今日まで続く議会政治の礎を築いたといわれる、イギリスの「名誉革命」。別名「無血革命」とも呼ばれています。この記事では、「名誉」と呼ばれる理由や革命が起こった背景、その後の影響、革命によって成立した「権利の章典」などをわかりやすく解説していきます。
1688年から1689年にかけてイギリスで起きた「名誉革命」。この革命の結果、王であるジェームズ2世が追放され、娘のメアリー2世とその夫であるオランダ総督ウィレム3世が即位することになりました。
「偉大なる革命」と呼ばれることもあるのですが、その理由は「無血」のクーデターだったからです。実際には小規模な戦いがあり完全に無血だったわけではありませんが、内戦で多くの死傷者が出た1642年の「清教徒革命」の記憶が新しい人々にとっては、名誉なものだったのでしょう。
この革命によって、イギリスでカトリックが復活する可能性はなくなり、イングランド国教会が国教になることが決定。また「権利の章典」が成文化され、議会政治の基礎が築かれることになりました。
イギリスでは、1642年から1649年にかけて起こった「清教徒革命」によって絶対王政が打倒され、国王チャールズ1世が処刑されています。その後はクロムウェルによる護国卿時代を経て、1660年の王政復古にてチャールズ2世が即位しました。
1662年、チャールズ2世はポルトガルの王女カタリナと結婚をします。しかしカタリナはカトリックで、イギリスでは国民の大半がイングランド国教会だったため、人気が出ません。
1685年、チャールズ2世の跡を継いで弟のヨーク公ジェームズが即位し、ジェームズ2世となります。しかし彼は清教徒革命の際にフランスに亡命し、カトリックに改宗していました。兄夫婦同様、国民の支持を得られないのです。
しかもジェームズ2世は、カトリック教徒を議員に重用して要職に置き、プロテスタントを罷免したため、議会と国王の間に対立が生じることになりました。
ジェームズ2世に対する不満が高まるなか、1683年には国王の暗殺を謀った「ライハウス陰謀事件」、1685年には王位継承を巡って「モンマスの反乱」などが発生。ジェームズ2世はいずれも反乱者を容赦なく罰します。
さらに反乱が起きたことを口実に常備軍を設置し、1687年には「信仰自由宣言」を発してカトリック教徒が聖職に就任することを許可するなど、兄のチャールズ2世以上に反動的な政策を進めていくのです。
この頃、彼には後継者となる男子がいなかったことから、議会は国王の死後、王女のメアリー2世が後を継ぐことを期待していました。メアリー2世は母親のアン・ハイドがプロテスタントだったことから、プロテスタントの国であるオランダの総督オラニエ公ウィレム3世に嫁いでいたのです。
しかしこの目論見は、1688年にジェームズ2世と王妃メアリーの間に王子が生まれたことによって崩れてしまいます。その結果議会は、クーデターという強硬策に出ることを決め、ウィレム3世とメアリー2世夫婦に対し、イギリスへの上陸と国王への即位を要請しました。
当時のオランダはフランスと対立関係にあり、親フランスのイギリスからの要請は、オランダにとってまたとない好機でした。
1688年11月15日、ウィレム3世は約2万のオランダ軍を率いてイギリスに上陸。これを迎え撃つはずのイギリス軍は、ジェームズ2世に任命されたカトリックの士官に対する反感から寝返りが相次ぎます。ジェームズ2世が設置した常備軍の司令官も、戦うことなく降伏してしまいました。
12月24日にイギリス軍の抵抗は終了し、捕らえられたジェームズ2世はフランスへと亡命。1689年2月23日に、ウィレム3世が新国王として即位し、ほぼ無血のまま革命は終わるのです。
名誉革命で成立した「権利の章典」。正式名称は「臣民の権利と自由を宣言し、かつ、王位の継承を定める法律」といいます。
イギリス国王の存在を絶対前提としつつ、議会および国民のもつ権利と自由を定めたもの。ここに定められた権利や自由は、たとえ国王であっても否定できないとされました。
主な内容としては、「議会の同意なく法律の適用免除や執行停止をすることを禁止」「議会の同意を得ない課税の禁止」「平時における常備軍設置の禁止」「カトリック教徒を王位継承者にすることを禁止」「議会選挙・議会内での発言・国民の請願権の自由を保障」「議会の招集」「議会における議員の免責特権」「人身の自由の保障」などが挙げられます。
「権利の章典」は新国王として即位したウィレム3世とメアリー2世に対して議会が奏上し、国王が理解を示して署名したもので、「マグナ・カルタ」や「権利の請願」と並ぶイギリスの不成典憲法を構成する法律のひとつとして2019年現在も有効です。
名誉革命そのものは無血に終わったものの、親オランダの立場をとったことで、イギリスとフランスとの関係は悪化していくことになります。
またイングランド国教会を重視ししてカトリックを排除する政策は、多くの国民からは支持されましたが、一部のカトリックからは反発を受けました。
ジェームズ2世に重用され、スコットランド軍総司令官に任じられていたダンディー子爵ジョン・グラハムが反乱を起こしたことをきっかけに、フランスに亡命していたジェームズ2世がアイルランドに上陸します。
これにカトリックのアイルランド人が呼応して「ウィリアマイト戦争」が起こるなど、ジェームズ2世とその子孫を支持する「ジャコバイト」と呼ばれる人々による反乱が相次ぎました。名誉革命後の統治は、無血というわけにはいかなかったのです。
ウィレム3世はこれらの反乱を鎮圧しますが、その過程で革命に干渉するフランスとの対立は深まります。そしてフランス革命に繋がる1689年の「第二次百年戦争」や、ドイツ・イタリア・スペイン北部・アメリカ北部までを主戦場とする1690年の「大同盟戦争」に向かっていくことになるのです。
- 著者
- 君塚 直隆
- 出版日
- 2015-05-22
王権と議会に焦点を当て、イギリスの通史を描いた作品です。下巻では「清教徒革命」と「名誉革命」、「産業革命」、チャーチル、サッチャー時代を経て現代まで取り扱っています。
本書を読むと、議会政治というシステムが、長い歴史のなかで多くの犠牲者を出しながら構築されたものだと痛感させられるでしょう。そのなかで、ほぼ無血で成し遂げられた名誉革命は異色のもの。成し遂げた人々が誇りに思うのも納得できます。
平易な文章で記されているので、イギリスの歴史を学びたい方にもおすすめです。
- 著者
- 友清 理士
- 出版日
- 2004-07-25
無血で達成されたことや、「権利の章典」が成立したことから、イギリスの歴史において非常に重要な役割を果たしている名誉革命。しかしその重要性はイギリス国内にとどまらず、当時のヨーロッパ全体に大きな影響を与えていたのです。
17世紀のヨーロッパ情勢の鍵を握っていたのは、太陽王ことルイ14世です。そして、その膨張政策の前に立ち塞がったのがオランダでした。
名誉革命は、イギリスが親フランスであるカトリック教徒ジェームズ2世から、親オランダであるプロテスタントのウィレム3世による統治に移り変わった、非常に大きな転換点なのです。その後に起こった「大同盟戦争」や「第二次百年戦争」を経て、辺境の小国だったイギリスが7つの海を支配する「大英帝国」へと変貌していくきっかけとなりました。
イギリスだけでなく、当時のヨーロッパ情勢を理解する助けになる一冊です。