共和制ローマとカルタゴが地中海の覇権をめぐって争った「ポエニ戦争」。第一次から第三次まで、120年近くにわたっておこなわれました。この記事では、第一次から第三次それぞれの戦いの流れと結果をわかりやすく解説していきます。あわせておすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。
地中海の覇権をめぐり、共和政ローマとカルタゴが争った「ポエニ戦争」。第一次が紀元前264年から紀元前241年、第二次が紀元前219年から紀元前201年、第三次が紀元前149年から紀元前146年と、3回にわたってくり広げられました。
共和政ローマは、紀元前509年に王政を打倒して成立。紀元前272年にイタリア半島を統一し、地中海の覇権を握ろうと半島の外への進出を目指します。そんな共和制ローマにとって、当時強力な海軍をもち地中海の覇権を握っていたカルタゴは、倒さなければならない相手でした。
カルタゴは、現在のチュニジアにあるチュニス湖近くにあった都市国家です。フェニキア人の植民地として紀元前814年頃に建国されました。
紀元前5世紀頃には、現在のモロッコからエジプトに至る北アフリカ沿岸一帯、地中海のサルデーニャ島、マルタ島、バレアレス諸島を支配。イベリア半島に植民市を建設するなど強大な国力を誇る大国となっていたのです。しかしポエニ戦争の結果、栄華を誇ったカルタゴは滅亡することになります。
紀元前264年から紀元前241年まで続いた「第一次ポエニ戦争」。発端は、シチリア島での争いです。
当時のシチリアは、西半分をカルタゴが、東半分をギリシア系の自治都市シラクサが支配、北東部のメッシーナをカンパニア人の傭兵集団マメルティニが占領していました。
シラクサの僭主ヒエロン2世は、メッシーナを取り戻すためにマメルティニを攻撃します。劣勢に立たされたマメルティニは、共和制ローマとカルタゴの双方に対して救援を要請。これがポエニ戦争を誘引したのです。
先に動いたのはカルタゴでした。ヒエロン2世に軍事行動の停止を申し入れ、マメルティニに対しては、カルタゴ軍をメッシーナに駐留することを認めさせようとします。このままではシチリアをカルタゴに支配されると考えた共和制ローマは、介入を決断。歴史上初めてイタリア半島から外征することになりました。
共和制ローマ軍はシラクサを攻略し、同盟を強要します。その結果、紛争の主役はシラクサとマメルティニとの対立から、カルタゴと共和制ローマの対立に発展していったのです。
戦いは主に海上でおこなわれました。当初は、強大な海軍力をもつカルタゴが優勢でしたが、共和制ローマが「コルウス」と呼ばれる新兵器を開発すると、様相は一変します。
当時の海戦は「衝角(しょうかく)」と呼ばれる船に取り付けた武器で体当たりの攻撃をするのが一般的。高い操艦技術が求められていました。共和制ローマが開発した「コルウス」は、はしごのようなもので、船体を敵艦の横につけて兵士を敵の船に送りこむことができるもの。これによって戦い方が接近戦に変わっていったのです。
いくつかの海戦に勝利した共和制ローマは、アフリカに上陸。しかし紀元前255年の「チュニスの戦い」でカルタゴに大敗。これで息を吹き返したカルタゴは反撃に出て、紀元前249年にはハミルカル・バルカ将軍のもとでシチリア島をほぼ制圧することに成功しました。
ところが紀元前244年、ハミルカル・バルカ将軍と対立するハンノ・ボミルカルがカルタゴの実権を握ると、ハンノは戦争の終結が近いとして海軍を解体してしまうのです。この間に共和制ローマは力を取り戻し、紀元前241年にカルタゴを撃破。ハミルカル・バルカ将軍も降伏を余儀なくされ、第一次ポエニ戦争は終結しました。
この結果、共和制ローマはシチリア島を獲得し、地中海の覇権国に。その一方でカルタゴは領土を失い、多額の借金を背負うことになったのです。
紀元前219年から紀元前201年まで続いた「第二次ポエニ戦争」。ハミルカル・バルカ将軍の子ども、ハンニバル・バルカが活躍したことから、「ハンニバル戦争」とも呼ばれています。
第一次ポエニ戦争で敗北した後、ハミルカル・バルカ将軍は国力を回復するためにイベリア半島を制圧します。彼の死後、あとを継いだ娘婿のハスドルバルは、共和制ローマに対して、イベリア半島におけるカルタゴ植民地を承認させます。さらにエブロ川を境に不可侵条約も結びましたが、紀元前221年に暗殺されてしまいました。
その後継者となったのが、ハミルカル・バルカの子ども、ハンニバル・バルカです。幼い頃から第一次ポエニ戦争での屈辱を聞かせられ、共和制ローマに対して憎悪の念を抱いていたそう。紀元前219年に、共和制ローマの同盟都市サグントゥムを攻撃します。
これを受けて共和制ローマがカルタゴに宣戦布告。第二次ポエニ戦争が勃発したのです。
共和制ローマを倒すためには、イタリアへの侵攻が欠かせません。しかしカルタゴは第一次ポエニ戦争で地中海の制海権を失っていたため、海上からの侵攻は不可能です。
