起し、鎮圧に向かった直義派の武将たちが敗北してしまったのです。そして、彼らに代わって起用された師直・師泰兄弟が、1348年に楠木正行を討ちとり、さらには南朝の本拠地である吉野も陥落させます。
この結果、直義派の発言力は低下し、反対に師直派の発言力が増大。両派の対立は抜き差しならぬものになっていきました。
先に動いたのは、直義派でした。1349年、師直の悪行を糾弾し、足利尊氏に迫って執事職から解任すると、師直派の排除に乗り出すのです。
しかし師直も黙ってはいません。一旦は京を追い出されたものの、河内で軍勢を集め上洛。直義が逃げ込んだ尊氏の屋敷を包囲し、兵糧攻めの構えを見せたのです。主君である尊氏の屋敷に対しても容赦を見せない師直の振る舞いに、直義は出家して幕政から退くことを余儀なくされました。
これで騒動は収まったように見えたものの、両派の対立は燻り続け、観応の擾乱へと繋がっていくことになるのです。
ここで、尊氏の実子で直義の養子になっていた、足利直冬という人物に注目しましょう。直冬は1327年に尊氏と側室の越前局の間に生まれた子です。2代将軍となる義詮よりも年長でしたが、母の身分が低かったことから尊氏の実子と認知されず、寺で育ちました。
その境遇を哀れんだ直義が、自身に子どもがいなかったことから養子に迎え入れたのです。
1348年、直義の取り成しによってようやく尊氏から認知を受けることができ、南朝方を討伐する軍の大将に任じられます。直冬は南朝軍を破る軍功を挙げますが、尊氏や師直らからは高い評価を受けられませんでした。
師直派との対立のすえ直義が政権から退いた時、直冬は長門探題に任命されて備後(現在の広島県)に滞在していました。事態を知った直冬は軍を集めて上洛しようと試みますが、尊氏によって派遣された師直軍に敗北し、九州に逃れることになります。
すると直冬は、南朝の懐良親王(かねよししんのう)に接近。大宰府の少弐頼尚の婿になるなどして勢力を築き、徐々に幕府を脅かす存在へと成長していくのです。1350年、この状況を受けて尊氏は、京の留守を義詮に任せ、自ら討伐軍を率いて京を出発しました。
この隙をついたのが、京で隠居をしていた直義です。京を脱出し、師直・師泰兄弟を討伐するために挙兵しました。これが観応の擾乱の始まりです。1351年1月には京に進軍し、義詮を尊氏のもとへ敗走させます。
尊氏軍と足利直義軍は、播磨光明寺城や、摂津打出浜などで激突し、いずれも直義軍が勝利。2月、尊氏は師直の出家を条件に和議を申し出て、直義はこれを受け入れるのです。
しかしこれは表向きの条件で、尊氏と直義の間では秘かに、師直・師泰兄弟の抹殺が合意されていました。そして2人は護送中に殺害されるのです。
師直と師泰が一掃されたことにより、戦いは一時鎮静化しましたが、政権内部の対立は解消されていません。直義は約半年後の10月に京を脱出し、鎌倉へと逃亡します。ただ当時の直義派は、関東・北陸・山陰を掌握し、西国では直冬が力をもっていたため、幕府とっては大きな脅威でした。
尊氏は、直義派と南朝の関係を断つために、南朝に和議を提案するという奇手を打ちます。一時的に南北朝が統一され、元号も北朝の「観応」から南朝の「正平」になったことから、これを「正平一統(しょうへいいっとう)」と呼びます。
こうして南朝の支持を得た尊氏は、直義追討のために出陣。各地での戦いに勝利し、1352年1月に降伏させることに成功しました。鎌倉の浄妙寺に幽閉された直義は、2月26日に急死。これについては、病死とも毒殺ともいわれています。
直義を排除すると、尊氏と義詮親子は再び南朝と対立し、「正平一統」はわずか4ヶ月ほどで崩壊。直冬はその後も幕府軍と戦い続けましたが、徐々にその勢力は衰え、1366年の書状を最後に消息は途絶えています。
では観応の擾乱の重要人物である高師直について紹介していきます。
高氏は、代々足利家の執事を務める家系で、師直も尊氏の側近として仕え、数々の戦で軍功を挙げました。室町幕府が成立すると、将軍家の執事として強大な権勢を誇り、幕府の要職を一族で占めて、河内や越後などいくつかの国の守護にもなります。
南北朝時代を描いた軍記物語『太平記』などには、師直・師泰兄弟の悪行がいくつも載っているため極悪非道というイメージを抱いている人も多いですが、実際にはほとんどが後世の創作だと考えられています。
実際の師直は「分捕切捨の法」と呼ばれる戦功の確認方法を採用するなど、合理的な人物だったそうです。それまでは、討ちとった敵の首は、戦の後に奉行に確認してもらうまで所持しておかなければなりませんでしたが、「分捕切捨の法」は仲間に確認してもらったらすぐにその場で捨てていいというもの。機動力を損なわずに戦うことが可能になったのです。
そんな彼のもとには新興武士層が集うようになり、旧来の秩序を重んじて貴族や寺社などから支持される直義と対立していくこととなりました。
- 著者
- 亀田 俊和
- 出版日
- 2017-07-19
「史上最大の兄弟喧嘩」といわれつつも、歴史の流れのなかではやや地味な出来事である観応の擾乱。本書は大きな流れを説明し、それぞれの場面ごとに背景と結果を詳しく解説している作品です。
幕府を開いた途端にやる気をなくしてしまった尊氏、旧来の秩序で安定を築きたい直義、そして自分の功績を評価されたい師直……このほかににも登場人物が多くて場所も移動するため複雑ですが、最新の研究内容をはさみつつ丁寧に記されているのが魅力です。
観応の擾乱があったからこそ、室町幕府の制度や政策が整えられていったともいわれていて、当時を知るうえでは非常に重要な戦い。南北朝の動乱についても理解を深められるでしょう。
- 著者
- 出版日
- 2018-06-04
新進気鋭の歴史研究者13人が集まって、室町幕府について記した作品です。2016年に『応仁の乱』がベストセラーになって以来、光を浴びている室町時代。観応の擾乱だけでなく、これまであまり注目されていなかった事柄に関する研究も、飛躍的に進展しているといいます。
本書では、尊氏、義詮、義満の3代を中心に解説。若手研究者ならではの柔軟な視点と、丹念な調査によって、解釈を提示しています。これまでの常識をひっくり返すような解釈もあり、新鮮です。