「百年戦争」が終結した15世紀のイングランドで起こった、「薔薇戦争」。ランカスター家とヨーク家という2つの貴族の権力争いで、およそ30年間続きました。この記事では、戦いの背景と、第1次から第3次までそれぞれの流れと結果をわかりやすく解説。あわせておすすめの関連本も紹介していきます。
1337年から1453年まで続いた「百年戦争」が終結した後のイングランドで勃発した「薔薇戦争」。百年戦争を開戦させた国王エドワード3世の血を引く、ランカスター家とヨーク家の権力闘争です。
期間は1455年から1487年のおよそ30年間。ヨーク公リチャードがヘンリー6世に対して反乱を起こしたことがきっかけで始まり、リッチモンド伯ヘンリー・テューダーがヘンリー7世として即位し、テューダー朝が成立するまで、3次にわたる内乱が続きました。
「薔薇戦争」という名称は、ランカスター家が赤薔薇、ヨーク家が白薔薇を紋章にしていたことに由来しています。ただしこの呼称は19世紀以降広く使われるようになったそうです。
「薔薇戦争」開戦の大きな要因を作ったのは、プランタジネット朝のイングランド王エドワード3世です。彼には長男であるエドワード黒太子のほかに成人した息子が4人いて、彼らにそれぞれクラレンス、ランカスター、ヨーク、グロスターという4つの公爵家を創設させました。この公爵家の子孫たちが国王位を巡って争うようになり、「薔薇戦争」が起こったのです。
エドワード3世は1377年に亡くなりますが、その前年にはエドワード黒太子が死亡していたので、黒太子の息子であるリチャード2世が10歳で即位します。しかし彼には子どもができませんでした。
当時のイングランドの王位継承は「長男子相続権法」にもとづいていて、エドワード3世の長男であるエドワード黒太子の血統が断絶した場合には、次男であるクラレンス公ライオネル・オブ・アントワープの血統が王位を継承することになっていました。本来であればクラレンス公のマーチ伯エドマンド・モーティマーが王位を継承するはずだったのです。
しかし、当時は「百年戦争」の最中で、戦況はイングランドが劣勢。「ワット・タイラーの乱」など民衆による反乱も頻発していました。さらにリチャード2世が国費を浪費する政治をしていたため、議会からの批判や有力貴族からの反発が高まっていたのです。
1399年にエドワード3世の三男であるランカスター公ジョン・オブ・ゴーントが亡くなると、リチャード2世はその嫡子であるヘンリー・ボリングブルックの領地を没収、さらに国外追放をしました。これに反発したヘンリー・ボリングブルックは、国王に不満を抱いている貴族たちの支持を受け、リチャード2世を廃位し、自らヘンリー4世として即位。ランカスター朝が成立したのです。
本来王位を継承するはずのクラレンス公エドマンド・モーティマーを支持する人はいませんでした。これが、「薔薇戦争」が始まるまでの背景です。
1413年、リチャード2世を廃位して即位したヘンリー4世が亡くなり、息子のヘンリー5世が即位しました。しかし、ヨーク公のケンブリッジ伯リチャード・オブ・コニスバラがヘンリー5世を暗殺して、妻の弟のマーチ伯エドマンド・モーティマーを国王に擁立しようとする「サウサンプトンの陰謀事件」が発生します。
これは多くの貴族が加担した陰謀でしたが、旗頭として担ぎあげられたマーチ伯エドマンド自身がヘンリー5世に密告して露顕。ケンブリッジ伯リチャードは斬首刑となります。
国王への忠誠心を示したマーチ伯エドマンドですが、子どもができないまま1425年に死去。彼が有していた王位継承権は、姉のアンとケンブリッジ伯リチャードとの間に生まれた子ども、ヨーク公リチャードに相続されることになるのです。
1422年にはヘンリー5世が急死し、生後わずか9ヶ月のヘンリー6世が即位しました。
1429年、イングランドが包囲していたフランスのオルレアンが解放されると、イングランドの宮廷内は和平派と主戦派に分断され、権力闘争が激しくなります。和平派の中心になったのが、ヘンリー5世の従弟にあたる第2代サマセット公エドムンド・ボーフォートという人物。主戦派の中心となったのが、ヨーク公リチャードです。
両者の権力争いは熾烈を極め、追い詰められたヨーク公リチャードは、1455年に国王のヘンリー6世に対して反乱を起こします。これが、「薔薇戦争」勃発の瞬間です。
「第1次内乱」は1455年から1468年まで続きます。一進一退の攻防のなかで、ヨーク派はヨーク公リチャードや次男のラトランド伯が戦死。ランカスター派もサマセット公エドムンド・ボーフォートら主要な人物が戦死します。
戦いの過程でランカスター派は略奪行為を頻繁におこない、ロンドン市民からの支持を失っていきました。その結果1461年に、ヨーク公リチャードの跡を継いだ長男ヨーク公エドワードが、ヘンリー6世に代わってエドワード4世として即位します。
3月29日には「薔薇戦争」最大の戦いとなる「タウトンの戦い」が起こり、ヨーク派が勝利。ランカスター派は大きな犠牲を出し、ヘンリー6世は王妃を連れてスコットランドへ逃亡します。しかし1465年に捕らえられ、ロンドン塔に幽閉されることになりました。
1468年、ランカスター派の最後の拠点だったウェールズ地方のハーレフ城が降伏し、「薔薇戦争」の「第1次内乱」はヨーク派の勝利で収束したのです。
「第2次内乱」は1469年から1471年まで続きます。鍵を握るのは、ヨーク派の重要人物であり、エドワード4世擁立の立役者として知られたウォリック伯リチャード・ネヴィルという人物。彼は「第1次内乱」を経てイングランド最大の土地所有者となっていて、絶大な権勢を誇っていました。