そこでハンニバルは、アルプス山脈を越えてイタリア半島に侵攻するという策に出ます。しかし彼らがアルプスを越えた9月はすでに冬季で、出発時に4万人いた兵士はイタリア到着時に2万6000人に、30頭いた戦象は3頭になるなど、かなり過酷な行軍となりました。
カルタゴは大きな犠牲を払ったものの、アルプスを越えてくるとは想像していなかった共和制ローマに衝撃を与えることに成功します。南下を進め、イタリア全土で猛威を振るいました。紀元前216年には、カンナエでの戦いで2倍の大軍を擁する共和制ローマを撃破します。
共和制ローマは、クィントゥス・ファビウス・マクシムスとマルクス・クラウディウス・マルケッルスの2人を執政官にし、態勢の立て直しを図りました。ハンニバル軍とは直接対決を避けて持久戦に持ち込み、シチリア島やイベリア半島などを攻撃して外から切り崩す戦略を採用。持久戦を担当するマクシムスは「ローマの盾」、シチリア攻撃を担当したマルケッルスは「ローマの剣」と呼ばれました。
さらにハンニバルの本領であるイベリア半島には、スキピオ兄弟の軍隊を送り、紀元前211年には開戦の原因だったサグントゥムを攻略します。
スキピオ兄弟はバエティス川の戦いで亡くなりますが、弟のプブリウス・コルネリウス・スキピオの息子、スキピオ・アフリカヌス(後の大スキピオ)があとを継ぎ、紀元前209年にはカルタゴ植民地の首都カルタゴ・ノヴァを攻略。イベリア半島を制圧しました。
紀元前204年、スキピオ・アフリカヌスはアフリカに上陸。カルタゴもハンニバルを呼び戻し、両軍は紀元前202年にザマで激突します。この戦いにハンニバルは敗れ、カルタゴの陸上戦力は壊滅。第二次ポエニ戦争が終結しました。
カルタゴは、独立こそ認められたものの、アフリカ以外の海外領土を放棄させられたうえ、軍船や戦象など軍備の保有を制限されます。共和制ローマの許可なく戦争をすることも禁じられました。
紀元前149年から紀元前146年まで続いた「第三次ポエニ戦争」。
第二次ポエニ戦争によって数十万人の犠牲を出した共和制ローマは、敗戦から50年ほどを経て、経済的な復興を遂げつつあるカルタゴへの強硬派が台頭していました。
大スキピオはすでに失脚。彼を追い込んだのが、政敵だったマルクス・カトーです。マルクス・カトーは、どんな話題であっても最後には必ず「ところで、カルタゴは滅ぼされなければならない」という言葉で締めくくるほどの強硬派でした。
一方のカルタゴは、隣国のヌミディアからくり返し国境侵犯を受けていました。第二次ポエニ戦争によって軍事行動を禁じられていたため、共和制ローマに仲裁を依頼しますが、その制定は常にヌミディア側に有利なもの。この状況に耐えられなくなったカルタゴは、無断で軍を招集し、ヌミディアと交戦します。共和制ローマは、これを講和条約違反だとして、戦争の準備を始めました。
カルタゴは300人の人質を差し出すなど低姿勢で交渉に臨みますが、共和制ローマ軍はアフリカに上陸。すべての武器と防具の引き渡し、さらに首都を内陸に遷すことを要求します。これは海洋貿易を主とするカルタゴにとって、死刑宣告に等しいものでした。
要求を拒否したカルタゴを、共和制ローマ軍は完全に包囲。カルタゴは3年間耐え忍んだものの、紀元前146年に陥落。建国から668年で滅亡することになります。生き残ったカルタゴ人は5万人ほど。全員が奴隷として売り払われました。かつて栄華を誇ったカルタゴの街は約2週間ですべて焼きつくされ、周辺の土地には作物が実らないよう塩が撒かれたそうです。
- 著者
- 長谷川 博隆
- 出版日
- 2005-08-11
後世の軍略家に多大なる影響を与えた、第二次ポエニ戦争の英雄ハンニバル。誰も思いつかなかったアルプス越えを決行し、カンナエでの戦いでは倍以上の兵力を有する共和制ローマ軍を撃破。滅亡寸前にまで追い込みました。
ハンニバルは、第一次ポエニ戦争の敗戦後、衰退するカルタゴと勃興する共和制ローマを見ながら育ちました。失策により、勝利目前で降伏の道を選ばざるを得なかった父の屈辱も共有していたでしょう。
本書は、そんなハンニバルの生涯と、彼がどのように戦ったのかを描いた作品です。可能な限り同時代の文献を引用し、天才と呼ばれた手腕や思考を明らかにしていきます。
- 著者
- 松谷 健二
- 出版日
- 2002-06-01
現代を生きる日本人にとってはなかなか想像のしづらいことですが、かつて世界にはたくさんの国家が興っては滅亡していきました。いまは形のないカルタゴも、そのひとつです。
フェニキア人の植民市として建国され、地中海の覇者となり、共和制ローマに滅ぼされるまでには多くの分岐点がありました。本書では、その歴史を淡々と、それでいてテンポよく語っています。
もちろンポエニ戦争についても、多くのページが割かれています。700年近い歴史を刻みながらも、滅亡への道を進んでいったカルタゴの悲哀を感じてみてください。