ウォリック伯は親フランスという立場をとり、エドワード4世とフランス王族の縁談を進めていましたが、エドワード4世はランカスター派のエリザベス・ウッドヴィルと結婚してしまうのです。王妃エリザベスの親族を重用し、エドワード4世とウォリック伯との関係は徐々に悪化していきました。
これに対しウォリック伯は、エドワード4世の弟であるクラレンス公ジョージと盟約を結び、反旗を翻します。これが「第2次内乱」の始まりです。さらにウォリック伯は、フランス王ルイ11世のとりなしでランカスター派の中心人物であるマーガレット王妃と和解。娘を嫁がせました。
エドワード4世が反乱を鎮圧するためにロンドンを離れていた隙に、ウォリック伯はロンドンを占領。そして幽閉されていたヘンリー6世を復位させてしまうのです。
これによってエドワード4世はブルゴーニュへの亡命を余儀なくされましたが、ブルゴーニュ公シャルルの支援を受けて体勢を立て直すと、1471年にイングランドへ再上陸を果たしました。ウォリック伯を見限ったクラレンス公と合流し、4月にはロンドンに入場。ヘンリー6世を捕らえます。
同4月、エドワード4世とウォリック伯は「バーネットの戦い」で対決し、エドワード4世が勝利。ウォリック伯は戦死します。
またウォリック伯と同盟を結んでいたマーガレット王妃とエドワード王子は、「テュークスベリーの戦い」で壊滅。マーガレット王妃はロンドン塔に幽閉され、エドワード王子は処刑されることになりました。
5月には捉えられていたヘンリー6世も殺害され、「第2次内乱」は終息しました。
「第3次内乱」は、1483年から1485年まで続きます。きっかけは、1483年にエドワード4世が急死したことです。王位を継承したエドワード5世は12歳で、王妃の親族であるウッドヴィル家のもとで養育されていました。
ウッドヴィル家とエドワード4世の弟であるグロスター公リチャード、そして古くからの側近だったヘイスティングス卿との間で権力闘争が起こったのです。
この戦いに勝利したグロスター公が、エドワード5世に代わってリチャード3世として即位することになりました。12歳のエドワード5世とその弟は、この時に殺害されたと考えられています。
リチャード3世の即位に対し、バッキンガム公ヘンリー・スタフォードが反乱を起こします。彼が擁立したのが、「第3次内乱」の鍵を握るランカスター派のリッチモンド伯ヘンリー・テューダーという人物です。
ヘンリー・テューダーの母であるマーガレット・ボーフォートは、エドワード3世の三男で初代ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの曾孫にあたり、父の父エドマンド・テューダーはヘンリー6世の異父弟にあたります。ただヘンリー4世によってこの血統の王位継承権は排除されていました。
そのためマーガレット・ボーフォートは、ヘンリー・テューダーと、エドワード4世の長女でヨーク家の相続人となっていたエリザベス・オブ・ヨークとの婚約を成立させるのです。
バッキンガム公の反乱自体は失敗に終わりましたが、その残党がフランスに亡命しているヘンリー・テューダーの元に集いました。ヘンリー・テューダーはフランスの援助を受けつつ、1485年にウェールズに上陸します。
「ボズワースの戦い」でヘンリー・テューダーとリチャード3世が対決。勝利したヘンリー・テューダーはロンドンに入り、ヘンリー7世として即位しました。
こうしてテューダー朝が成立し、「薔薇戦争」が終結したのです。
翌1486年には、ヘンリー7世がエリザベス・オブ・ヨークと結婚。ランカスターとヨークの2つの王家が統合されます。赤薔薇と白薔薇を組み合わせた、新しい「テューダー・ローズ」が紋章として扱われることになりました。
ランカスター家とヨーク家という2つの王家の権力闘争。最終的に勝ったのは、ランカスター家の傍流であったテューダー家のヘンリー・テューダー(ヘンリー7世)です。
テューダー家はウェールズ地方の発祥で、かつての君主の血を引く家柄。しかしヘンリー・テューダーの祖父はイングランド王ヘンリー5世の妻のキャサリン・オブ・ヴァロワの秘書を務める、下級貴族に過ぎませんでした。
テューダー家の運命が変わったのは、この祖父が、主人であるはずのキャサリンと結婚したためです。2人の間に生まれた子どもはヘンリー6世の異父弟ということになり、テューダー家は王家に連なる上級貴族となりました。
2人の子どものひとりエドマンド・テューダーが、ランカスター家のマーガレット・ボーフォートと結婚。そして両者の間に生まれたヘンリー・テューダーが、ヨーク家のエリザベス・オブ・ヨークと結婚したので、テューダー家は2つの王家を統合したことになったのです。
大規模な権力闘争だった「薔薇戦争」の勝者は、テューダー家。ヘンリー・テューダーはヘンリー7世となり、王権の強化を図って絶対王政の地盤を固めていくことになります。
- 著者
- トレヴァー・ロイル
- 出版日
- 2014-07-24
イングランドを代表する劇作家、シェイクスピアにも題材としてとりあげられている「薔薇戦争」。本書は、シェイクスピアの作品を軸に、30年間の戦いを通史として解説した一冊です。
似たような名前が多く登場する「薔薇戦争」は、歴史を学ぶ人にとっては厄介な面もあります。しかし彼らの策略と、ドラマチックな展開は、知れば知るほど深堀りしたくなるはずです。
中世ヨーロッパ、特にイングランドに興味がある方におすすめの作品です。